第11話 十字架の約束

 11月、ここ久住山の麓には赤や白のコスモスが満開となり、木々も紅葉して、1年の中で唯一、緑色の自然が他色に凌駕される季節となった。


 ジョンと浩子の淡い切ない密かな愛も次第に色鮮やかな愛と深まって行っていた。


 午前、ジョンは神父として神への祈りを行い、神への忠誠の証として聖書を精読した。

 昼からは、カーボウイとなり、放牧牛の管理をし、夕暮れ時に牛舎に戻し、浩子との密会の森へと向かう。


 浩子は、日中、竹田市の高校に通い、下校途中、久住町役場の前のバス停で降り、1人、里道を歩み、ジョンの待つ森へ向かう。


 2人の愛の場所は、あの楠木の根枝の広場であった。


 いつも、ジョンの方が浩子より1時間は早く着いており、ジョンは聖書を読みながら浩子を待っていた。


 ジョンがその広場に着く頃は、丁度、夕暮れ時であり、木々達の作り上げた森の天井から夕陽が点々と差し込み、紅葉した葉をレーザーのように突き抜け、その広場の空気は何色もの宝石色に輝いていた。


 もちろん、あの純粋な風達もジョンにまとわりつくように、そよ風として、ジョンの髪の毛を靡かせていた。


 この頃、ジョンは無心の状態で聖書に目を落とすことが出来なくなっていた。


 聖職者、神父として、神の使いとして、イエス・キリストの模倣者として、修道士として、「愛と優しさ」を万人に向けることが、どうしても出来なくなっていた。


 ジョンは何故、自分は神父になったのかを考えるようになっていた。


「異邦人と白人の混血児として命を与えられ、異邦人である父は白人達のリンチで惨殺され、白人である母親は狂人となり、枯れ谷の巌の中に自分を産み落とした。神父に拾われ、孤児院で育ったが、根強い人種差別、又は、貧富の差を目の当たりにし、苦悩に満ちた青春時代を送った。親も友も故郷も何も無い自分には全てを神に委ねるしかなかった。そうである。何も自分の為のことを神に祈る必要がなかった。自分がどうなりたいか、幸せになりたいか、そんなもの微塵のかけらもなかった。ならば、他人のため、隣人のため、無償の愛を捧ぐため、神をそばに一層感じるため神父になろうと思った。

 しかし、今は違う。ここ、久住に来てその思いは違って来た。浩子と逢って、その無償の愛は変化した。

 誰にも浩子を与えることは出来ないと感じた。神がお許しにならない「エゴイズム」、浩子を独占したい。」とした欲求が強まっていた。


 「俺だけの浩子。」


 ジョンが枯れ谷に産まれて、初めて欲した欲求であった。


 シアトルの神学校を出て、神父となって、まだ、半年…、ジョンは神への大罪を、神父としての秩序を犯した。


 ジョンは、それは時間的な問題ではないと考えていた。


 「インスピレーション」


 直感であり、神感であり、真の気持ちがジョンの心の深淵から初めて光を浴びた貴い感情であり、この感情は自身の人生の中で一度切りのものであり、光り帯びたこの感情を、何としても心の深淵の縁から這い出させる必要があると感じていた。


