【短編集】心象風景、そして
下松回応(しもまつ・かいおう)
「紫の雨」
「自分の感受性くらいなんとかかんとか」……そんな言葉に出会ったのは中学か高校の頃だっただろうか。あのとき、そんなことは私には無縁だ、と、だんだん厳しさを増しつつある、かといって能天気なあの頃の自分には単に眠気を誘うだけだったあの窓越しに注ぐ5月の光に包まれて、きっと、そう思っていた。
あれから多分、10年。私はこの街の中で、必死にこんなはずじゃなかったんだと、もがいている。
22時を回った頃から、当てもなく足を進める遊歩道を、細かい水滴が湿らせ始めた。横を向きながら、さらに歩き続ける。弱々しい波紋が、川の水面に現れては消え、広がっては隠れていく。高い建物の灯りや広告塔が投げかける、様々の色の秩序のない光。それをわけもなく、悲しく、ゆらめかせる。
「あなたも遠吠えをしたくなる時がありませんか」
なにかの動物ドキュメンタリーで聞いた言葉だ。アホか。その時は鼻で笑った。だけれども今は、その気持が少し、わかる。なんとなればそんな声が出せるのならば遠吠えをしたい。見えないむこうの満月に向かって。何もうまく出来ない、空回りする自分を呪って。
社会に出てもう3年が経った。学生の頃から、ずっと憧れていた仕事。その業界は明らかに自分の思っていたのとは違った。好きなことと、できること。その2つは違う。それが分かっていなかった。だれにも見付けてもらえない、誰かに自分の気持ちを届けたい。
そんな気持ちが空回りして、叫びたい気持ちでいっぱいだった。叫び続けて、叫び続ければ、そのうちに獣になってしまうかもしれない。
多分狼人間って、誰かを噛み殺す前にまずある意味で自分を殺しているんだろう。
川沿いの遊歩道を、ところどころ街灯の青白い光が照らしている。もう夜も遅いのだろう。車の走り去る音も、三々五々、といったところだ。
ふと、川の向こうに広がる、広い都市圏を見つめる。細雨にけむる、灯りも殆ど消えた高層ビルのオレンジ色、蛍光灯の青白い光、青信号と赤信号、全部混ざって、紫色の、これまで見たことないような色が、夜の空に向かって放射光を放っていた。私はふと、あてもなく歩く足を止めた。影は私の足元に、小さく縮こまって。都市の騒音が聞こえてくるはずなのに、なぜだろう。何か優しい音の楽器が響いているような、そんな音が聴こえてきた。これがなくしたと思っていた「感受性」なのだろうか?だとしたら、まだ私は、やっていける、きっと。ささやかなうれしさで、目が少し潤んでくるのが、はっきり分かった。
都市が紫色に染まっていく。紫色の雨が、打ちひしがれた私の両肩に降りしきる。夜霧はその色をさらに、さらに強めていく。
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