主戦派の鼓動


 怠惰の魔女は食事を必要としない。

 食事が煩わしいからだ。

 怠惰の魔女は呼吸を必要としない。

 呼吸が煩わしいからだ。

 怠惰の魔女は空間を気にしない。

 空間が煩わしいからだ。

 怠惰の魔女は時間を気にしない。

 時間が煩わしいからだ。


 フィアラ大陸の中央都市ギドルハットは、内戦の惨劇に荒廃していた。

 美しかった街並みは壊滅し、交易の中心としての活気は見る影も無い。

 エメリヒ・フローレス・カラヴァッジョは、ギドルハットの元国王ルドルフ・シャングラドの遺骨に深く謝罪した。ルドルフの望んだ一族の繁栄も、教会の修復も、果たすことが出来なかったからだ。

 現在、フィアラ大陸では二つの勢力が争っていた。

 色欲の魔女アンナ・ジャコフスカヤの元に集まる〈エルフ〉〈ドワーフ〉〈ビースト〉〈ラミア〉〈リザード〉の主戦派は、〈ヒト〉の支配するユートリア大陸に攻め入ろうと声を張り上げた。

 主戦派に抵抗するのは、ルドルフ王の娘レオナ・シャングラドの元に集まる〈オーガ〉〈オーク〉〈ホビット〉だった。

 レオナ・シャングラドは、始まりのエメリヒを除いて、最後の〈ヴァンパイア〉の末裔である。

 両者に与しない〈ゴブリン〉は、大陸の最北西で不気味に沈黙を続けている。

 内戦の発端はエメリヒだった。

 色欲の魔女アンナ・ジャコフスカヤの始末に失敗したことから、血みどろの内戦が始まったのだ。

 エメリヒは決して油断をしていたわけでは無かった。かつての仲間、アンナ・ジャコフスカヤの色欲の呪いの恐ろしさは、誰よりも分かっているつもりだった。分かったうえで、彼女を問題無く始末出来ると考えていたのだ。

 色欲の呪いは対象への愛が深まるほどに強力となる。その力は高まれば、大陸を滅ぼすほど強大に膨れ上がる事もあった。だが、あくまでも力が強いというだけの話である。呪いの発動したアンナは、自ら正常な判断を下せない。戦略も戦術も無く、ただただ、愛の為に暴れる化け物となるのだ。

 アンナの始末は、エメリヒにとって雑作も無いことのはずだった。むしろ、その時の彼の憂いは、新たに出現する色欲の魔女にあった。どんな愛の化け物が生まれるか、分かったものでは無かったからだ。

 全ての誤算は、怠惰の魔女オリビア・ミラーの存在である。

 オリビアは怠惰の呪いにかかりながらも、確かな自我を持っていた。更にアンナに対して、恋か、友情か、慈しみか、何らかの愛を持っているようだった。エメリヒはその事実に戦慄した。

 自我を持つ怠惰の魔女に、エメリヒの攻撃は全く通用しなかった。アンナに対しての攻撃も同様である。エメリヒには、それが怠惰の呪いの力だけによるものだとは思えなかった。どうにもオリビア・ミラーの瞳には、未来が見えているかのようだった。

 大陸の最南東で起こった最初の争いは、エメリヒの撤退に終わる。

 だがアンナは、最愛のオリビア・ミラーを攻撃したエメリヒに怒り狂った。逃げるエメリヒを追うと、両者の争いは大陸を業火に染めていった。次第に色欲の力を認めた、または恐れた種族たちはアンナに付き従うようになる。こうして主戦派と抵抗勢力で大陸は二分されたのであった。

 抵抗勢力はもはや風前の灯だった。

 最強の〈オーガ〉も圧倒的な兵力差に押された。更に彼らは、背後の〈ゴブリン〉にも気を取られている。〈オーク〉の半分は主戦派に寝返り、争いの嫌いな〈ホビット〉は戦争を辞めるように懇願する事しか出来ない。

 そもそも、色欲の魔女を倒す方法が無い限り主戦派は破れないのだ。エメリヒは抵抗勢力の敗北と同時に、ルドルフ王の娘レオナ・シャングラドを大陸の外へ逃がそうと考えていた。

