第6話 旅立ち
「なんで教えてくれなかったの!」
アプロディタ様の件について知っていたくせに、何一つ私に教えなかった親父の脛をゲシゲシと蹴りながらそう言うが、親父は全く痛そうにせずに、ジャンナさんにお土産で貰ったパンを食べている。この野郎、魔力で強化してるな。どうりで蹴っている私の足が滅茶苦茶痛いわけだ。
「うるせぇな…教えたところで、何か変わるか?変わらねぇだろ。」
「全然違う!どれだけ私が精神的に追い込まれたと思ってるの!」
私も魔力で足を強化してもう一度蹴ってみるが、根本的な魔力の差なのだろう、先程と結果は変わらない。
「そりゃあ、おめぇがアホなだけだ。普通に考えて、話にならねぇ位弱ぇガキに暗殺を頼むわけねぇだろ。ガキなら油断させれるとしても、もうちょっとマシなガキは腐る程いるのに、わざわざおめぇに頼むかよ、バカか?」
ちきしょう、ぐうの音も出ない。そりゃあ、完全に私の早とちりだし、勘違いだ。だけど、最初に親父が、説明さえしてくれていたら、そんな間違いも起きなかったのだ。
「それでも教えてくれたっていいじゃん…」
反論の言葉が出ない私は、むくれた顔をして、納得いかないというアピールをする。
「さっさと寝ろ。終わったことに時間を割く必要なんかねぇんだよ。」
と一方的に話を切られ、自室へと追いやられる。終わったことって…親父が説明も何もしてくれなかったってだけじゃん!という思いの一方、自身の勝手な思い込みもあったという自身の不手際もあったのも事実で、モヤモヤとしたやり場のない感情のままで、ベットに横たわり、枕に顔を埋め、声にならない叫びを上げる。枕によって押し殺された声が耳に反響する。
肺の酸素を思いっ切り吐き出した後、大きく深呼吸をして仰向けになる。ボロい天井をぼーっと眺め、気持ちと呼吸を落ち着かせていると、ジワリと涙が溢れてくる。どんなに腹を立てたって、何も変わらない。あのクソ親父は職人としての腕以外は、正直人としてどうなのだろうと思うことの方が多い。だから、私が大人の対応をしなければならないんだ。そう自分に言い聞かせ、涙を拭う。
本当なら私だって、街の子供たちの様に、友達を作り、遊び回りたい。両親に叱られたり、褒められたり、時には甘えたり…そういうことがしたい。別に魔導具を作るのは苦ではない、いや、何かを作ったりするのは楽しいと思える。でも、そんな日々で心の何処かに小さな穴が開いて、どうやってもそれが埋まらない様な感覚になる。親父や街の優しい人たちと接する自分を、どこか高い所から眺めている自分がいる様な、自分という別の存在が、自分を演じているのを見ている様な感覚になる時がある。島にいた頃の、自由気ままに、年相応の甘ったれて生きてた自分と、街に来て、優しい人たちの期待を裏切らない様に、歳不相応に振る舞い、いい子の振りをする自分のどちらが本当の自分なのだろう?
