第99話 膝枕

 揺れる馬車の中、綾那は肩を擦りながら小さく呻いた。陽香によるきつめのパンチ制裁を食らった肩は、恐らく明日には青アザができている事だろう。


 覗き窓から御者席を見やれば、いまだ「時間逆行クロノス」を解いたままの右京が馬を操っている。その隣に座る陽香は――つい先ほど、鬼のような形相で綾那の肩をパンチしていたとは思えない、緩み切った笑顔で――右京の尻尾を手櫛で梳いている。往路とは、座席が真逆だ。


(私と颯月さんが近付くのはダメで、右京さんと陽香が触れ合うのはOKって……なんか、不公平な感じがする――)


 トップスタチューバーとして、節度ある行動を心掛けろと言い含められながら肩を殴られたのは、ほんの少し前の事である。まあ、陽香はあくまでも右京の事を成人男性ではなくペットとして見ているようなので、その目線からして綾那とは違うのだが――いまいち腑に落ちない。


 綾那はぷくりと頬を膨らませて「狡い」と呟いたが、しかしで颯月が身じろいだため、慌てて口を閉じる。颯月は現在、狭い馬車の中で長い足を折り曲げて、綾那の膝を枕に仮眠をとっているのだ。


 何せ彼は、文字通り本当に一睡もしていない。恐らく彼が最後に睡眠をとってからの活動時間は、少なく見積もっても三十二時間を超えていた。

 ――だと言うのに、アイドクレースへ帰る際の御者も務めようとした。最終的に陽香が「嫌だ! 居眠り運転で死にたくない!」と激しく拒絶したため、席替えする事になったのだ。


 颯月は「そんなヘマはしない」と笑っていたが、陽香は頑なだった。颯月が仮眠中、御者は「時間逆行」を解いたままの右京が務めてくれている。「外套さえ貸してくれるなら、半日ぐらい任されてあげるよ」――と。


 陽香の采配に、止まれば死ぬマグロの颯月は大層不服そうな顔をしていた。しかし彼女が口にした、「アーニャの膝枕……」の一言で即座に納得すると、御者席から飛び降りたのである。

 そうして眩暈がするほど甘ったるい笑みを浮かべた颯月は、綾那の腕を引いて座席に座らせると、膝の上に頭を乗せた。


 仮眠をとれと言われているにも関わらず、彼は初め一切目を閉じる事がなかった。じっと綾那を見上げては「凄いな、綾の顔が見えん」「これはまた、格別のおもむきがある」「眠気が吹き飛んだんだが、一体どうすれば良いんだ」と大変困った様子だった――いや、果たして本当に困った様子と評して良いのかは分からないが。


 しかし、陽香に御者席の方から覗き窓をバン!! と叩かれた事で、彼はようやくスッと瞼と口を閉じた。しばらく眉間にグッと力が入っていたため、相当寝つきが悪いのだろうが――眠る間は邪魔になるからとほどいた彼の髪を手櫛で梳いていると、やがて微かな寝息が聞こえるようになった。


(――永久保存版……ッ! 心のシャッター乱れ押し……!!)


 綾那は自身の膝で眠る颯月を見下ろす度、にまぁと緩む口元を引き締めるのに必死だ。もし許されるならば、彼の寝顔をスマホで撮りまくりたい。さすがに無許可で盗撮するなど、スタチューバーとしての矜持が許さないので耐えるが――できる事ならば、撮りまくりたい。

 本来なら陽香とて、綾那にこんな事をさせたくはなかっただろう。しかしこうでもしなければ、颯月は馬の手綱を離さないだろうと思っての苦肉の策だ。


 陽香は、彼が眠るまで頻繁に覗き窓から馬車の中を監視していたが、しかし今となっては右京の毛づくろいに夢中である。そのため、綾那がどんなにだらしない顔で颯月を見ていたとしても、誰に注意される事もない。

 ただ、にやついた表情で颯月を見下ろす己の姿を客観的に想像すると、凹みそうになる。


(眼帯付けっ放しで、寝苦しくないのかな――ああ、でもこれ外しちゃうとマナを吸収しちゃうから、その方がかえって苦しいのか)


 颯月の顔にかかる髪を指先で避けて、まじまじと観察する。人様の寝顔を観察するなど不躾な行動であるが、しかしもっとよく見たいという欲求には逆らえない。


(あぁ~……顔が良い……もうヤダ)


 意識がなくたって、やはり颯月は宇宙一格好いい。瞼を閉じているせいで、いつも以上に睫毛の長さが際立つ。僅かに開いた薄い唇からは、時折小さな寝息が漏れる。


 なんとなく流れで彼の髪の毛を梳いてしまっているが、そもそも彼の髪にこんなにしっかり触れたのは、これが初めてだ。

 艶のある黒髪に混じる金髪。どうも颯月は猫っ毛らしく、その触り心地は柔らかい絹糸のようになめらかだ。綾那は、「これ以上見てると変になる……!」と、両手で己の顔を覆った。


 ゆっくりと進む馬車の揺れは心地よくて、ちょうど人の眠気を誘う。あまり眠れていないのは綾那も同じだ。どうせなら、己も一緒に眠れたら――とは思うのだが、しかし膝に颯月の頭が乗っている緊張で眠れそうにない。


