31 実家は霊鑑寺の近くにあって、

 実家は霊鑑寺の近くにあって、市バスを下りてから坂を上らなければならない。裏庭にあんずの木が、表には木蓮の木がある。小さな一戸建てで、わたしの両親はしずかに暮らしている、筈だ。繊維会社勤めの父は、仕事だろう。母は、何をしているだろうか。まったく何も思い付かないことに罪悪感を抱いた。そんなにも長いあいだ、距離を置いてしまったのだ。緊張しながらスマートフォンに指をすべらせ、また消して、また通話に戻す。

 呼び出し音三回で、母の声がした。

「おかあさん? サクです」

 ──……サクちゃん? サクなの?

 母の驚いた声がする。わたしは一気に云った。

「ごめんなさい、長いあいだ連絡していなくて。あの、今度、行っても良い?」

 ──元気にしてるの? 来て悪いわけないでしょう! いつ来るの? 今日でもどうなの?

「今日……今日でも行ける」

 ──早くいらっしゃい。待ってるから。

「はい。あの……本当に、ごめんなさい」

 わたしが何を謝っているかを分からないであろう母は、大丈夫よ、と云った。

 

 市バスは204番。真如堂前。そして、坂。

 こんにちは、と云いそうになって、慌てて飲み込み、ただいま、と云って玄関の扉を開いた。

「サクちゃん! まあ、少し痩せた?」

「……お久し振りです」

「何を云ってるのよ。よかったわ来てくれて。お夕飯、食べていきなさいね」

 母の笑顔はつよくて、わたしはこのひとたちを傷つけたのかどうか、いつもよく分からなくなる。わたしのなかの後ろめたさの持ってゆき場がなくなる。

 和室にあがって、お仏壇の前に正座した。梨がお供えしてある。写真などはない。

「お盆の内に来たら、咲実が帰ってきていたのに」

 麦茶を持ってきてくれた母の口調をすこしだけ責められたように感じ、わたしはごめんなさい、と云った。

「……でも大人しくほとけさまになって帰ってくるなんて、あの子らしくないよ」

「そうね……この家になんか来ずに、町をふらふらとして、あっちへ戻っていったでしょうね」

 母の口調が少し湿った。ええ、咲実は、わたしのところに帰ってきていました。わたしはまた、ごめんなさい、と思った。

「二階見てくる。まだそのままにしてあるの?」

「そうね、大方のものは動かしてないわ。何しろあなたたち、本が大量でしょ、腰が重くなっちゃって」

 麦茶を飲んでから、二階に上がった。階段を挟んで両隣りの四畳半。片方がわたしの部屋。もう片方が姉の部屋。まず、上がって左の部屋に入った。オルガンと、南窓に向かった机、写真立て、東西の壁は一面本棚。母が置いたのか、植木鉢が幾つかあった。日当たりが良いのだ。のびのびと成長していた。

 反対側の部屋に移動する。西壁一面の本棚と、同じく南窓に向かった机。ドアや東の壁には沢山の絵葉書が貼られている。こちらの部屋は、ブラインドが降ろしてあった。薄暗いなかで、姉の遺したものたちを眺める。机の上のガラスの林檎の文鎮。飾り棚の上に乗っている、大理石のうさぎとかめ。ひとつ、ひとつに記憶があり、物語がある。

 ピカソのさかなの絵と、『こぐまちゃんとしろくまちゃん』の絵葉書の貼られたあいだに、一枚の写真を見つけた。壁一面ひととおり撫でるように見終わったあとだった。

 六歳……ほどだろうか。黒いワンピースに、黒いリボンを付けた、わたしたちの写真だった。

 この格好は法事だったのだろう。わたしは心持ち微笑み、咲実は顔つきをこわばらせている。家の前庭の、木蓮が満開になって、わたしたちはそれを背に並んで立っていた。私の手が、咲実の手を握っていた。咲実の手が、わたしの手を握っていた。わたしたちは、ふたりだった。

 夕暮れの光が息絶え、その写真がよく見えなくなるまで、わたしは咲実の部屋に座っていた。

 うまく生きられなかった咲実。学校に殆どいかなかった咲実。年かさの男と付き合い、彼の持家を最期の住処にした咲実。幻覚が咲実をさいなんだ。十九年間もそれに耐えたのだ。姉は、力尽き倒れた。

 

 夕食のとき、母は沢山の揚げ物を作り、わたしに食べさせたがった。

「痩せているわ。体調管理出来てる?」

「……ちょっとね、夏ばてしてたから」

「家に帰ってきたら、いつでも食事、作ってあげるのに」

「うん……仕事が単発だし……時間帯が普通じゃなかったり……ね……」

 わたしはかぼちゃの素揚げを頬張りながら、もごもごと云い訳をする。

 母はれんこんの素揚げを齧りながら、一番小さいサイズの缶のビールをひとくち飲み、さくら、と云った。

「咲良、あんまり咲実のことにとらわれてばかりだと駄目よ」

「……どうして? どうして、わたし、とらわれてるように見える?」

「顔色が悪いし、神経を尖らせてるように見えるわ。あの子に似てる」

「だいじょうぶよ」

 わたしは自分で頷いて繰り返した。

「だいじょうぶ、わたしはちゃんと生きていくから」

 わたしはそう宣言し、母は寂しそうに微笑んだ。咲実はどうしてああも生きづらそうだったのかしらね。わたしも俯いた。

「息も絶え絶え、だったよね」

 咲実は、よく、頑張ったよね……。

 

 やがて父が帰ってきてわたしを見て驚き、わたしは居心地悪く、長いあいだ帰らなくてごめんなさい、を繰り返した。晩酌の相手をし──咲良は相変わらずのんべいだな、とわたしが十五の頃からお酒を飲ませていた父は嬉しそうにわらった──、泊まっていきなさい、と云う母には断って、タクシィを呼んでもらった。玄関に立ってから忘れてはいけないことに気づき、

「そうそう、咲実の部屋にあった写真、一枚貰って帰っていい?」

 タクシィを少し待たせて、わたしは咲実の部屋に上がり、壁から写真をそっと剥がした。わたしたちふたりがいた証左。 

 帰宅してから草野くんに電話を掛けた。

 見つけたよ。咲実のいた証拠。探しにいってきたよ。実家に帰ったの。わたしたちの部屋、そのままにしてあった。写真も一枚貰って帰ったの。今度見せてあげる。

 草野くんは、うん、うん、と聞いてくれた。良かったね、写真、見たいよ。

 受話器を切る直前に、あ、と思い出した。

 ──何? どうしたの?

「泊まりにこない?」

 ──いいの?

「手伝って欲しいことがあるんだけど」

 

    

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