目を閉じると、ドロドロと答えの出ない思考の渦に飲み込まれていった。
チチチ、と鳥の囀りにパチリと目が開く。窓から差し込む日光が眩しい。私、あのまま寝ちゃってたのか…結局何の答えも、進展もなく、モヤモヤとしたまま眠りに落ちていたのか。
「はぁ…」
溜息をついてベットから起き上がる。明日の早朝にはシャンバルへ出発、今日中に荷物を纏めなければならない為、悠長にする時間は無い。昨日の今日で、親父に対しての苛立ちとか、そういう感情が無くなったわけがないが、逆にシャンバルへと行くことで、少しの間離れて暮らすことになる。そうすることでお互いに見えてくることもあるだろう。と、希望的観測で気持ちを切り替え、自室を出る。
リビングに出ると、汲み置きしてある水を二つのグラスに注ぎ、食卓に置く。
「朝食の準備終わりっ。」
相変わらず酷い朝食だ。…そう言えば昨日ジャンナさんに貰ったお土産があったな。パンは親父に食べられたけど、残っていたチーズ、ハムやソーセージは軽く火を通してから食卓に並べる。朝に水以外のものを胃に入れるのは何時ぶりだろう。昨日は昼・夕食とまともな食事にありつけたせいか、今日は胃が正常に活発に活動している。普段は空腹を通り越して、空腹を感じなくなっている空っぽの胃が、今日はキュウッと音を鳴らし、空腹を訴えてくる。
目の前の食事にありつこうと、椅子を引こうとした時、親父の部屋から音が聞こえる。起きたか、しょうがない、少し待つとしよう。
大した時間が経ったわけではないのに、やけに長く感じるのは、空腹感のせいだろうか。何度も食卓に並べたそれらに手が伸びそうになってしまう。
ガチャっという扉の開く音と共に、寝起きそのままのぼさぼさの頭で親父が出てくる。
「おはよう。」
ぶっきらぼうにそう言う。親父への怒りは、昨日に比べれば遥かに治まっているとはいえ、やはりまだ胸につっかえが残っている。
「ああ。」
対する親父も気のない返事を返す。最も、親父に関してはいつものことなのだが。
ソーセージをパリッと音を立てて食べると、挽肉に混ぜられた香辛料や香草の風味が肉汁と共に広がる。そこに一口サイズに切っておいたチーズを放り込むと、口内が幸せな空間となる。あー、美味しい。美味しいというのは凄い力を持つ。苛立ちの対象だった親父を目の前にしていても、そんなことよりもこの幸せな時間を心ゆくまで堪能したいという思いの方が勝り、他のことが些細なことと思える。『美味しい』は心の安定剤だ。
こんなにも素晴らしいお土産を持たせてくれたジャンナさんには感謝してもしきれないなぁ。はふぅ、と幸福な溜息が漏れる。幸福感に包まれながら食事を進めていく。時折間に挟むいつもの朝食である水で、口内に残った後味を洗い流し、爽やかさを与えてくれる立派な料理の様に感じるのだから不思議だ。
しかし、そんな幸福感もすぐに終わりを告げる。ああ、なくなっちゃった…こんなにもあっさりと食事が終わってしまうなら、朝食に全部出さずにもっと分けて食べればよかった。そんな後悔の念が残るけれど、それ以上に今は幸福感が勝っている。まあ、昼食の時間になったら後悔が勝るんだろうけど。チラリと親父の方を見ると、親父も食事を終えている。名残惜しいけど、片付けるとしよう。
サッサッ、と食器とコップを重ね、台所へと持って行くと、親父は工房へと向かう。親父とは一言も会話をしないまま食器を洗い始める。無心で食器を洗っていると、後ろでゴト、ゴトと食卓に物を置く音がする。工房から戻って来た親父が何かを置いたのだろう。少し気になるが、さっさと終わらせる為に振り向かずに食器を洗い続ける。
ふぅ、と軽く息を吐き、濡れた手をタオルで拭く。よし、一仕事終わった。次は洗濯と掃除、それが終わったら準備も始めるなくちゃ。次の行動に移ろうと、台所に背を向けると、食卓に置かれた、我が家には不釣り合いな、見覚えのある美しい宝石箱と我が家に似つかわしいズタ袋が目に映る。宝石箱の方は分かる。なんせそれの中身が今回届ける依頼の品だから。しかし、あのズタ袋は何だろう?
