第13話 アイデンティティが道標
アリゾナ州とユタ州の州境を果てしなく続く一本道に一台の観光バスがこの日の最終便として、モニュメント・バレーの景観が最も色濃く映る停留所に停車した。
時刻は午後5時を回っていた。
多くの観光客は、この最後の休憩時間を目的としており、競ってバスから降り立ち、夕陽がメサに隠れる絶景を記念撮影し始めた。
その中、デンガロハットを被った一人の白人青年がリュックを背中に下げ、夕陽を見遣ることもなく、その反対方向のまだ朧げな白い三日月の方へと向かって歩み出していた。
その青年はジョンであり、その姿は次第に広大な砂漠の中に消えるように見えなくなった。
ジョンはこの砂漠、荒野の匂いを知っていた。体内のどこかにセンサーが装備されているかのように自然と脚が動いていた。
ジョンがバスから降り、1時間も経つと夕陽が完全にメサの裏側に隠れ、やっと三日月がその存在を発揮するかのように弱々しい月光を放ち出した。
ジョンは自分が生まれたナバホ族の居住地を目指していた。
辺りは砂とサボテンだけの世界であり、人が歩む痕跡は全くなく、弱々しい月光で微かに見える砂地の足跡はコヨーテ、ガラガラヘビ、ジャックラビットといった何千年前からこの地で存在し続ける先住生物のものしか見当たらなかった。
ジョンは歩きながら自分の故郷に近づくのを風で感じ取った。
三日月の下の岩山ビュートが見え始めると、風が急に追い風となり背中を押し始めた。
そして、一つの旋風がジョンの左側を吹き抜ける際、
「ジョン、お帰り!」と耳元で囁いた。
「ただいま、身軽になって帰ってきたよ」とジョンが応えた。
「それでいいさ、気楽に歩いて来いよ!」と旋風はジョンを追い越し、手招きするよう先導して行った。
2時間ぐらい歩くと、岩山ビュートの麓に辿り着いた。
ジョンは初めて登るとは思えないように全く迷い躓くこともなく岩山を駆け登った。
岩山の中腹あたりの花崗岩の巨巌の上に腰を下ろし、ジョンはリュックからサンドイッチを取り出し、天空の星空を見ながら夕餉を摂った。
真上は麗しく夥しくもある星達がぎっしりと蛍の群のように光を放ち、真正面の夕陽が隠れたメサは宵闇に同化するようにその輪郭を消し始めた。
その間にある、広大な荒野では、ジョンに居場所を取られたかのように1匹のコヨーテが悔しそうに遠吠えを上げていた。
ジョンはリュックからシュラフとランタン、携帯ラジオを取り出し、リュックを枕にシュラフに潜り込んだ。
4月半ば、この荒涼たる岩山は深々とし、まだまだ冷気が頬を突き刺すように寒かった。
ラジオからは多国籍軍のイラクへの空爆の模様がひっきりなしに伝えられていた。イラクがクウェートに侵攻し丁度、1年が経った年であった。
ジョンが眠りかけた時、風達が遠慮がちに口笛のように岩山の穴から話しかけてきた。
「ジョン、どうして帰ってきたんだい?」
「ジョン、何かあったのかい?」
ジョンは風達に答えた。
「何もありゃしないよ。ただ…」
「ただ、自分を知りたくてね。」と
風達はジョンを気遣ってこう言った。
「知らなくて良いこともあるさ。」
「過去は見えないから、見ようとするなよ、ジョン!」
ジョンは風達の優しい気持ちを有り難く思い、ゆっくり説明した。
「心配するな。生い立ちの事などなんとも思ってないよ。僕が知りたいのは、血の中身さ。今こうして僕は生きている。僕の血は脈々と流れている。その根源を知りたいだけさ。」と
風達が首を傾げるように一瞬、風音を止め、また、口笛のように岩穴から囁いた。
「根源?先祖を辿るのか?」
「辿ってどうするのか?」
「ジョン、お前の血統を辿るのは、かなり骨が折れる仕事だぜ。」と
ジョンは風達に一言だけ言った。
「愛する人が戻って来るから…」と
風達は全てを了解したように口笛を吹くのを止めて、ジョンから去る間際に耳元にそよぎ、囁いた。
「夢が教えてくれるよ。」と
ジョンは風達の囁きに頷き、ゆっくりと瞼を閉じた。
ジョンは、浩子の愛を確かめる存在になるには、まずは、自分の存在を知るべきだと考えていた。
不遇な生い立ちなど関係ない。自身のアイデンティティを知りたいだけであった。
父親はどんな男で、母親はどこの生まれか、この血の中にどんな数の出来事があり、それを耐え忍び、何故、今も流れ続けているのか。血統書などは要らない。感覚、感触、直感、そう、自分を知るためのインスピレーションを求めていたのだ。
それは、必ず、同じ人間である浩子が辿る道標にもなると…
ジョンは眠りに落ちた。
「薄暗い蝋燭だけの小部屋に若い女が見える。その女はとても悲しそうな表情をしてる。隣には憲兵の服を着た男が立っている。憲兵の男はその薄暗い部屋から出て行った。女は紙幣を寝台の引き出しに入れ込んだ。娼婦小屋みたいだ。
画面が変わった。
玉蜀黍畑で大人達が収穫をしている。しかし、畑の殆どが風で薙ぎ倒されている。大人達は急いで収穫を終え、何かに怯えるように家に飛び込んで行った。
