第19話 指先
四人で暮らすようになってから、一人の時間が増えた。
たとえば、今まで何かを警戒してロザリアと離れたがらなかったジュリアが、ヴァレリーには任せられると判断したようで、鍛錬や買い出しなどに一人で出るようになった。
女性ではなく、男性の姿を始めたことも関係しているのかもしれない。
おそらく以前までなら「女性らしく見えるために」そこらの女子より抑えめだった行動も、今では躊躇する理由がない。街中を走り抜けたり、夜の少し遅い時間に家に帰ったり、女装のときにはしなかった行動が増えてきた。
一方で、ヴァレリーとロザリアが一緒にいることも増えてきた。
学校に行くつもりもないし、同年代の友達なんかいらない、と言い張るロザリアの為なのか、ヴァレリーが突然近所の子どもを集めての魔法講座を開始したのである。一番最初こそ乗り気そうではなかったロザリアも、二、三回目にはしっかりと参加するようになっていた。
こうして。
ジュリアが外に出て、ヴァレリーが店番をしている間、ラナンには一人の時間が出来るようになった。
それ自体は歓迎すべきことであるし、別に暇ではないのでやることはいくらでもある。
しかし、今まで何をするにしてもそばにあった人の気配がないというのは、妙に気の抜けるものであり……、外回りの仕事が意外に早く終わって帰ってきたその日、ラナンは共有リビングにあるソファでぼんやりと過ごしていた。
(お茶……、自分ひとりのために淹れるのは面倒だしもったいないし。もうすぐ暗くなりはじめるだろうけど、灯りももったいない……)
今までなら、少し喉が渇いたなと思ったらジュリアがお茶を差し出してきていた。暗いと思う前に灯りを燈してくれた。
弟子だから気が付いて当然なんです、とは言っていたけれど、思えばずいぶんちやほやされていた気がする。世話をされるのが当たり前になりかけていたせいで、今は何もかもが億劫だった。
「そんな場合じゃないか。ご飯でも作ろう」
声に出し、勢いをつけて立ち上がる。
気がかりはいくつもあって、ヴァレリーと話し合いたいのはやまやまなのだが、一人の時間以上に二人きりになる時間がない。まったくない。何故かいつも邪魔が入る。そろそろそちらも真剣に考えないと、とまわらない頭で考えてから、部屋を横切りカウンターを越えてキッチンへと足を踏み入れた。
*
ペールブルーのタイル張りの作業台に人参、じゃがいも、葉物野菜やビーツを適当に並べる。
皮をむき、切り刻んで塩漬け肉を加え、塩と胡椒とハーブで味を調えたスープを作るつもりだ。丸型の雑穀パンを切り分け、チーズもつけておけば晩御飯は十分だろう。
さらっと献立を頭に描きながら人参の皮を小型ナイフでむきはじめた、そのとき。
チリっと指先に痛みがはしった。
「っ」
息を呑んで、ナイフを台に置く。
左手の人差し指の先に、玉のように真っ赤な血が小さく盛り上がっていた。
(ぼんやりしているから)
溜息をついて布巾で拭き取ろうと右手をさまよわせる。
その間に、血が流れないように上向けて動きを止めていた左手首が捕まえられた。
なんだろうと思う間もなく、傷ついた指先が柔らかく温かなものに包まれる。
頭が働いていないままそちらに目を向けたラナンは、そこに立つ人物を見て反射的にぐいっと身を引いた。
手首をガッチリと掴まれていて、ほとんど距離を置くことはかなわなかった。
「ジュ……リア!? 何してるの!?」
責める響きの声に対し、ジュリアは落ち着き払って唇からラナンの指を引き抜き、答えた。
「血が出ていたので」
「食べたよね!? いま、僕の手を食べた……よね!?」
信じられない思いをこめて確認するラナンの大きく見開いた瞳を見下ろし、ジュリアは低い声で答えた。
「舐めただけですが」
「なんで……!?」
「血が出ていたので」
「気持ち悪いんだけど!?」
思いっきり言い返したら、沈黙が訪れた。
無表情を保っているように見えるジュリアだが、さすがに二年の付き合いもあり、落ち込んでいるのは伝わってくる。
怒り過ぎたかな、と謝りたくなるのだが、いやまてまてと自分の中で検討会がはじまる。
(だって……。ええっ……? ふつう驚くよね? いや……気持ち悪いよね……? 背後から無言で近寄ってきて指舐めるっておかしくない!?)