「リリー、こっち来い。」
親父が手招きする。私は返事はせずに移動し、食卓の前に立つ。
「おめぇが持ってくもんだ。」
そう言って、食卓に置かれた二つとは別に、親父が手袋を取り出す。私の愛用のリボンと同じ、真っ赤なそれを食卓に置かれる。
「これって、あの手袋?」
「ああ、そうだ。」
真新しいこれが、あの魔力を吸収する魔導具に触る為の手袋だということは、親父が私の為に作ってくれたのだろう。試しに手にはめてみると、少し大きいがしっくりくる。
「んで、これが例の品、まあ、見りゃ分かるか。」
パカリと蓋を開けられた宝石箱から、豪奢な装飾品が現れる。指輪やリング、ティアラにネックレス、イヤリング等、その一つで容易に魔力持ちを死に追いやる恐ろしい代物が合計で十二個。違うとは分かっていても、やっぱり暗殺ではなかろうかと勘ぐってしまう。
「で、最後だ。」
そう言って、ズタ袋を開ける親父。全く心当たりのないそれから出てきたのは、
「魔石?それにガラクタ?」
魔石はまだ分かる。しかし、それ以外のガラクタはなんだ?色や形にも全く統一性が無い。
「こいつは課題だ。帰ってくるまでになんか一つ、この袋の中の物だけで魔導具を作れ。」
「いや、何かって、普通、もっとお題みたいなのがあるんじゃないの?」
『なんでもいい』が一番困るのだ。
「それじゃあ意味が無ぇんだよ。ここに帰ってくるその時までに、おめぇが見聞きして、知ったこと、学んだこと、その全ての経験を形にしろ。」
さっぱり意味が分からない。そもそも、シャンバルへと行って、帰ってくるまでの間で、そんなにも経験することがあるのだろうか?全く、この親父は何を考えているのだろう。
「親父が何を考えてるのか知らないけど、なんでも思い通りになると思ったら大間違いだよ。」
呆れた様に言う私に、
「そりゃあ、分かってるさ。でもな、こればっかりは分かる。おめぇは絶対に最高の経験をして帰ってくる。」
自信たっぷりにそう言いきる親父。この時に、もっと親父を問い詰めておくべきだった、と私が後悔するのはあと少し後のことである。
半分のパンだけの味気ないいつもの昼食を終える頃には、粗方の荷物をあのショルダーバッグに詰め終えていた。ズタ袋はショルダーバッグの口よりも大きくて入らない為、見栄えが悪いがそのまま持っていくしかない。後はもう一度忘れ物が無いかを確認したら洗濯物を取り込んで…
私が頭の中で計画を立てていると、親父が珍しく外出すると言い出した。
「どこ行くの?」
「仕事だ。」
そう言って、玄関から出ていく。仕事?工房でするんじゃないの?親父の謎の行動が気にかかるけれど、後を追いかけて確かめる気にはならない。あれでも一応大人だし、大丈夫だろう。
今日やるべき事が終わり、手持ち無沙汰のあまり工房へと向かう。昨日、今日と二日間、仕事から離れてしまっているし、少し魔石でも触っておこうと思ったからだ。
工房の隅に置かれた二つの箱には、親父が選別した魔石が置かれている。右側は親父用の最高品質の物で、左側は私の練習用で安物だ。質、つまり純度の低い魔石は魔力の許容量が少なく、魔導石に加工し、道具のコアとして組み込んでも耐久力が無く、すぐに買い替えや修理を必要とする不良品にしかならない。その為、売り物にならないこの手の魔石は許容量以上の魔力を流し込むことになる。そうすることで魔石は砕け散り、魔粉と呼ばれるものを作る。キラキラと妖しい光を放つ魔粉は、魔導石と道具等の接着や、魔法薬の材料として使われる。最も、質の高い道具や薬を作る為には、魔粉も一級品が求められる為、親父の様な完璧主義者にとっては、私が使う様な魔石から生み出された魔粉は不要なのだ。
なので、質の悪い魔石を魔導石に加工しては親父の廃棄した魔導具を見ながら、その模倣品を作り、完成したら魔導石を取り外し魔粉にするということを繰り返す。魔粉は必要な分を残して売っている。因みに、質の低い魔石だと、親父曰く二級品、ということで破棄されている魔導具の足元にも及ばない残念な出来となってしまう。
以前、なんだか悔しくて、魔石が原因だと証明すべく、一度、親父に私と同じ条件で作らせてみたら遥か質の高い物を作れていたので、魔石ではなく私の腕が純粋に未熟だと証明されてしまった。それ以来、修理やバイトの仕事が無い時はこの作業を繰り返している。
「今日はどれにしようかな。」
廃棄された魔導具の山から適当に一つを手に取る。灯りの魔導具か…複雑な魔法が施された物ではないけど、単純故に腕の良し悪しが露骨に分かる魔導具だ。親父が帰ってくる前に完成させられるだろうか?