 無防備に眠る颯月に万が一の事があっては大変だし、何よりこの体勢で眠って、また颯月に寝顔を見られるのは嫌だ。いくら眠かったからとは言え、彼の腕の中で眠ってしまったのは一生の不覚である。


 綾那自身でも思う。さすがに無防備すぎるだろう――と。あの場に竜禅が居たら、また叱られていたかも知れない。


(色々あったけれど……でも、やっと王都に帰れるんだ)


 綾那は、いつの間にかこちらの世界にも帰る場所ができた事に気付いた。いまだアリスとも渚とも合流できていない状況で、本来『帰る場所』なんて呑気な事を言っている場合ではないのだろうが。


 そう。気配が辿れて、ルシフェリアが様子を見に行っている渚については、まだ良いのだ。問題は行方知れずのアリス。

 結局オブシディアンではまともな聞き込みが出来ずに終わったので、これから王都へ戻るまでの道すがら、彼女の情報収集をしなければならない。

「転移」の男達の異常性については、嫌というほど理解した。一刻も早く合流できると良いのだが――。


 綾那がそんな事を考えていると、御者席に座る陽香と右京の話し声が聞こえてくる。


「右京、お前結局アイドクレースの騎士になんの?」

「さあ、どうだろう。でも、悪魔憑きの仕事といえば、騎士か全国へ魔力を供給するための部品になるかの二択だからね。部品よりかは騎士の方が、まだ良いけど……でも、アイドクレースだと――」


 そこで言葉を切った右京は、憂鬱そうにため息を吐いた。彼の言わんとしている事を察したのか、陽香は小さく笑い声を上げた。


「なんだよ、そんなに颯様の下で働くのが嫌な訳?」

「嫌だね――本当に、心の底から。領主の手駒になってた時よりも嫌だね」

「よっぽどだな。結構いいコンビだと思うけど、右京と颯様。なんだかんだ仲良くやってたじゃん」

「――どこが? オネーサン今まで何を見てたの?」

「色々と見た末の結論だよ。アデュレリアは領主の圧力で変だったけど、普通の騎士団は実力至上主義なんだろ? じゃあ、右京が騎士団長を目指せば良いじゃん。したら颯様のじゃなくなる」

「……簡単に言ってくれる」

「だって、悪魔憑きなんだろ? じゃあ対等な実力勝負ができる訳じゃん!」

「そうかも知れないけど――」


(あ――右京さん、「同じじゃない」って言わなかった)


 いつも颯月の事を『半分』、「同じ悪魔憑きだと思ってない」と言っていた右京。互いの『異形』を晒した事で、意識が変わったのだろうか。何やら颯月の事が認められたようで、綾那まで嬉しくなってしまう。


「君は、これからどうするの? まだ他にも探さないといけないお仲間が居るんだよね?」

「そうだなあ……でも、なんの手がかりもない内は無理無理のムリだろ? しばらくはアーニャと、『広報』頑張るしかねえな。いずれ全国に動画配信できるようになれば、アリスとナギもあたしらの存在に気付くと思うんだけど――ネットがないんじゃあな」

「ふーん、『広報』か。それって楽しいの? オネーサンが元居た国でやってた仕事も、そんな感じなんでしょう?」

「お? スタチュ-バーに興味あんの? そりゃあ楽しいよ、大変だけどな!」


 陽香の回答に、右京は「ふぅん」と興味があるのかないのか判断しづらい声色で相槌を打った。


「そうだ右京。颯様の下が嫌なら、広報に配属希望出せば? 結局くくり的には颯様の管理下だけど、でも直属の上司はアーニャじゃん。他に広報が居ないって事は、アイツが唯一の先輩でリーダーだろ?」


 陽香の言葉に、綾那は「えっ」と小さく声を漏らした。

 綾那がリーダーなんて、柄じゃあないにも程がある。誰かの下でのらりくらりと暮らすのが、一番合っているのだ。どこかのタイミングで、陽香に広報リーダーの座を明け渡す必要があるだろう。


「うーん。確かに、水色のお姉さんの部下になるのは悪くないかもね」

「それに右京、お前『うーたん』の時の演技力半端じゃねえからな。ぶっちゃけ演者として逸材だと思う。名物ちびっ子騎士――広報のマスコットだな! 獣成分が足りない時は『右京』で出れば補えるし、どちらにせよマスコット担当はお前で決まりだ!」

「獣成分が足りない時って、どんな時なの……?」

「いやお前、スタチューは可愛いペット動画出してりゃ、大概バズるって法則があってだな――」

「僕は可愛くないし、ペットでもない」

「はあ? どこからどう見ても可愛いペットだろうがよ。ほら見ろ右京、あたしのブラッシングテクで、お前の尻尾は輝くような毛並みを取り戻したぞ!」

「…………」

「無視すんなよ、この、カワイイヤツめ」

「ああ、もう! 耳はくすぐったいから触んないで! ねえ、紫電一閃まだ起きないの!? 僕そろそろ「時間逆行」使いたいんだけど! すーごいベタベタ触ってくる痴女が居て、気持ち悪い!」

「気持ち悪いとはなんだ、気持ち悪いとは!」

「まず痴女って言われた事に反応しなよ……」


 全く噛み合っていないようで、何故か上手く噛み合う――本当に仲の良い二人組みである。御者席でじゃれる二人の会話を聞いて、綾那は思わず笑みを漏らした。

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