第四章 ~結婚しようよ!~

第四章-1

 ぴぴぴ、という携帯電話のアラームで僕は目を覚ました。どうやら眠ってしまっていたらしい。念の為にアラームを設定しておいて良かった。

 ガシガシと頭をかく。どうやら、濡れた髪はすっかりと乾いていた。風邪を引く心配は無さそうだな。


「0時か」


 呟く。金曜日が終わって、土曜日がやってきた。そして、決戦の時も近づいている。どうなるかは分からないが、まぁ、やってみるしかない。

 僕の身体に寄り添っているメイムを起こさない様に、携帯でメールを送る。相手は梧桐座だ。準備が整っているか、確認を取らなければならない。

 しばらく待てば、返信があった。確認すると、OKという単純な二文字だけ。本人は饒舌だが、相変わらずメールの内容は簡素だった。一度理由を聞いてみたら、パケット代が勿体無いやろ、という素敵な答えが返ってきた。関西人らしいのかもしれない。まぁ、全ての関西人がこうじゃないとは思うけど。

 とりあえず、梧桐座の準備は整っている。後は、僕とメイムだけ。もっとも、僕の準備も終わっていた。結婚届等の書類の準備はバッチリだ。バッチリって、もしかして死語かもしれない。ずいぶんと聞いていない言葉だなぁ。なんて思いながら苦笑した。自分の事ながら余裕があるのか、はたまた逃避行動なのか良く分からないや。

 まぁ、死語だの余裕だのそんな事はどうでもいいので、僕は改めてやるべき事で頭の中を満たす。まず準備の第一段階として、メイムを起こさなければならないのだが……


「お~い」


 頬をつんつんと突いてみた。相変わらずあんまり柔らかくない。まだまだ痩せすぎだよな。一緒にお風呂に入った後の感想としては貧相なのかもしれないけれど。まぁ、あらゆる意味で貧相だよなぁ。いやいや、女の子の身体を思い出しながら貧相なんていう感想は余りにも失礼だ。ここはスレンダーと言い換えておこう。


「もっとも、十一歳には関係ない話か」


 そういう問題は大人になってからでいい。小さい頃は健康が一番に決まっている。ガリガリに痩せているモデルなんて、子供のうちから憧れるべきではない。あれは履き違えた美なのだから。言うならば、漫画やアニメのヒロインに憧れているも同義だ。


「お~い、起きろメイム」

「ん……ん~。何時~?」

「0時だ。もう土曜日になってるよ」


 グジグジと目をこすりながらメイムが起きてくれた。この辺は、助かる。僕の子供の頃なんか、夜中には絶対に起きれなかった。一度眠ってしまえば朝までグッスリ。その上、なかなか起きない。毎朝、母親の声が家中に響き渡る事になっていた。

 人間はロングスリーパーとショートスリーパーの二種類に分けられるらしい。つまり、長時間寝ないとダメな人と、短い時間でも大丈夫な人。僕はロングスリーパーで、メイムはショートスリーパーとなる。いずれ、メイムに起こされる日々が来るのかもしれない。それはそれで、幸せな朝だ。間違いなくね。


「ふあ~ぁ……トイレ」

「いってらっしゃい」


 さて、後は母親が帰ってくるまで息を潜めて待つばかりとなる。まるでゲームの潜伏捜査みたいだ。緊張が大半を占めるが、正直なところ少しばかりワクワクしている。こういう大人に成りきれてないところが、男のダメなところなんだろうな。秘密基地を作ろうぜって言われると、喜んで参加しちゃうぜ。


「ただいま~……」


 うにゅ~、とメイムは奇妙な声をあげている。まだまだ眠いらしい。仕方がないか。とりあえず、彼女の着替えを手伝い、下手くそながら髪の毛を結った。姫カットにポニーテール。ふむ……最強だな。結い終わる頃にはメイムの眠気も大分覚めたらしく、意識もはっきりしてくる。