結論としてはおかしいし、自分は謝る必要はないとなるのだが。
ジュリアは手首を未だにしっかりつかんだままどんどん表情が沈んでいく。
「そういうの……、変だと僕は思うんだよね。他の人にもしちゃだめだよ? びっくりされるからね?」
慎重に声をかけてみたのだが、なぜかジュリアは目を細めてほとんど睨みつけるような眼光を向けてきた。
「他の人になんかしません。お師匠様だけです」
「ああ、まあそれなら……。いや、違う違う。僕に対してもあんまり良くないよね?」
「何がですか?」
「そこから!? 何がって……ほら、びっくりしたし。余計に怪我するかもよ?」
「ナイフから手を離したのは確認しました」
「いやいやそこまで冷静にこっちの動き見ていたなら、せめて声かけよう!?」
思わず勢いよく言ってから、ラナンははあっと肩が上下するほどに大きく呼吸した。
「では」
ジュリアが、不意に不穏な呟きをもらした。
何か悪いこと考えているな、と思う間もなく手首にきゅっと力が加えられて、足がもつれたように一歩引き寄せられる。
「次回から宣言はします。指を舐めて血を吸ってきれいにします、って」
「おーかーしーいからねっ!?」
舐めて吸うってなんだよ!? と思ったそばから再び指をぱくりと口に含まれてラナンは固まってしまった。
舌のあたたかな感触と、チリチリとした痛みを吸い上げられる感覚がまざまざと感じられて、ぴくりとも身動きができずに石となっていた。
やがて、ジュリアが唇を開き、手首も放してラナンを解放する。
どこか不敵な表情を浮かべてそっけなく言って来た。
「ぼんやりしすぎでは?」
「家だよ!! 家の中でぼんやりして何が悪いんだよ!!」
ものすごく理不尽な責めを受けた気がして、ラナンは力強く言い返す。
気にした様子もなく、ジュリアは顎をひいて小さく吐息した。
「悪くはないですけど。狙いたい放題ですし」
「狙」
ここまで攻撃的だと、逆に何か心配になってくるな、とラナンは軽く眉をひそめてジュリアを見上げた。
「どうしたの? 変だよ?」
言ってから、そこは「心配だよ」とか「何かあったの?」と聞くところだったかな、とちらっと思った。直に聞きすぎて、罵りと大差ない問いかけをしてしまった。
しかし、ジュリアは表面上さして気にした様子もなく、ただぎゅうっと眉を寄せて気難しい顔をしてラナンの目を覗き込んできた。
「うん。忘れているみたいだから一応思い出させてみますけど。お師匠様、俺に一度襲われてますからね? あんまり、気を抜かない方がいいですよ?」
何を言い出したのだろう、と見上げたままのラナンの額に軽く唇が触れるだけの口づけを落としてから、ジュリアはラナンの肩に手を置いて柔らかく押しのける。
「料理、続き俺がします。お師匠様は休んでいていいですよ」
キッチンから押し出されたラナンは、数歩進んで、がくりと膝から崩れ落ちかけた。
うっかり忘れかけていた出来事やら、指を包んだ湿った熱や額に感じた唇の感触が入り乱れて襲い掛かってきて、何かおかしなことを口走りそうな自分の口を慌てて手で覆う。
(なに……? なんなの? 僕は家でぼーっとしちゃいけないわけ……!?)
胸に浮かんだのは、ふって湧いた理不尽に対する、気弱な文句ばかりだった。
指先の切り傷が跡形もなく消えているのに気づいたのは、それより少し後のことだった。
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