 ジョンは宝石色に輝く広場を見ながら、風達にこの考えを問うた。


「なぁ~、俺、神父、やめても良いかなぁ~、半年だぜ、でも、やっと、光が見えたんだよ。」と


 風達はジョンにこぞって言った。


「仕方ないさ、ジョン!神父になるのと浩子を愛するのが、先か後かの問題だけじゃないか!」


「俺達の浩子を渡せるのはお前だけだ、ジョン!他の奴に渡すな!」


「神父でもなくても神を信じていれば良いんじゃないか!この奇跡は朝の目覚めと同じだ。神に感謝しろよ!」と


 ジョンは、自分の気持ちを応援してくれる純粋無垢な優しい風達に感謝の言葉を放った。


「皆んなありがとう。俺は神を信じ、君達を信じ、そして、浩子を信じるよ。」と


 その時、浩子が枯葉を踏みながら、この広場に近づいて来る足音が聞こえて来た。


 すると、光のレーザーがスポットライトのように一点に集中し、風達が広場の落ち葉を綺麗に吹き飛ばすなど、森全体が、浩子の登場のための舞台飾りを始め出した。


 間もなく、いつものように、広場の外から浩子の祈りの声が聞こえて来た。


「神父様、今日も貴方と逢えて、私は何と幸せか、神に感謝します。」と


 浩子はいつも、この広場に入る前、一時、恋愛感情を抱かぬ聖女として、シスターの振りをし、神に前向きなお赦しを乞うのであった。


 そして、ジョンを見やると、鞄を放り投げ、両手を広げ、満面の笑みを浮かべ、ジョンの胸に飛び込んで行くのであった。


 ジョンはそんな浩子が愛おしくて堪らなく、しっかりと浩子を両手で受け止め、胸を寄せ合うように抱きしめて、甘い口付けを交わす。


 2人のこの逢引きに言葉は要らなかった。


 抱き合うことで、2人に今日、何があり、何をして、何を感じたか、全てが通ずるのであった。


 長い長い口付けを交わしながら、浩子は次第にジョンの胸の中深くに顔を埋め、目を閉じる。


 ジョンは、浩子を抱きながら、優しく艶やかな髪の毛を撫で、真っ白な頬にそっと掌を合わせ、この無条件の愛を捧げてくれる絶大なる唯一無二の味方、永遠に恋する女、いや、その存在自体を尊く想い、2人に「いのち」を与えてくれた神に改めて感謝をするのであった。


 この日、ジョンは先程の風達との誓いを朧げに浩子に問い出した。


「浩子、十字架の形は、何故、このような形か知ってるかい?」と


 浩子はジョンの胸に顔を気持ち良さそうに埋めながら、


「そんなの知らないよ。」と全く考える素振りもなく答えた。


 ジョンは浩子の顔を胸から離し、そして、浩子の綺麗な茶色の瞳を見つめこう言った。


「縦の線は、神との関係。横の線は、人との関係なんだよ。」と


 浩子はジョンが急に何を意図して言い出したのか分からないよう首を傾げた。


「僕はね、縦の関係より、横の関係を大事にしたいと思ってる。

 僕にとって、人との関係は、浩子でしかないんだ!」と


 浩子はジョンが予想していたとおりの質問をした。


「でも、神父様は万人を愛さないといけないんでしょ?」と


 そう言った浩子の表情には、どうにもならないやるせなさが滲んでいた。

 

 ジョンは浩子に言った。


「いいかい、浩子!僕は神よりも浩子を信じるからね。

 もう一度言うよ!

 僕は神よりも浩子を信じるから!」と


 浩子は「うん!」とニッコリ笑い大きく頷き、また、ジョンの胸に顔を埋めていった。


 ジョンは決心した。


 神父を辞めることを…


 そして、神父であった以上、この1人の人間を愛する「エゴイズム」を永遠のものにするため、イエス・キリストの言葉を心の中で何度も呟いた。


『愛する者を手放しなさい。

 もし、その人が戻って来なければ、初めから貴方のものではなかったのです。

 もし、戻って来れば、初めから貴方のものだったのです。』と


 この逢引きを最後に、ジョンは浩子の前から姿を消した。


 ジョンの行き先は教会関係者も誰も知らなかった。


 ただ、ジョンは神父を辞め、イエズス会から退会したとのことであった。


 周囲の教徒や住民らが動揺し、騒めく日々の中、浩子は一人、冷静であった。


 そう、浩子は感じていた。


 浩子とジョンとのインスピレーションは切れていなかった。


 浩子は、ジョンが最後に言った言葉をしっかりと受け止めていた。


「十字架の形…、『僕は神よりも浩子を信じる』…、私も神よりも貴方を信じる、私は貴方の胸に飛び込みに行きます。

 ジョン、私を信じていてね。

 必ず、私は貴方の元に行くから…」と

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