 その後の世界がどうなるのか、エメリヒにも予想が出来なかった。


 王妃の寝室へと続く長い回廊。

 大理石の壁には鮮やかな薔薇の花が咲き誇った。薔薇は、ズラリと並ぶ裸の男性像の胸元を這うように、棘の蔓を伸ばしている。

 クラウディウス・プリニウスは、回廊から漂ってくる甘ったるい芳香に気分が悪くなった。立ち止まってふうっとため息をつく。回廊を守る兵士に片手を上げると、イザベル王妃の元へと急いだ。

 天使と神樹の彫刻に縁取られた寝室の扉は僅かに開いていた。

 クラウディウスは不快げに眉を顰める。寝室のベットの上で、執事と王妃の営みが行われている可能性があったからだ。

「失礼致します」

 クラウディウスは扉の外から挨拶をすると、銀製の持ち手を手前に引いた。

 ダンスホールほどの広さの寝室は、天井も壁も、赤と金の装飾で眩い光を放っている。平らな天井を覆うようにシャンデリアが浮かび、純白の鏡台には古代魔法の光球が雪のように降り注いでいた。

 クラウディウスは驚愕して目を見開いた。鏡台の隣のベッドで、イザベル王妃と強欲の魔女マーク・ロジャーが抱き合っていたのだ。二人を囲むようにして背の高い執事たちが椅子に座っている。

 イザベル王妃は甲高い笑い声を上げながら、マークの逞しい肉体を抱きしめた。両腕の無いマークは王妃の首筋に唇を当てる。

 クラウディウスは、王妃への嫌悪感とマーク・ロジャーへの激しい怒りで、一瞬目の前が真っ暗になった。

「……マークくん、君はいったいこんな所で何をしているのかね」

 クラウディウスは腹の底から声を響かせた。

 冷たい視線をクラウディウスに向けていた執事たちは、その怒りのこもった低い声に青ざめる。

「あらぁ、クラウディウスじゃない? アナタも加わります?」

 イザベル王妃は舌をねっとりと絡ませるような猫撫で声を上げた。

 クラウディウスはニコッと微笑むと、右腕を腹の前に掲げて軽く敬礼する。

「王妃、ご機嫌麗しいようで何よりにございます。……所で、その隣の男、どういった訳にございましょうか」

「あらぁ、どうしちゃったのよ、声を震わせちゃって? おほほ、もしかして焼いていらっしゃるのかしら?」

「……ご冗談を」

 イザベルはクスクスと笑うと、甘い声をあげてマークとの営みを再開した。クラウディウスはジッと頭を下げたまま、それが終わるのを待つ。

 しばらくするとベッドの軋む不快な音が止んだ。荒い呼吸を繰り返すイザベルに、執事は柔らかな上着を着せた。マークは全裸のまま立ち上がる。

「お待たせしたわね、クラウディウス?」

 イザベルの声に、やっとクラウディウスは顔を上げた。執事の一人がイザベルの手を引いて、中央のテーブルに先導している。

 マークは既に椅子に腰掛けて軽食を取っていた。シルクのテーブルクロスの上を銀のスプーンが舞う。宙に浮かぶスプーンは、スッと黄金色のスープを掬い上げると、一雫も漏らさずマークの口元に運ばれた。

 両腕の無いマークは、浮遊魔法と移動魔法、そして圧縮魔法を併用させて何不自由のない生活を送っていた。そのあまりにも繊細な魔法の動きに、クラウディウスは警戒心を抱いた。

