争いの終わらぬ世界


 マーク・ロジャーは白い壁に背中を預けた。

 その体を抱きしめるように、世界同盟幹部のエリザがそっと寄りかかる。甘い匂いがマークの鼻腔をくすぐった。

 マークは高い鼻でエリザの美しい金髪を撫でた。エリザは嬉しそうに笑い、顔を近づける。ベッドの上で二人はそっと唇を合わせた。

 エリザの身体を抱きしめたかった。だがマークは抱きしめる腕を失っていた。

 まぁ、抱きしめて貰えばいいのでしょう。

 両腕欠損には生活の不憫さがあるものの、マークはそれほど気にしていなかった。自分の身体に興味が無かったのだ。

「マーク様……! うわあ!?」

 部屋に飛び込んできたピット・ハイネスは、マークとエリザが裸で抱き合っているのに仰天し、慌てて背中を向けた。

「ノックをしてから入りなさい」

「す、すいません!」

 ピットは後ろを向いたまま両手で目を覆った。首筋は真っ赤に染まり、坊主頭からは湯気が上がっている。

 エリザはクスクスと笑った。

「何のようです、ピット」

「い、いえ、先生が隠れ家にお見えになられまして」

「先生?」

「せ、世界同盟のリーダーです」

「ほぉ」

 マークは興味が湧いた。壁から背中を離すと、ベッドの外に足を下ろす。エリザは横から体を支えた。

 エリザに服を着せてもらったマークは、背中を向けるピットの尻を蹴った。

「行きますよ」

「はい!」

 エリザは全裸のままだった。

 振り返ったピットはショックで倒れる。

 長い地下の道は洞窟だった。剥き出しの岩は乾いており、光球魔法の灯が横穴から洞窟を照らす。

 洞窟はユートリア大陸全土に広がっていた。未踏の穴が多数存在し、危険な霊獣や太古の呪いが暗闇に潜む。迷い込めば永遠に抜け出せないであろう大洞窟だった。

 大陸中に散らばる世界同盟は、各都市の真下の洞窟に身を潜めている。当然、都市の魔術師たちはその事に気が付いているはずだった。だが誰も地下の世界同盟には手を出さなかった。

 世界同盟は権力者と繋がりがあるのだろう。マークはそう考えた。

「こちらです!」

 しばらく洞窟を進むと、木製の豪奢な扉が現れた。

 ピットはノックも無しにその扉を開けると、中に飛び込んでいく。マークはやれやれと首を振って後に続いた。

 扉の向こうは広いドーム型の空間だった。地面も天井も純白の滑らかな石で覆われている。

 中央には長テーブルが置かれていた。黒髪の男がそこで、分厚い書物を広げている。

「先生! マーク様を連れて来ました!」

 ピットが叫んだ。甲高い声が空間を木霊する。

 男は立ち上がった。

 黒髪は肩まで無造作に伸びている。中肉中背で、振り返った顔つきは柔和だ。世界同盟のリーダーは何処にでも居るような優男だった。

「やあ、マークくん、こんにちは」

「ええ、こんにちは」

「両腕は残念だったね。回復魔法では無くなった腕は生やせないんだよ」

「問題ありません。ところで、あなたは一体どなたです?」

 背の高いマークは上から見下ろすように、黒髪の優男を見つめた。

「おっとこれは失礼、自己紹介がまだだったようだね。私の名前はクラウディウス・プリニウス。まぁ、気軽に先生と呼んでくれたまえ」

 クラウディウスは微笑んだ。

「そうですか……。それで、いったい私に何の御用でしょう? 私は忙しいのですが」

 マークは胡散臭そうにクラウディウスを睨んだ。

 クラウディウスは、うほんと咳払いをする。切れ長の目を細めて人懐っこい笑みを浮かべた。

「マークくん、君は世界が欲しくないかね?」


 加地春人は自分の胸に刺さる紫色の手を呆然と眺めた。

 ショックで呼吸が止まる。痛みは無く、強い圧迫感だけを感じた。

 エメリヒは、そのまま憤怒の魔女の心臓を握り潰した。

 春人は大量の血を吐いて倒れる。鮮血が飛び散り、障壁の中が赤く染まった。

 アリシアの絶叫で、放心していたソフィアは我に返った。瞳の色が真紅のルビーに染まる。短剣を左手に腰を落とすと、ザッと一歩前に出た。だが"赤壁"のバルザックの方が速かった。大剣は既に背の高いエメリヒの頭蓋から股までを真っ二つに切り落としていた。

