決起

 眼前にいる男の存在にあふれていた怒りも静まって、振り上げていた拳もいつしか僕の身体の横に下ろされてただただ力いっぱいに握られているだけになり、僕はただただ狼狽するだけ。そして彼も同じだった。

「朔弥くん……君だったのか……あの時見つけた少年は」

 そう呟く彼の声は困惑と怒りが入り混じったような色を持ち、その声は僕のもやがかかったように曖昧だった記憶に一筋の光を差し込ませる。その光は次第に力を増し、僕の記憶に掛かった靄は一瞬のうちに消し飛ばされた。


――そして、すべて思い出した。


 僕があの時出会った人、助けてくれた人が彼であるということを。

「ふぅん、どうやら思い出したようだね」

「ええ」

 そう答えた直後、兵藤さんの表情が変わり、重く開かれた口からは

「君、迷子になった時に言ったよね? もうここには来るなって。駅に来た時にこう言ったよね? もう自殺なんかするなって。僕の言いつけを一気に二度も破って、どうしてなんだい?」

 そう問いが投げかけられた。

「理由が何か、ですって?理由なんか簡単ですよ。僕に生きている価値なんてないと判断したからです」

 ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべながらそう返答する。すると彼はまた、力強く僕の頬を叩いた。辺りに乾いた音が響く。

「生きる価値がないなんて、冗談でも寝言でも言うな!」

 いきなりの剣幕に僕は「ええ、はい」というような生返事しかできなかった。「君は普通の人よりも知っているはずだ。世の中には「生きたい」「死にたくない」そう思っている人がごまんといるんだよ。それはわかるよね? 駅にはね、いつもたくさんの人が来るんだ。寿命を全うされた人間が大半を占めているけど、君とそう年の変わらない人や、それこそ生まれて間もない子もいるんだ。これがどういうことかわかるかい?」

「ええ、わかります。死にたくないと思っていても、幼くして死んでしまう命があるってことですね」

「ああ、そうだ。それを君は捨てようとしているんだ。もうこんなことを言うんじゃないよ?」

「はい……わかりました」

 彼の怒りに満ちた声はいつの間にか子供を諭すような声に変わっており、その声は今まで死のうという一心で動いていた。でもその思いもいつの間にやら消え去っていて、もはやなぜ死のうとしていたのかと疑問に思うほどだった。


「ところで、どうしてまた君はこんなことをしようとしたんだい?」

 兵藤さんが僕に聞いてくる。今回ばかりは僕が十割十分悪かったから、真相を言う気にもなれなかったのだが

「その様子を見ると、海斗とかいうやつと蒼空っていう子の話かな?」

 その彼の言葉に軽く首肯して、話し始める。

「その……蒼空が、海斗とくっついたんです……」

「くっついた、とは? まさか交わったわけではなかろう」

「交わっては……いないと思います。また交際を始めただけだと……そう信じたいです」

「なるほど、でも君から話を聞く限り海斗君とくっつくような人ではないと思うのだが……」


「そうなんです。彼女が彼と付き合ったのには大きな理由がありました。彼女が彼のことを好き……という話ではなく、僕を助けるためだったんです。彼女なりの救済ということでしょう。「私が海斗と付き合えば一番近い位置から口利きができて、僕へのいじめもなくなる」とでも思ったのかもしれません。実際、いじめはなくなりました。でも、彼女がそのような思いを持って行動していたなんて、愚かな僕は気が付かずに、口汚く罵ってしまったんです。そして衝動的にここまで来た……というのが事の顛末です」


「なるほど。気付かなかった君も悪いが、蒼空さんが取った行動も悪手ではあったな。もう少しまともな方法があったはずだが、そこまで彼女には考えが及ばなかったってことだ。喧嘩にはなっていないだろうが、喧嘩両成敗ってやつさ」

 そう言う。うんうんと首を上下させると彼はまた口を開き、

「じゃあ、君にいい話を教えてあげよう」

 そう話し始める。

「遠い昔、盗みの疑いを持つ若い男がつかまっていた。盗んだものが盗んだものだから、刑事告訴も待ったなしかと思われていたんだ。でも、その若い男は訴えられるどころか、何もされずに解放された。なぜだと思う?」

「証拠が……十分じゃなかったから、ですか?」

「そうだ。この男には盗む動機も盗んだ後のメリットも何もなく、事件前後に家の周りをうろついていただけだと言う。そして問い詰めている時の彼の言動から怪しさと言うものが感じられなかった彼は、若い男を解放したんだ。帰り際にその若い男は理由を聞いたのだが、家の住人は「『疑わしきは罰せず』というラテン語のことわざがあるんですよ」とだけ答えて家の中に入って行ったとさ」

「……何が言いたいんですか?」

 話の内容を理解するほどの余裕は僕の脳みそには存在せず、反射的に質問する。

「ああ、長くなりすぎたかな。話を簡単にまとめると、本当の確証がない中で相手を疑うというのは野暮なことだという話さ。たぶんな」

「なるほど……?」

「君の話を聞く限り、この話が蒼空さんとのそれにも当てはまるところが多々あるんだ。それに、君は彼女を口汚く罵ったと言っていたけれど、彼女のことだから、それは君の本心じゃないことくらい気付いているはずさ。まだ彼女のことを信じているなら明日の朝にでも謝りなさい。わかったね?」

「はい、わかりました」

「よし、それでいいんだ」

 僕の返答に彼は満足そうな笑みを浮かべていた。

「じゃあ、下に戻ろう」

「わかりました」

 すたすたと歩き始める兵藤さんを追いかけて、僕は山を下って行った。

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