「ママ、許可をくれるかなぁ」

「大丈夫さ。それより、メイム。君もしっかりとしていてくれよ」

「眠らない様に?」

「それ以上に、覚悟をしていてくれ。きっと泣き喚く事になる」

「え、そんな酷い事?」


 僕は頷く。今から不安にさせてどうするんだ、という話だが、実際のところ今のうちから言っておいた方が良いと思う。メイムは頭が良い。だから、きっと、薄々と気づいてくれるだろう。ストックホルム症候群とは言え、相手は元より悪人なのだから。狂った常識を正常にしてやれば、いずれは自分で気づくはずなんだ。

 と、ここで梧桐座から電話がかかってきた。


「はい、もしもし?」

『ステンバーイ、ステンバーイ……』


 ターゲットが来た合図だ。


「OK。そのままステイしていてくれ」


 待機ってステイでいいんだよな。英語は苦手だ。


「梧桐座さんから?」

「シッ」


 僕はメイムの口を自分の手で覆う。びっくりしたメイムだが、僕は人差し指を一本立てて、静かに、の合図を送った。理解してくれたのだろうか、うんうん、とメイムが頷くので、僕は彼女の口から手を離す。その後、メイムは自分で口元を両手で覆った。僕も出来るだけ音を立てない様に、ジっと息を殺す。

 しばらくすると、ガチャ、という扉が開く音が聞こえた。誰かが入ってきたのは明白だ。そして、歩く足音。僕達がいるメイムの部屋を越えて、奥へと消えていった。

 メイムが僕を見る。僕は頷いた。

 母親が帰ってきた。

 そして、作戦開始だ。

 だけど、僕達はまだ動けない。まずは息を殺して母親が出るまで待つ。

 それは程なくして訪れる。足音が再びメイムの部屋の前を横切った。ここで、メイムの部屋を覗いていく様な母親ならば、どれだけ助かっただろうか。作戦が全て台無しになるけれど、それの方がどれだけマシだったか。だけど、そうは成らなかった。作戦は予定通りに実行される。ガチャ、と再びドアが開く音が聞こえた。


「行くぞ」

「うん」


 僕は鞄から靴を取り出し、できるだけ音をさせない様に玄関へと急ぐ。手早く靴を履き、メイムを待って外へと出た。タイミングはバッチリ。エレベーターが到着した音が廊下へと響く。


「背中に」

「え? え?」


 僕は屈んだ。何が何だか分かっていないメイムだけど、僕の意図は分かったらしく背中へと飛び乗ってくる。軽い。ほとんど、重さを感じない位に軽い。

 メイムをおんぶして、僕はダッシュする。エレベーターは使えない。だから、自分の足で勝負だ。階段を三段飛ばしで下りていく。さすがにメイムのおんぶしているままでは、怖い。だが、そんな事は言ってられない。歯を食いしばって階段を駆け下りた。

 一階に到着する。エレベーターからどれだけ遅れただろうか。ともかく廊下を覗くと、外へと向かう女性の後姿が見えた。長い茶髪の女性で、黒いスーツ姿だった。まさにOLという雰囲気か。それでも、何かしらの派手さを感じる。コツコツと床を叩くハイヒールの高さが、そう感じさせるのかもしれない。

 母親が外へ出るのを待って、メイムをおんぶしたまま出入り口へと近づいた。どうやらタクシーに乗るらしい。待っていたタクシーのハザードランプが点灯している。僕は外へ出てきょろきょろと見渡した。


「あった!」


 すでにタクシーは出発しかけている。その後方に待機していた軽自動車のエンジンが音をたてた。梧桐座がレンタカーで借りてきた車だ。運転席にはもちろん梧桐座がいる。

 メイムをおんぶしたまま、後部座席に雪崩れ込んだ。それと同時に梧桐座も車を発進させる。


「お客さん、どちらまで?」

「ぜぇぜぇ……前の、タクシーを、追ってくれ……ぜぇぜぇ」


 合点、と答えた梧桐座が速度をあげる。まったく、冗談は息が整ってからにして欲しい。しかし、もうちょっと体力が必要だな。明日は筋肉痛確定だ。いや、それは今日の話になるかな……どちらにしろ、運動不足は否めない。