「死ね」

 大剣を振り下ろしたバルザックは、怒りの形相で真っ二つになったエメリヒの横腹を蹴り上げる。

 血飛沫が木々に降り注いだ。だが蹴り飛ばされたはずのエメリヒの死体が無い。

 バルザックは咄嗟に身をかがめた。エメリヒの鋭い爪が宙を切り裂く。

「〈ヴァンパイア〉め」

 バルザックは体捻って大剣を後ろに回した。エメリヒは予備動作無しにそれを躱すと、大衝撃魔法を放った。バルザックの巨体が吹っ飛ぶ。

 アリス・アスターシナか。

 エメリヒは、しまったと振り返った。既に障壁の中の四人は亜空間に消えていた。

 

「落ち着け、まだ生きている」

 アリスは、泣き叫びながら回復魔法を唱えるアリシアを押しのけた。春人の心臓は潰されており、脳も死にかかっていた。とても回復魔法では治癒出来ない。

 アリスは人体創造魔法を発動した。それは魂さえ無事ならば完全な死者をも蘇生出来る大魔導師アリス・アスターシナ独自の魔法だった。

 春人の破壊された臓器が元通りに創造されていく。

 ガハッと血を吐くと、春人は息を吹き返した。

 アリスはその頭をそっと撫でる。そして亜空間の流動する固体に倒れ込んだ。全身が汗で濡れ、呼吸はひどく乱れている。ソフィアは慌ててアリスの側に寄った。

 人体創造魔法には多量の魔力を必要とした。異世界を創造する亜空間魔法との併用は、アリスの魔力を致死量にまで消耗させる。更に、春人の魂は憤怒に呪われているのである。アリスの弱った身体を呪いが蝕み、意識は切れ切れとなった。

 エメリヒ・フローレス・カラヴァッジョが亜空間に入り込んだ事にも、すぐには気がつかなかった。

 そもそも警戒すらしていなかったのだ。隔離された亜空間に入り込むには特定の媒体が必要であり、それを警戒した事は今まで無かった。

「血か……」

 アリスは薄れかかった意識で中で呟いた。憤怒の呪いが、地上の血液を媒体に空間を繋げていたのだ。

 エメリヒは無言で爪を光らせる。

 アリスは銀色の瞳で、エメリヒの紅い瞳を見返した。

 僅かに頬を緩める。

 ‘’氷の王‘’アリス・アスターシナは、かつての仲間の手によって、静かにこの世を去った。

 ソフィアは真紅の瞳に涙を光らせてエメリヒに飛びかかった。その首をエメリヒは切り裂く。

〈エルフ〉の白い首から血が噴き出した。

 春人は何も出来ず、ただじっとその光景を眺めていた。

 スッと意識が彼方へ飛んでいく。何処からか誰かの雄叫びが聞こえてきた。自分が叫んでいるのだと気がつくと、視界がぐわりと揺れた。眼前は黒く染まっていく。

 憤怒の呪いで、春人の黒く揺れる両眼から足先まで青黒く光った。

 スッと立ち上がると、春人は右腕をあげる。エメリヒは静かにアリスの亡き骸を見下ろしていた。その紫色の身体に圧縮魔法を放つ。強欲の魔女のそれを超える圧倒的な力だった。エメリヒの身体は捻り砕けて無惨に潰れる。肉塊となったエメリヒは、ほぅと感心した。

 春人は丸い血肉となったエメリヒを大灼熱魔法で細胞まで焼き尽くす。焦げた灰が亜空間に散らばった。灰は一箇所に集まると〈ヴァンパイア〉の姿に戻った。

 春人はそこに青黒い大衝撃魔法を飛ばす。エメリヒはゆったりとそれを避けると、高速で春人の背後に回った。

 背中から心臓を貫こうと腕を伸ばす。だが何故か手首から先が無かった。ザンッと両眼に衝撃が走る。突然視力を奪われたエメリヒは唸った。

 手裏剣でエメリヒの両眼を潰した〈ゴブリン〉のガベルは、三日月刀を素早く鞘に収めた。ガベルは亜空間転移するエメリヒの背中にこっそりと張り付いて来ていたのだ。

 ガラムピシャの猛毒を塗ってある三日月刀の刃は、既にエメリヒの腕と春人の首筋を切り裂いている。

 〈オーガ〉ですら即死の量だが、憤怒の魔女ならば大丈夫であろう。

 ガベルは動きの止まった春人を引っ掴むと、アリシアの元に投げた。

〈ヴァンパイア〉の再生は無制限では無かった。最古の〈ヴァンパイア〉エメリヒ・フローレス・カラヴァッジョのそれは不死身に近い。だが灰からの完全再生の後であった為、全身を回る猛毒に再生が鈍った。