まあ、一番大切なのは魔導石への加工だから、そこまで終わらせればよしとしよう。そう思い作業を始める。
神経を集中し、魔石に魔力を注ぎ込んでいく。まるで、魔石の中に血が流れ始めた様に魔石内の魔力が脈打つ感覚が伝わり始めると、ごつごつとしていた魔石の表面が、少しずつ風化するかの様に自然と削られていく。安物故に、黒味がかった黄土色だった魔石が、徐々に鮮やかな黄色に変わっていく。灯りの魔法、光系統の魔法を流し込んでいる為、黄色になるが、炎系統の魔法だと赤、水系統の魔法だと青色になる。因みに、主に魔武具等で使われる魔導石は増幅器や発動器として使われる為、何かしらの魔法を流し込むのではなく、純粋に魔力だけを流し込んで魔導石を作り、その最後に増幅と発動の為の術式を組み込むことになるが、作り方はほとんど変わらない。
そんなわけで、光系統の魔法を流し込んでいる魔石が黄色い魔導石に変わっていく。その様子を見つめながら、魔力の量を調整していく。流し込む魔力が多過ぎると魔粉となってしまうし、逆に少ないと、魔力の伝達が悪い、粗悪品となってしまう。理想的とされる魔導石は、例えるならば、コップに水を、縁いっぱい、表面張力の限界まで注いでいき、零れない限界で止める。といった感じだが、実際はそれよりも遥かに難しい。コップの水と違い、魔導石の中の魔力は見えない。なので、私は、魔導石の色の変化でそれを判断しているが、どうしても親父の様に上手くいかない。
魔導石が淡く光始める。そろそろかな。チラリと見本にしている親父の魔導具の中で輝く魔導石を見る。まだ、あの輝きには足りないが、魔石質が違う。以前、親父が私と同じ魔石で作った魔導石を思い浮かべる。それでもまだ輝きが足りない。もう一息、微調整をしながら魔力を流し仕込むと魔導石の輝きが強くなってくる。
「あっ!」
ピシッ、と魔導石に亀裂が入り、さらさらと魔粉となって指先から零れていく。失敗してしまった…ふぅ、と溜息をついて机の上に散らばった魔粉を集めるようと、箒と塵取りを取りに行くべくと立ち上がろうとした。
「やり方を変えろ。」
親父の声が後ろから聞こえる。
「帰ってきてたんだ。」
気付かない程度には集中出来ていたということなのかな?
「少し前にな。んなこたぁ、どうでもいいんだ。リリー、おめぇ、目で判断してるだろ?」
私用の魔石を片手に、親父がそう言う。
「うん。でも普段は出来てるよ。今日は偶々だから。」
そんな私の言葉を聞いて、親父は見本として置いておいた魔導石をチラリと見て、
「目で真似るのは最初だけだ。指先の感覚で覚えろ。何百、何千回と魔粉になるまで魔力を流してみろ。魔導石と魔粉の境界、その一瞬が分かる様になるまでだ。」
そう言って、私の机の引き出しから革袋を取り出す。
「これからはこうやって魔導石を作る様にしろ。」
そう言うと親父は、革袋の中に魔石と手を突っ込む。しばらく無言の時間が流れ、
「こんな感じにな。」
革袋から、以前見せられた魔導石と同等の物が取り出される。その技に、目をパチクリさせる私に対して、
「一流の職人は、目じゃなくて、指先の感覚で覚えている。逆に言えば、そうならない限り一流にはなれねぇんだ。」
そう言って、革袋を私に向けて放り投げる。お手玉しながらそれを受け取り、また、目をパチクリとさせる。
初めてまともなことを教わった気がする。
「どれくらいで出来る様になる?」
「さあな。俺は二年で掴んだが、何十年とやっても出来ない奴らは何人も見てきた。努力と才能が上手く嚙み合わない限り、一流にはなれない。」
作業中以外で、親父の真剣な目を初めて見た。でもその目は、私ではなく、誰かを思い出している様に感じた。
その後、工房で渡された革袋と魔石を何個か、旅の荷物に詰め込んだ。旅の道中、もしかしたら、触る暇があるかもしれないと思ったからだ。
この日、夕飯時に私の好きな、スヴョークラのスープが食卓に並んだ。何処かへ出掛けていた親父が持って帰ってきたもので、親父は何も言わずに食卓にスープの入った鍋を置いていた。
「ありがとう。」
夕飯の席に着いた時、何も言わない親父に私がそう言う。
「ああ。」