「大丈夫? 空夜さん」

「ど、どうって事ないぜ」


 ぜぇぜぇと苦しそうにしているので、全くの説得力が生まれない。まぁ、格好がつかないのは昔からだ。その辺が上手くいってるのなら、彼女いない歴は早々にリセットされただろう。まぁ、今は僕の彼女いない歴より、独身暦の問題だ。絶対にリセットしてやるからな。


「タクシー、大丈夫か?」

「おう、任せとき。俺のドライビングテクニックが唸りをあげるでぇ!」


 梧桐座が口で、ぎゃぎゃぎゃ、とか、ぎゅいーん、とか良いながら運転する。その割には安全運転だな。大丈夫なんだろうか、こいつ。こんなところでお笑いのセンスなんか発揮しなくても全然OKだから、くれぐれも事故だけは勘弁して欲しい。


「梧桐座さん、運転できるんですね」

「おう、出来るで~。俺の実家は田舎やから、バスとか電車とか無いねん。住んでる村人、全員が免許もっとるわ」


 はっはっは、と梧桐座が笑う。


「全員? おじいちゃんとかおばあちゃんも?」

「全員や。そやから、昼間は高齢者マーク付けた車ばっかりやで」


 またまた梧桐座がゲラゲラと笑う。おまえ、それは限界集落とかいうやつじゃないのか。実は凄い田舎もんだったのか、梧桐座よ。イメージからして盆地だな。山に囲まれて脱出不可能。そういう僕も田舎の人間だから一つも笑えないけどね。

 とりあえず、息が整ってきたので、前方を確認する。前をタクシーが走っており、仄かに女性の後姿が見えた。どうやら尾行に成功している様だ。一番危なかったところは、無事に通り過ぎた。後は、どこへ向かっているか、だ。


「梧桐座。こっち方面で思い当たる場所は?」

「あるで。俺らみたいな未成年が近づけへん場所や」


 という事は、アレか。駅前から少しばかり離れた場所に存在する、いわゆる歓楽街。古い言い方だとネオン街。下種な言い方だと盛り場、という具合か。つまり、おっさん共が会社のストレスを発散させる為の場所だ。


「行った事あるのか?」

「ある訳ないやん」


 だよな、と僕と梧桐座は苦笑する。メイムだけは、はてなマークを浮かべていた。教育にはよろしくないが……この際、仕方がない。補導されない事を祈るばかりだ。

 タクシーを追っていくと、やはり駅を通り過ぎた。そこから五分程走ったところで、いよいよ大人の街に差し掛かる。


「うわぁ、凄いね。こんな場所があったんだ」


 メイムが窓から覗き、嬉しそうにしている。子供にとっては遊園地レベルかな。なにせ煌びやかに看板等が光っているし、金曜日の夜という事で人が多い。ちょっとしたお祭り騒ぎにも似ている。


「お、タクシーが止まるで」


 前を行くタクシーがハザードランプを点し、路肩へと寄っていった。


「よし、ちょっと行った所でおろしてくれ」


 了解や、と梧桐座がタクシーが止まった場所を通り過ぎ、タクシーと同じ様にハザードランプをつけて路肩に寄せてくれる。


「がんばりや!」

「任せとけ!」


 メイムを連れて、車を降りる。素早くタクシーを確認。母親がお金を払っているらしく、まだ降りていない。よし、見失う事は無いだろう。

 梧桐座に手をあげる。それを確認した梧桐座は車を発進させた。とりあえず、どこかで時間を潰してもらう事になっている。全てが終われば、連絡を取って迎えに来てくれる予定だ。