「おい、来たはいいが戻れん! お嬢ちゃん、早く何とかせい!」

 呆然とへたり込んでいたアリシアは、ガベルに強く頬を叩かれてハッとする。

「でも、飛べない!」

 アリシアは意識の無い春人を抱きしめて泣いた。亜空間は隔離されており、通常の転移魔法では移動出来なかった。

「では何故、奴は来れた! 考えろ! 貴様は最上級魔術師であろう!」

「無理よ!」

 エメリヒはゆっくりと手裏剣を引き抜いた。両眼に開いた穴が少しづつ修復していく。ガベルはすぐさま手裏剣を投げた。だが、エメリヒは見えているかのようにそれを避ける。

「坊主が殺されるぞ! 貴様の役目は坊主を守ることであろう!」

 エメリヒは再生した紅い瞳を三人に向けた。だが毒は僅かに体内に残っているようで、腕の再生は終わっていない。 

 ガベルはスッと三日月刀を抜いた。ギラリと鋭い刃が光る。

 アリシアは恐怖と悲しみの渦の中、必死に考えた。

 師匠であるクラインの優しい顔が浮かぶ。

 クライン師匠、助けて……。

 アリシアは必死に願った。するとクラインの怒った顔が浮かぶ。

 アリシア、お前の目で呪いの痕跡を見るのだ!

 アリシアはハッと目を見開いた。

 空間透視魔法と時空回帰魔法を併用する。赤黒い呪いの残穢が、流動する地面から春人の身体に流れていた。

 アリシアは春人の首筋に口を当てる。

 ごめんね。

 歯を立てると、赤い液体がスーッと流れた。血の中を渦巻く呪いが残穢に呼応して広がる。アリシアは転移魔法の門を残穢に繋げた。

 魔力では無く、呪いを媒体とする空間転移は初めてだった。それは期せずして亜空間魔法に近いものとなった。

「ガベルさん!」

 アリシアは叫んだ。エメリヒが動くのと同時だった。

 ガベルは手裏剣をエメリヒの顔に投げる。エメリヒは予備動作無しに避けると、鋭い爪をガベルの腹に突き立てた。

 ガベルは紙一重でそれを避けながら、三日月刀をスッと横に流した。エメリヒは後ろ下がる。そして高速でガベルの横に回った。

 〈ヴァンパイア〉の速度は全ての種族の頂点に立つ。だがイェル族の若頭ガベル・フォートルマン・イェル・ドゥルフの動体視力は〈ヴァンパイア〉の最高速度に反応した。

 エメリヒの爪がガベルの首を切り裂く刹那、彼はエメリヒの腕に飛びついた。

 首が半分裂ける。血飛沫が舞う。だがガベルの三日月刀は、エメリヒの脇腹に刺さっていた。

「行け!」

 ガベルは叫んだ。

 エメリヒは猛毒で動きが鈍りながらも、ガベルにとどめを刺した。そして憤怒の魔女に大爆撃魔法を放つ。

 春人を抱きしめたアリシアは、泣き叫びながら呪いの残穢に飛び込んだ。


 サマルディア王国は壊滅の一歩手前にまで追い込まれていた。

 国境の壁は破られ、村々は焼き尽くされた。既に王都が戦場となっている。

 エヴァンゲレス・マチルダは、サマルディア王国の王子イヴァン・サイードの小さな身体を左手で抱いて転移魔法を唱えた。キルランカ大陸からユートリア大陸への海を挟んだ転移魔法だった。

 軍刑法典では許可の無い大陸間の移動は禁止されている。だが、緊急事態にも関わらず許可が下りなかった。エヴァンゲレスは独断で、王族を安全なユートリア大陸に転移させたのだった。

 サマルディア王国の中心に立つクィルフ城に戻ると、バルコニーに移った。

 王都の荘厳な街並みは火の海となっている。

 最上級魔術師の援軍は誰一人としてやって来なかった。エヴァンゲレスは左手をギュッと握りしめる。右腕の肘から先は無い。

 屈強な〈ドワーフ〉数人が、城を守る兵士の一人をなぶり殺していた。

 エヴァンゲレスはバルコニーから地上に飛び降りる。

 強い風が周囲を流れた。

 ‘’風神ラドラ‘’の加護を受けたエヴァンゲレスは、吹き荒れる風の中を駆けた。浅黒い身体を鞭のようにしならせると、風の刃を纏った左腕で〈ドワーフ〉顔面に風穴を開ける。身体を回すようにして腕を引き抜くと、風刃魔法で残りの〈ドワーフ〉の胴体を真っ二つに切り裂いた。

 黒豹の雄叫びが燃え盛る王都を駆け巡る。

 キルランカ大陸最後の〈ヒト〉の王国。

 サマルディアは終焉を迎えた。

 

 

 

 

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