第8話 K病院が妙な空気に

 スキー旅行から帰るとK病院内全体的に祥子を見る目が変わっていた。信ちゃんが、

「スキーに誘って、ごめんね」と謝ってくる。祥子は、

「なんでそんなことを言うの、楽しかったやん、退職前に良い想い出が出来たわ」と応えると、彼女はもどかしそうな表情をしている。そのとき祥子の背後から、

「本人、知らんどるから黙っといたりや」と言う声が聴こえる、振り向くと祥子の同級生であり放射線技師の深川君が通り過ぎようとしている。またそこに三橋さんも通り過ぎようとしていて、深川君は三橋さんに向かって

「なんで殴らんかったんや」と言う、三橋さんは項垂れながら通り過ぎる。

 別の日、祥子が退職に関わる手続のために病院内の廊下を往来しているとき、薬局の扉のところで中島が西澤に大声で怒鳴っているところに遭遇している。

「要らん、帰れ、お前は立ち入り禁止や」その隣には薬局長の菅沼さんの姿も見え、菅沼さんも一緒に怒鳴っている様にも見えた。

 そこで中島の名前と西澤の会社名を教えてもらいたくて、過去の電話帳から菅原さんに電話を掛けて確認した。すると、

「私は何も知らない」と答えるだけで、何も教えては貰えなかった。祥子はS病院からの経緯を説明し

「私は被害者ですよ」と訴えたが、声を震わせながら、

「知らない」と言うだけだった。被害者の個人情報は大衆に晒されているというのに、加害者の個人情報が守られているという実態に憤りを覚える結果となった。

 菅沼さんへの電話を切ってから気づいた事だが、中島が西澤に怒鳴る寸前に、中島は祥子の存在に気付いていた、だから怒鳴っていたのは演技かもしれない。一方、中島からぞんざいに扱われた西澤は苦悶の表情を呈して祥子の横を通り過ぎている。また、その時に祥子は中島から声を掛けられ

「写真のネガをボツにしてしまったから写真をあげることが出来なくなった、御免ね」と言われがっかりしている。中島から旅行中の写真は代表して撮ってあげるから各自では撮らないようにと言われていたのだ。

 祥子は人事課での手続きが終わって戻る途中、医局の前で西澤が杉山医師にバラバラに破かれた紙を投げつけられ、怒鳴りつけられて、追い出されている場面に遭遇している。

 別の日のこと、放射線科前の通路の奥が職員食堂であるため、昼食時間帯は大勢の職員が行き交っている、祥子が食堂に向かって歩いていると、放射線科のカウンター前で大黒が立っていて、上半身を放射線科の窓口に乗り出している。カウンター内では数人の技師がデスクに目を降ろしている、そこに祥子が近づいたとき大黒が発した。

「ほら、本人が来た」

 5人くらいの放射線技師が一斉に祥子を見た、その目は仰天していて、絶句の表情を呈している。大黒の目が黒々ひかり、口角を斜めに上げ、ヒヒヒヒッといった不気味な笑みを浮かべている。次に大黒は食堂から出てくる職員に気づいて、放射線技師に見せていた写真らしきもの引き抜いて、

「そうやそうや、お前にも見せたらなあかんな」と言って、大黒はその人の目の前に写真を翳す。その人の目も点になった。

 その人は祥子の元交際相手だった。結婚の約束までしていたが、前年の秋にその人が不機嫌になりだし、クリスマスの前に別れを告げられ破局していたのだ。祥子が転職を決意した切っ掛けでもある。


祥子は放射線科の人に

「何の話をしていたのですか」と問いかけるが、全員ソワソワして目を逸らす。

「あ、そやそや畑君にも見せたらなあかんな、あの人の御かげなんや」そう言って大黒は生化学室の方向へ歩いて行った。


 その日以降、放射線科の人たちから避けられるようになった。ストレッチャーに乗せた患者さんをお連れしても、

「廊下に置いといて」というだけで顔を見せない。「廊下に置いといて」と言われても転落させてはいけないので技師が出て来るまで待っている、しかし、技師が出てきても祥子の存在に気づくや否や、検査室内に入ってしまう。だから祥子は待ち続ける。そのうちに数人しかいない看護師が来てくれ、やっと患者さんを託すことが出来た、そのことを病棟婦長に相談している。

「放射線科の人は私を避けています、でも患者さんを廊下に放置して戻ることは出来ませんから、婦長さんの方から忠告しておいてください」

 その日以来、放射線科への患者さんへの輸送は任されなくなっている。また病院内で祥子に目を合わさなくなったのは放射線技師だけではない、血液検査技師や男性事務員達も祥子が近づくとソワソワして目を逸す。この違和感に共感してくれる人が一人いた、それは夏美である。

「この頃、病院の人達から無視をされているの」と夏美が言う

「私も」

「なんでやろうな・・・?」と二人で首を傾げていた。


 〝大黒が見せびらかしていた写真は、S病院婦人科で盗撮されたものに違いない″


 公立K病院は、祥子が結婚前まで暮らしていた地元の総合病院である。そこは祥子にとっては初めて働いた職場でもあり同級生も多いため感慨深い病院である。二十六歳の祥子は春になれば他府県の私立病院に転職することが決まっていたが、それはK病院が嫌いだったからではなく将来は地元に戻って再びK病院で働きたいと思っていたから、一度は別の病院で働いてみたかったのだ。それほど大切な場所だったのに、仲間だと思っていた人に裏切られていたのだ、祥子は崖から突き落とされたようなショックを覚えた。何も知らず愛想よく笑っていたけれど、周りの目には祥子はどう映っていたのだろうか、やはり性器にしかみえなかったのだろうか、そうとも知らずに祥子は五十五歳まで生きた、全身麻酔を要する手術を2回も受けているのに、生きることに執着していたのだ、祥子は自分が滑稽に思えてならず、「死にたい、死にたい」と呟いてみた、でも何故だろう、目の前を特急列車が過ぎても魂は吸い込まれようとはしない、本当に死にたいときは無意識に吸い込まれそうになることを祥子は知っている、けれども今は「死にたい、死にたい」と連呼していても魂は連動して来ない、むしろ列車の音はけしかけるように「奮い立て、奮い立て」とも「引きずり出せ、引きずり出せ」とも聴こえて来る、そして急ピッチに過去は掘り起こされていった。

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