「く、空夜さん……」


 メイムがぎゅっと僕の腕に抱きついてくる。なんだ、と思えば、僕達に視線が集中していた。道行くサラリーマン風の男から遊んでます的なチャラい男達が僕とメイムを見ていた。無関心だけど、単なる好奇心。関わる気が無いのに、真相だけは知りたいという表情。だからこそ、値踏みする様に僕達を見てから、そして去っていく。何か言いたそうな口を見せるが、なにひとつ言う事もなく去っていく。

 なるほど、僕の良く知っている目だ。僕が良く知っている人間達だ。


「大丈夫だ」


 残念ながら、この手の視線は慣れている。大学で騒ぎの中心人物となってしまった僕には、この視線も表情もどうという事もない。何事も経験、という事か。もっとも、メイムと結婚したとなると、この視線は更に濃いものとなる。

 覚悟の上だ。

 加えて、良い予行演習になる。

 僕は右手をメイムへと差し出した。メイムは、僕と視線を合わせた後に僕の手をぎゅっと握ってくれた。手を握れば、はぐれる心配もない。それに、落ち着く。やっぱり、人の温もりってやつは重要だ。ここ最近、メイムの温もりを感じている僕が言うんだから、間違いない。他人と触れ合うと安心感が生まれる。男同士は勘弁だけど。

 とりあえず、人の流れに乗ってから路地へと入る。そこからタクシーを確認すると、丁度、母親が出てきたところだった。


「ママで間違いないかい?」

「う、うん。たぶん……」

「たぶん?」


 遠いからか? メイムは目が悪いんだったっけ?


「全然会ってないから、分かんないけど。きっとママだと思う」


 ……酷い話だ。

 僕は、そうか、とだけ答えて母親の後を追う為に歩き始めた。ジロジロと好奇の視線。傍からみれば、いったいどういう風に見えているんだろう。大学生風の男と小学生の女の子の二人組。どう考えても、事情がある様にしか見えないだろうな。ほんと、通報されない事と補導されない事を祈るばかりだ。

 しばらく進んでいくと母親が路地へと曲がった。ありがたい、これで少しは視線を受ける事が無くなる。替わりに尾行している事がバレる確立が上がる訳だが……


「いや、大丈夫か」


 路地を曲がった所で、僕はその可能性がほぼ無い事に安堵した。

 母親はご機嫌な様子だった。なにせ、持っているバッグをグルグルとブン廻しているのだから。酔っ払っているのかと思ったが、ヒールの高い足元はしっかりとしている。素で機嫌が良いだけなのか。感情の起伏が激しい人なのかもしれないな。理論的に話が出来ればいいのだけれど。

 そう上手くはいかないだろうな、と思っていると、母親はとある一軒の店に入っていった。入口付近にいる若い男に声をかけ、地下に繋がっているらしい階段を下りていく。店の前に立っている男はというと、絵に描いた様な金髪に胸元がザックリと開いたスーツ風。つまり、どこからどうみてもホストだった。


「うわぁ、凄いね」


 店の前に立って、僕とメイムは見上げた。青色のLEDがこれでもかと煌いている。ピンク色じゃなかったので安心するべきか、それともやっぱりと落胆するべきか。とりあえず、店の名前は読めない。英語なんだろうけど、う~ん……


「すんません、未成年は入れないっス」


 見上げていたところで、入口に立っていたお兄さんに声をかけられてしまった。申し訳ないのだが、僕みたいな人間はこういうタイプの人間に心底弱い。もう、声をかけられた時点で殴られるんじゃないかとビビってしまう。

 だが、しかし。今日ばっかりはそういう訳にはいかない。


「さっきの人、良く来るんですか?」

「あれ、柚妃さんの知り合いッスか? 三日に一回くらいッスかね。常連ッスよ」


 なんかこのお兄さん、いい人だな。というか下っ端かな~。年齢的には僕とそんなに変わらなさそうだし。さすがに未成年じゃないだろうけど。しかし、客の情報をこうも簡単に漏らすとは……馬鹿なんだろうな~。絶対に言わないけど。