砂嵐「ダストボウル」が数キロ先に悪魔の雲のように牙を剥き出し、襲い掛かってくる。
家が揺れ、家の中にまで砂が押し寄せ、テーブルのパンは砂にまみれる。
画面が変わった。
トラックの荷台に人が将棋倒のように重なり合って寝ている。1人の少女が年寄りの女に抱かれている。
その年寄りの女は全く動かない。寝てるのか?いや、死んでいるみたいだ。
トラックが道路脇に止まり。死んだ老女から女の子を誰かが引き離し、死体を道路脇に蹴り落とした。
そして、トラックは何事もなかったように動き始めた。前方には山の頂上に夕陽が隠れようとしていた。
「西に行けば楽園が待ってる。」
と、誰かが叫んだ。
その時、ジョンは目を覚ました。既に向こう正面のメサの上には太陽が生まれ出していた。
ジョンは夢の物語を脳裏に置き止め、荷物をリュックに仕舞い込み、岩山を登り、その裏側の谷へと下って行った。
岩山ビュートに挟まれた谷は、人工的な砂地となり、足を踏み入れると下にコンクリートの敷地が覗いていた。
谷を挟む岩山の岩壁には、いかにも古来図を模倣したような壁画が描かれており、その中程当たりに枯れ木で作られた十字架が埋め込まれていた。
ここの前のコンクリートの下でジョンは産まれた。
26年前、ここには巨巌があり、その凹みの穴の中で泣き叫ぶ赤子、ジョンをバーハム神父が拾い上げた場所であった。
ジョンを産み落とした母親の遺骨はこのコンクリートの下に埋もれたままなのか、どうなのか、ジョンには分からなかった。
ジョンは岩壁に埋め込まれた十字架に十字を切り、ナバホ族の居住地に向かった。
岩山の谷道を登り直し、舗装された道路に出て、昨夜のメサの方角を向い、1時間ほど歩くとナバホ族居住地の案内標識が見えて来た。
案内標識のとおり道路を左折すると、観光名所と化した居住地の門が見えた。
門構の門柱にはバッファローの角が左右とも飾られ、色鮮やかな木彫りの彫刻が施されていた。
ここが、ジョンの父親が大衆の前で白人を冒涜したとしてリンチにより焼き殺された死刑台であった。
ジョンに感じるインスピレーションは何もなかったが、ジョンは母親の十字架に行ったように、取り敢えず、門柱に向かい十字を切った。
ジョンがここを訪れるのは2回目であり、その1回目と何も変わった様子はなく、整然と区画された家々が立ち並び、木彫りのロングホーンの土産屋が所々、営業を行っていた。
ただ、ジョン自身は前回と全く違っていた。故郷に戻ったという意識、白人至上主義によるリンチの犠牲者の子孫という蔑んだ気持ちもなく、しっかりとした目的を持って、この門をくぐり抜けた。
ジョンは土産屋に入り、安っぽいロングホーンのネックレスを一つ買い、その店の主人たる男にこう尋ねた。
「1967年のリンチ事件を知ってる人はいませんか?」と
店の主人は何食わぬ顔をし、ジョンにこう答えた。
「ああー、知ってるよ。あんたは新聞記者かい?」と
ジョンはこう言った。
「リンチで殺された男の息子です。」と
土産屋の主人はジョンの顔を見直し、こう言った。
「お前の家は無くなったよ。」と
ジョンは頷き、こう問い返した。
「僕の父や母のこと、よく知ってる人はいませんか?」と
店の主人はネックレスを小袋に入れジョンに手渡し、こう言った。
「酋長の家がこの先の公園の前にある。白い大きな家だ。見ればすぐに分かる。」と
ジョンはお礼を言い、料金を払おうとしたが、店の主人は受け取らなかった。
そして、ジョンにこう言った。
「間に合ってよかった。酋長はもう長くない。」と
ジョンは聞き直した。
「長くない?」
店の主人は手刀を喉に当て、こう言った。
「病だ。もう直ぐ、死ぬ。」と
そして、こう付け加えた。
「酋長は白人に心を売った。そして、精霊に呪われた。お前の親父も精霊になって、酋長を呪っている。早く行け!今なら間に合う!」と
ジョンは頷き、店を出て、早足で公園を目指した。
ジョンの背中には岩山の風達が追風となり付いていた。
「皆んな恨んでるんだよ。大地を岩山を谷を人を全てを白人に売り渡した酋長をな。」と風達が突風となり雄叫びを上げた。
ジョンは風達にこう言った。
「僕はそんなことは、どうでも良い。過去のことだ、お前らもそう言った。もう見えないものだ。それよりも聞くべき物語を聞かなければならない。僕が聞かなければ、奴(酋長)も死ぬことができないのさ」と
風達はジョンの言葉に納得して、突風を吹き止め、単なる追風としジョンの耳元で囁いた。
「ジョン、お前の言うとおりだ。過去は戻らない。」と
ジョンは優しく風達に説示した。
あのバーハム神父が赤子のジョンに捧げた聖アウグスティヌスのことばを
「過去はすべて神のあわれみにまかせ、現在はすべて神の深い愛情にゆだね、未来は神の偉大なる摂理、つまり神の私に対する計画に、すべてをゆだねる。」と
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