 まぁ、手に負えなくなる前に始末すればいいだろう。

 クラウディウスは不安を振り払うかのようにニッコリと微笑むと、テーブルに足を運んだ。

「イザベル王妃、先程のご無礼をお許しください」

 クラウディウスは、イザベルの前に片膝をついて非礼を詫びた。イザベルは甘ったるい声を出して彼の頭を撫でる。クラウディウスはその白い手の甲に軽くキスをした。

 クラウディウスは席に着くと、斜め前に座る全裸の男に冷たい視線を送る。

「マークくん、君、勝手な事をしてもらっては困るよ」

 マークは聞こえてないかのように足を組んだまま、濃厚なスープを味わった。クラウディウスはスッと切れ長の瞳を細める。

「クラウディウス、アナタはいったい誰の許可で私の可愛いマークちゃんに怒っているの?」

 イザベルは、マークを冷たく睨むクラウディウスに詰問した。クラウディウスはサッと笑みを浮かべる。

「申し訳ありません、王妃。どうにも私は昔から頭が固いようで……」

「ほほ、いいのよ、アナタのそう言った真面目過ぎる所も、また魅力的なのだから」

「おお……こんな私ごときに、なんと勿体なきお言葉なのでしょうか? 王妃の優しさには、いつも救われる想いにございます」

 クラウディウスは嬉しそうに顔を歪めると、目頭を押さえた。マークは胡散臭そうにクラウディウスを流し見る。

「そろそろ本題に入りませんかねぇ」

 マークは銀の杯に溢れる赤ワインを口に運ぶ。クラウディウスはマークに視線を向けた。

「私は早くアンナを手に入れたいのです。いったい、貴方はいつまで私を待たせるつもりですか?」

「あらぁ、私の前で他の女の話ですの?」

 イザベルはもうっと口を膨らました。マークは、そんなイザベルを無視してクラウディウスを睨む。

「マークくん、何度も言うようだが、呪いの発動したアンナ・ジャコフスカヤには、今の所立ち向かう術がないのだよ」

「呪いの対象を私に向けさせれば全て解決するのでしょう?」

「……まぁそうなのだが、彼女は、どうやらレズビアンの気があるようだし、難しいだろうね」

「まったく、困った女ですね」

「はは……」

 クラウディウスは苦笑しながらも、更にマークへの警戒心を強めた。

 強欲の魔女はあまりにも冷静だった。北東の都市ハースを壊滅させたり、今回のように宮殿に潜り込んで王妃を抱いたりと、必ずしも欲望に理性的というわけでは無い。だが、彼は理性と欲望の狭間にきっちりとした境界線があるようで、その垣間見える確かな知性に脅威を感じた。

「……どうしてもアンナ・ジャコフスカヤを手に入れたいと言うのならば、策が無い事もないが。マークくん、聞きたいかね?」

「……いえ、アンナはじっくりと落としていく事にします」

 クラウディウスとマークは、互いの手の内を見透かし合うように瞳の奥を見つめ合った。

「もう、マークちゃんにクラウディウスったら、睨み合うのはその辺になさい。それよりもクラウディウス、フィアラ大陸の内戦は主戦派が優勢だと言う話だけれど、本当に大丈夫なのでしょうね?」

 イザベルは不安そうな表情をした。半年前にサマルディア王国が呆気なく崩壊したことで、彼女は異種族に対する恐怖心を抱いていたのだ。

「そろそろ、沈黙を続けてきた〈ゴブリン〉が動き出します。ですから抵抗勢力はもう少し粘るでしょう。まぁ、彼らが〈オーガ〉と仲良く肩を並べるとは思えませんが」

「でも、いずれは主戦派が勝つのでしょ? その後はどうするおつもりなの?」

「現在、キルランカ大陸のド・ゴルド帝国と和平交渉を行っている最中です。戦争は痛み分けという事で、交渉の方は順調に進んでおります。更に、キルランカ大陸では〈リザード〉〈ゴブリン〉〈オーク〉との秘密同盟が結ばれております。故に、後はド・ゴルドの〈ドワーフ〉軍さえ此方につけば、フィアラ大陸の同盟軍はキルランカ大陸とユートリア大陸の挟み撃ちで、蹴散らす事が出来るでしょう」