 それにしても、常連か。やっぱりというか、何というか……子供を放っておいてホストクラブに通い続ける神経なんてのはどんなものなんだろうか。恐らく、ハサミぐらいでは切れないのかもしれない。


「ねぇねぇ、ここって何の店?」

「お、興味ありッスか、お嬢ちゃん。ここはオレみたいなイケメンと楽しくお酒をノむ店ッスよ」


 あ~、やっぱりいい人だな、このお兄さん。メイム相手にも態度を変えないで対応してくれる。でも、自分でイケメンって言わない方がイケメン度は上がると思う。絶対に言わないけど。


「へ~……」


 ちょっと楽しそうだったメイムのトーンがダウンした。何か、思い至ったのだろうか。まぁ、普通に考えれば分かる事か。母親がイケメンと楽しそうに酒を飲んでいる映像なんて、誰も見たくは無い。考えたくも無い。想像する事すら棄権する。放棄する。冗談じゃない。ふざけるな。もし、これが僕の母親ならば、それぐらいの勢いで殴りかかると思う。


「ママもそうなのかな……?」


 メイムが僕の袖を引っ張る。不安な目で僕を見上げてくる。僕はそれを、受け入れる事が、難しかった。フォローする言葉は持ち合わせていない。これが真実だからだ。かわりにメイムの頭を撫でてやった。彼女に、僕がいるって事を覚えてもらえる様に、僕はメイムの頭を優しく撫でる。


「ママって、もしかして柚妃さんの子供ッスか?」


 少し驚いた感じでお兄さんはメイムを見る。あの母親と似ているところでもあるのだろうか、う~むなるほど、とお兄さんは頷いた。


「うわ~、まさか柚妃さんに子供がいたとは……驚きッスね~」

「そんな話は一度もしてないのですか?」

「全然してないッスよ。あの人、店長にお熱っスから、その話ばっかりッスよ」


 はっはっはー、とお兄さんは笑う。いや、笑い事じゃないんだけど。目の前に娘がいるんだぞ、この馬鹿。


「待たせてもらってもいいですか?」


 僕は店の横にあるスペースを指差した。シャッターが閉まっており、潰れているのか夜間は営業していないのか分からないけど。そこなら、少しは風が防げそうだし、ハンカチでも敷けば、座っていられるだろう。


「いや、それはマズイッス。どう考えても営業妨害になるッスよ」


 そうか。店の横に女子小学生を連れた大学生が座り込んでいる状況を考えれば、営業妨害以外のナニモノでもない。馬鹿とか思ってごめんなさい、お兄さん。僕も馬鹿でした。


「ちょっと店長に言ってみるッス。待ってるッスよ」


 と、お兄さんは足早に地下へと降りていった。う~ん、やっぱりいい人だなぁ。なんでホストなんてやってるんだろう? まぁ、人それぞれか。どんな事情があるにせよ、お兄さんが選んだ道だ。僕にとやかく言う資格は無い。例え自業自得でも自縄自縛でも。


「……あの人、いい人だね、空夜さん」

「あぁ、うん。僕もそう思う」


 メイムが言うなら、尚更そうなんだろう。なにせ子供は正直だ。他人の悪意は見抜けないにしても、優しさには敏感だ。それが生きていく上での防衛本能だとしても。

 とりあえず店の前で待っていると、すぐにお兄さんが戻ってきた。表情が少しヘコんでいる。ダメだったんだろうか?