ぶっきらぼうに空返事をする親父。ほのかに香るスヴョークラの甘味と、野菜と豚挽き肉の旨味が凝縮された温かいスープは、心も体もじんわりと温めてくれた。
旅立ちの日の早朝、普段よりも早く起き、身支度と荷物の最終確認を終えた私は、緊張で高鳴る鼓動を深呼吸で落ち着けながらリビングで待っていた頃、普段と変わらない、だらしない格好のままの親父が部屋から出てくる。その姿を見て、少しだけ緊張が解れた。
玄関の扉を、丁寧にノックする音が家の中に響く。その音に、ドキンと心臓が跳ね上がる。更に早まった胸の鼓動を落ち着かせようと、もう一度大きく息を吸い、立ち上がる。
「は、はい。」
荷物を抱え、緊張で擦れた声で、返事をし、扉を開ける。
「おはようございます。お迎えに上がりました。リリーヤ・ペチェノ嬢でお間違いありませんか?」
扉の向こうには、騎士団の制服を纏った、若く凛々しい金髪の女性騎士が立っており、そう言って、私に一礼した。
「あ…」
女性騎士の姿を見て、本当に旅立ちの時なのだと、急に寂しさと不安が込み上げてくる。それまでも、頭では理解していたし、寂しさや不安も十分にあった。だけど、それまでのその感覚とは比べ物にならない程、明白にそれを感じてしまい、目が熱くなる。溢れそうな涙を堪え、
「はい、リリーヤ・ペチェノです。ご足労いただき、ありがとうございます。」
震える声で、なんとかそう答える。そんな私を安心させる為か、騎士は柔らかく笑顔を見せ、片膝を付くと、
「アンナ・エルモレンコ、この身を懸けてお守り致します。」
私の目を見て、そう言った。私を見つめる瞳に、軽く頷くと、アンナさんは立ち上がる。
「大事な後継ぎだ。頼むぜ。」
「お任せ下さい。」
アンナさんは、私の背後から聞こえる親父の声に、真剣な瞳でそう返した。
「それでは参りましょう。お荷物をお持ちします。」
そう言って、私の隣にあるズタ袋を目で指す。
「は、はい。ありがとうございます。」
私が一言礼を言って、それを差し出すと、アンナさんは軽そうに、ひょいとそれを片手で抱え、親父に対して一礼し、綺麗な姿勢で回れ右をする。ああ、本当に行くんだ…玄関と道の境界、それを越える一歩が重い。ギュッ、と強く目を閉じ、覚悟を決め、勇気を出す。目一杯の強がった笑顔で、くるりと親父の方を向き、言う。
「いってきます!」
「ああ、いってこい。」
ぶっきらぼうだけど、いつもより感情のこもった声で、親父がそう言う。その言葉に背を押され、大きく一歩を踏み出した。
アンナさんと共に北の衛門まで歩いて行くと、何台もの荷馬車が並び、その周りには作業をしている騎士たちがいる。木製の荷台に幌が掛かっている普通に見かける荷物を運ぶ為の物だが、三台だけは仮眠設備の備わった、人を運ぶ為の馬車が用意されていた。
「リリーヤ嬢をお連れしました。」
馬車の周りで、騎士たちに指示を飛ばしている体格のいい男にアンナさんがそう告げる。
「ご苦労。」
男は短くアンナさんを労い、
「第六騎士団長アガフォン・エルマチェンコだ。」
がっしりとした手を私に差し出してくる。
「リリーヤ・ペチェノです。道中、お世話になります。」
私も恐る恐る手を差し出し、そう挨拶すると、ぐっ、と力強く手を握られる。貴族としての教育を受けてない私にとって、貴族の地位や身分の差はあまり詳しくない。しかし、彼、エルマチェンコさんが団長ということは、私と同じ土地無し貴族で、身分としては同格だが、家長の彼と令嬢の私では、彼の方が立場は上となるということは知っていた。
「長い旅路、退屈だと思うが我慢してくれ。」
「はい、大丈夫です。非力ですがお手伝い出来る事があれば、申し付けて下さい。」
エルマチェンコさんは大きく頷くと、
「よし、出発だ!総員抜かりはないな!」
と作業中の騎士たちに言う。騎士たちの返事を聞き、
「エルモレンコ、リリーヤ嬢の護衛を頼むぞ。」
私の隣に立つアンナさんにそう言う。
「はっ!」
アンナさんが短く返事をし、
「リリーヤ嬢、こちらへ。」
と私を誘導する。アンナさんは三台並ぶ人用の馬車、その最後尾の扉を開け、スッ、と手を差し出す。その手に右手を載せ、馬車に乗り込む。おお!貴族っぽかったよ、今の。と少しテンションが上がる。
