その前提条件 彼女の場合

 深川ふかがわ 美月みつきは目覚まし時計の音で目を覚ました。

 再び閉じようとする目をこすり、枕もとを探る。出てきたのはおもちゃのマジックハンド。手元のレバーを握ると、先端にあるプラスチックの指が握られる単純な仕組みのものだ。ただ、その機構は壊れて久しい。

 幼いころにプレゼントされたもので、美月にとっては思い出の品だ。


 ベッドの横にある窓のカーテンを開き、さらにガラス窓を開ける。その先にはまたガラス窓が見えた。

 隣の家とは距離が近く、美月の握るおもちゃの長さでも届いてしまうくらいだ。


 コンコン


 マジックハンドで向かいのガラスを叩く。この合図が恒例になって、もう何年経つだろう。

 程なくしてカーテンと窓ガラスが開き、少年が姿を見せた。

 少年の名前は浅香あさか 陽壱よういち


「おはよう」

「おはよういちー」


 陽壱から声がかかる。

 美月もそれに合わせて挨拶を返すが、あくびが混ざってしまった。

 少し恥ずかしい。でも、これもいつもの朝だ。


「じゃ、またあとで」

「はーい」


 陽壱が窓とカーテンを閉める。女子の着替えは見ないという、親しき仲でも気遣いをする彼なりの配慮だろう。

 そういうところは嬉しいけど、言ってくれれば見せてあげるのに。

 高校二年生は多感な時期だ。

 実のところ、美月は陽壱に恋をしていた。


 陽壱たち一家が隣に引っ越してきた際、同い年ということで意気投合してから十年以上。ほぼ毎日を一緒に過ごしてきた。男の子の遊びも、女の子の遊びも、いつも一緒だった。それを世間では幼馴染と呼ぶそうだ。


 小学校、中学校となってもその関係は続いていた。気の早い陽壱を追いかける美月という構図は、変わることがなかった。

 小学六年生の時、友人達に付き合っているとからかわれた。子供によくある一種の冷やかしだ。その時は、陽壱が男女の友情について主張したことにより事態は収束した。


 その一連の流れで、美月はある事実に気付いた。

(あ、私って陽壱のこと好きだ)

 付き合っていると周りに言われたとき、まったく不快じゃなかった。むしろ嬉しかった。そして陽壱がそれを否定した時、少し寂しい気持ちになった。

 仲の良い友達ではなく、男の子として好きなのだと自覚した瞬間だった。

 それからは以前にも増して陽壱の近くにいるように心掛けた。いつか気持ちに気付いてくれるように、いつか同じ気持ちになってくれるように。


 高校進学の際はとても大変だった。

 別々の学校に通うなど、美月にとっては言語道断だった。手を変え品を変え陽壱の志望校を探り、自分もそこを目指した。受験勉強という口実で一緒に過ごすこともできた。その結果、作戦通りに同じ進学先となり美月の心の安定は保たれることとなる。


 だが、気持ちに気付いて何年も経つが想いを伝えることだけはできなかった。男女の友情を信じる陽壱の気持ちを裏切りたくない。その時点で、自分は彼の近くにいる資格を失ってしまう。それは最悪のシナリオだ。

 いつか彼に恋人ができた時にも、自分の居場所は確保しておきたいという、はしたない狙いもある。

 だからこそ、想いを内に秘めたまま耐えようと考えている。それに、陽壱の隣はやっぱり居心地がいい。


 美月は猫柄のパジャマを脱ぎ下着を整え、制服のセーラー服に着替える。中学の時と大きくデザインが変わらないのは面白みがないが、スカートの丈は少し短く膝上にしてある。陽壱にはあまり効果がなかったようで残念だ。

 ボサボサの髪のまま、自室のある二階から階段を降り一階へ。


 洗面所で鏡を見る。そこには普通よりもちょっと劣ると思われる少女が映っていた。身長も体重も体型も平均的、胸は少しだけ平均以上かもしれない。顔は遺伝で仕方ないとはいえ高校生にしては幼く見える。細く絡まりやすい髪を櫛で整える。背中まで伸ばした髪は、いつか陽壱がロングヘアを好きだと言っていたから。今日はひとつに括っていこう。

 成績や運動についても、よくも悪くも普通の範囲内だけど自分は自分。美月はそう思うようにしていた。


 そんな美月だが、ただ一点、普通とは言えないものを持っていた。

 彼女は【察しがいい】のだ。

 のんびりとした性格とは裏腹に、相手の求めていることを直感的に理解することに長けている。ただし、その使い方が少々特殊だ。

 冷静な観察眼と的確な判断によって、面倒に巻き込まれそうになる前にそれを回避する。そうすることで、人の輪の中に入りつつも揉め事に参加しないという独自のポジションを獲得している。自分のペースを大きく崩されるのは得意ではない。

 もちろん仲の良い友人にはその能力を真っ当に使う場合もある。察することを状況に応じて使い分けできるのも、深川 美月という少女の特徴であるといえる。


 そんなところから、美月は敵を作らず、かといって味方も多く作らないような生き方をしている。女性にもモテる陽壱の近くにいても敵視されないのは、そのおかげともいえるだろう。当人もそれを自覚しているため、とても満足した生活を送ることができていた。


 ただ一点、どうしても気になることがある。

 陽壱が女性からの告白を断る台詞が、中学三年の半ば頃から変わったのだ。

 彼に好きな人ができたことを知った美月の心は、それ以降揺れ続けている。察しのいいはずの自分でもわからない。かといって本人に聞くのも怖くてできなかった。


 顔に軽く化粧水を付け、眉毛の形を確認する。

 身支度を終えた美月は、母親の握ったおにぎりを頬張りながら昨晩用意したおかずを弁当箱に詰める。

 母親はいつも「男を掴むには胃袋から」と言っている。その掴んだ男は、既に出勤しているようだ。

 美月もそれに倣い、高校に入ってから陽壱の弁当を作り始めた。その点では、学食のない高校に感謝している。誰かもわからないライバルには悪いが、牽制の意味もあったりする。


「いってきまーす」


 玄関のドアを開きつつ、母親に声をかけた。駅へ向かうバスの時間が迫っているのでちょっと急ぎ気味だ。

 玄関先では美月の想い人が待っていた。


「二回目のおはよー」

「おはよ」


 なるべく元気に声をかける。

 彼はいつもの調子で応えてくれた。それだけでも嬉しい。


「はい、お弁当。中身は内緒だよ」

「いつもありがとう」

「いいってことよー」


 これもお決まりのやり取りだ。

 最初の頃は全然うまくできなかった弁当を文句を言いつつ食べてくれた。今は多少上達しているから、きっと大丈夫だと思う。

 なんにせよ、残さず食べてくれることが美月を幸福にさせる。

 二人は連れ立ってバス停に向かった。


 さぁ、楽しくて苦しい一日の始まりだ。

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