「ほぅ、それは結構な事ですね」

 マークは笑った。クラウディウスはその顔を睨みつける。

「マークくん、君が〈ドワーフ〉軍を襲撃してくれたおかげで、こんな面倒な事態になったのだよ?」

「はは、ですからバランスの良いように、ちゃんと〈ヒト〉の国も襲ってあげたではありませんか」

「……なんだと?」

 クラウディウスの顔からサッと血の気が引いた。猛烈な怒りで心臓が暴れ出す。今、この場で、強欲の魔女を始末してしまおうと、クラウディウスは人差し指を伸ばした。

「いい加減になさい!」

 イザベルがテーブルを叩いた。周りで静観していた執事たちはビクッと肩をすくめる。

「イザベル、貴方も女であるのならば、男の喧嘩を楽しんで眺めるべきですよ?」

「もう……」

 マークの軽口にイザベルは頬を緩める。だが、クラウディウスは怒りが収まらず、乱れる呼吸を抑えるのに必死だった。テーブルに置かれた銀の杯を引っ掴むと、ワインを喉に流し込む。

「大丈夫なの、アナタ?」

 イザベルが心配そうにクラウディウスを見つめた。クラウディウスは幾分か落ち着きを取り戻すと微笑んだ。

「ええ、取り乱して申し訳ない。では、話を戻しましょうか。キルランカ大陸の〈ドワーフ〉軍との密約が完了次第、フィアラ大陸の〈ゴブリン〉に主戦派を勝たせます」

「意味が分からないのだけれど? もう此方から、フィアラ大陸を攻めた方がいいのではないのかしら?」

「フィアラ大陸から戦争を始めさせる事が重要なのです。王妃、実の所、フィアラ大陸の同盟軍に勝つのは安易だろうと私は考えております。色欲の魔女さえ何とかしてしまえば、戦争は終わるのですからね」

「どうやってその色欲を何とかするのよ?」

「そこで彼の出番です」

 クラウディウスは、マークに指を向けた。

「マークくん、彼女は荒んだ心を持っている。女性に愛を求めるのも、戦争に救いを求めるのも、その現れだろう。君が彼女の凍りついた心を溶かしてあげなさい」

 クラウディウスは切れ長の瞳を優しく細めてマークを見つめた。マークは、ははっと笑う。

「まぁいいわ。其れよりもクラウディウス、他の魔女はどうするおつもり?」

「今は、他の魔女には絶対に触れてはなりません。色欲の魔女の呪いの発動は緊急事態であり、そちらの対処が済まない限り、次の計画には移れません」

「憤怒の魔女はどうするのよ?」

 クラウディウスはピタリと動きを止めた。今はその事を思い出したく無かったからだ。

「……憤怒の魔女は、彼は、まだ子供です。放っておいても大丈夫でしょう」

「本当に? だって憤怒の魔女って、あのクライン・アンベルクに重傷を負わせたのでしょう? それってかなり危険ではないの?」

「呪いが発動した際の力は確かに危険かもしれません。ですが、彼は自らの意思で、というよりは彼の性格で、呪いをコントロール出来ています。呪いの暴走は稀であり、また発動してもすぐに収まるでしょう。あの子は文献の中の憤怒の魔女のような、怒りのままに暴れ続ける怪物ではありませんでした。本当に驚くべきことです」

 アノンの時代の文献には、憤怒の魔女との攻防が詳細に記されてあった。四聖剣とアノンは、数ヶ月に渡って憤怒の魔女と戦い続けたという。その魔女の怒りは、最後まで解かれることが無かったそうだ。

「その魔女が冷静で狡猾だという可能性は? そうだとすれば余計に危険な存在でしょう」

 マークは首を傾げる。

「確かに、彼にはずる賢い所があった。だが教養がなく、下品で、頭もそれほど良くは無かったね」

「そうですか、ならば放っておいても良さそうですねぇ」

「ああ……」

 クラウディウスは頷いた。だが、モヤモヤとした想いが胸の中を渦巻く。

 彼の杜撰な計画で、危うくアリシアと春人は死にかけた。師匠のクラインは激怒し、もう二度と顔も見たくないと彼を破門した。クラウディウスはその事で激しいショックを受けていたのだ。

 妹弟子のアリシアは、毎日必死になって行方不明の春人を探していた。その姿はあまりにも哀れだった。

 ハルトくん、いったい何処で何をしているんだい?

 クラウディウスは眉間を抑えて深く息を吐いた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る