私が乗り込んだのを見届けると、アンナさんも乗り込み、扉を閉める。護衛って、こんながっつり付くの?なんか落ち着かないなぁ…
アンナさんが扉を閉めてから、外から馬車の車輪が回る音がし始める。先頭が動き始めたらしい。車輪の音が増えていき、私の乗る馬車がゆっくりと動き始め、馬車が穏やかに揺れる。
「あの、外を見ていいですか?」
馬車に付いた小窓を指して、アンナさんにそう言う。
「ええ、大丈夫ですよ。」
アンナさんからの了承を得たので、閉ざされていた小窓の格子を上げ、外を眺める。北の衛門を抜けて行く馬車。ヴィドノへと、親父に連れられてやって来た時は、南の衛門から入ってきた。コペイク島から小舟で大陸、エルドグリース領の港へ降り立ち、荷馬車に安い代金で乗せて貰い、南の衛門へと辿り着いた。あの時は、初めて見る風景に心を躍らせ、希望に満ちていた。それから四年、私はあの時の様な、夢見る少女ではなくなった。それでも、初めてみる風景に、あの時の様な心が少しだけ蘇ってくる。シャンバル、その北の果てにいる大英雄アプロディタ・モコシュ・エルドグリース様。普段の日常からかけ離れた世界に、なんだか自分が物語の主人公になった様な気がして、不安もあるけれど、それ以上にワクワクとしている自分がいた。
―――――――――――――――――――――――――――――――
仕事を終え、ヴィドノの街を去る日。目が覚めてしまい、二度寝しようにも眠気も無かった為、街を散歩することにした。
明け方のぼんやりとした空。時間も時間だからだろう、人気のない朝露に濡れた石畳の街を歩く。空と同様にぼんやりと、ヴィドノの街へ来た初日に出会った少女を思い出していた。出来れば、この街を去る前に、もう一度会いたい。
あれから、露店の並ぶ広場にも、彼女の様な子どもが居そうな、隔離された区画へも赴いたが、その姿を見ることは無かった。
彼女は何処にいるのだろう。上着のポケットに入った菓子を触りながらそんなことを考えて歩いていたら、北の衛門付近まで来てしまっていた。すっかり宿から離れてしまった、そろそろ引き返すとしよう。そう思った時、衛門を抜けて行く複数の馬車と騎士の姿が見え、疑問に思う。
何故北の衛門なのだ?ヴィドノの北部には、小さな村が少しあるだけで、その先はシャンバルだ。あれだけの荷馬車を騎士たちが守りながら北へと向かう理由が分からない。北の村で飢饉でも起こったのか?いや、その程度の情報ならこの耳にも届いている筈だ。
そこで、ふと思い出す。魔石の一大産地であるシャンバル、そこには、採掘労働者と囚人がいる。不毛の土地であるシャンバルは恐ろしい魔法生物を狩る以外に食料を確保する手段は無いが、そんなことは危険過ぎるし、仮に魔法生物を狩ることが出来る人物がいるとすれば、そもそもシャンバルで労働をする必要など無い。それ程の力があれば傭兵や王侯貴族の近衛兵、騎士としての道があるからだ。つまり彼らの食料は、外部からの輸送に頼る必要がある。
疑問が解け、宿へと戻るべく元来た道を引き返す。空が明るくなり、眩しい。この情報は有用かもしれないな。ヴィドノにも複数の協力者を作れたし、初仕事にしては上々、あの人も満足してくれるだろう。
南の衛門からヴィドノを出ると、街道を抜けて行き、ドドル王国との国境付近にある合流地点へと向かう。
「よう、初仕事はどうだった?」
合流地点にへ辿り着くと、俺と同じ、黒い髪に黒い瞳、モバド人の男が馬車と共に待っている。
「ぼちぼちってところですよ。アシェルさんはドドル王国でしたよね、どうでしたか?」
「じきに大嵐が来るぜ。まあ、詳しい報告は帰ってからだな。行こうぜアロン。あの人が待ってる。」
「ええ、帰りましょう。俺たちの家へ。」
自由都市連合王国へ向け、馬車に乗り込む。『世界は時計だ』あの人はそう言った。そしてこの時計は錆び付いてしまっている。だから、俺たちはその錆を落とす為に定期的に油を差してやる。それだけでいい。今回の油は差し終えた。時計の針が動き始めるまで、何度でも繰り返そう。そして、錆が落ち、歯車が動く様になった時、あの人がゼンマイを巻いてくれる。
その時、止まっていた
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