「……怒られたッス」

「す、すいません、僕らのせいで」

「いやいや、大丈夫ッスよ。いっつも怒られてるんで」


 あはは~、とお兄さんは笑った。僕は苦笑するしかない。メイムは、何か悲しそうな表情をしている。まぁ、子供は大人でも怒られるって事をしらないからなぁ。僕も、小さい頃は、大人になれば怒られる事は無いと思っていた。でも、現実は違う。現実はもっと遠慮がなく辛辣だ。


「とりあえず中に入るッス。柚妃さんを呼んでくれるらしいッスよ」


 いらっしゃいませ、とお兄さんが慇懃に礼をした。一応、お客さんって事になるんだろうか? いやいや、そうなるとお金なんて持ってないぞ。座っただけで一万円とかだっけ? それは洒落にならない。


「どうしたの、空夜さん?」


 階段の手前で止まってしまった僕を、メイムが見上げる。


「あ、お金は大丈夫ッスよ。店長いい人だから、そんなヤクザな事はしないッス」


 いい人なお兄さんが言うんだから、大丈夫か。とりあえず、今は行くしかない。お金が無けりゃ、ぶん殴られて出てくるまでだ。

 なかば僕の方が緊張しながら、メイムと手を繋いだ。地下へと続く階段は薄暗く、非日常へと溶け込んでいく様だ。女性にしてみれば、夢への入り口なのかもしれない。僕にとっては地獄の門と変わらないけど。この場合、僕自身が『考える人』だな。

 階段を降り切り、入り口の扉を開ける。途端に音が溢れ出した。店内ミュージックが空気が揺らしている。かなりの音量だ。それ以上に、盛り上がっているホストの声と女性の嬌声。店内は薄暗く、青色の光がそこかしらから漏れ出している。これじゃ誰が何処で、何が何処にあるのか分かったものじゃない。

 これが、こんなのが大人の世界って事か。メイムがビビっているが、僕もビビっている。入り口を潜るには、大人の階段を転がり落ちるには、まだまだ早いよ、まったく。


「お前が柚妃さんの子供か?」


 僕達が圧倒されていると、そう声をかけられた。見れば、そこにはイケメンがいた。ホストという感じではなく、いわゆる好青年という感じだろうか。どこにでもいそうなイケメン、というと酷い矛盾を感じるが、彼を表現するにはそう言うしか無いだろう。ともかく、イケメンだ。悔しいぐらいに。


「いえ、僕じゃなくて、この娘です」

「あ、そっか。お前だったらギネス記録更新しそうだもんな」


 はっはっは、とイケメンが笑う。この人が店長なんだろうか。まぁ、他のホストと雰囲気が違うし、そうなんだろう。


「こんばんは、お嬢様。いま、お母様を案内しますのでごゆるりとお待ち下さい」

「へ、あ、は、はいっ」


 むぅ。さすがイケメン。わざとらしい言葉使いも慇懃な礼の仕方も絵になるなぁ。メイムの素っ頓狂な返事も納得がいく。あ~、もしかして嫉妬しているのか僕は。情けない。

 店長さんが、おい、と呼んだホストさんに案内してもらう。その際に、何かギロリとホストに睨まれた。いやいや、僕は小市民です。睨まないで下さい。非常に怖いです。

 案内された部屋は個室だった。たぶん、これ高い部屋なんじゃないのかな? ここだけ静かだし、防音が効いてるんだろう。薄暗いのには変わりはないけれど、落ち着いた会話ぐらいなら出来そうだ。


「何をお飲みになられますか?」

「え、いやいや。僕達は客じゃないし、お金もってませんよ?」

「ご遠慮なさらず。店長の奢りです」


 あ、そうなの? とマヌケな返事をしてしまった。メイムは、ほへ~、と感心している。くそぉ、かっこいいな店長。外見だけでなく内面までイケメンじゃないか。どうやってあんなのに勝てるんだ?


「あ、メロンクリームソーダ!」


 渡されたメニューを見て、メイムが目を輝かせて注文した。何か憧れでもあったのかもしれないな。


「僕はミルクティで……」


 かしこまりました、とホストが出て行く。パタンと個室のドアが閉まった瞬間に、僕は溜め込んでいた何かを、ふへ~、と吐き出した。


「凄い所だね、空夜さん」

「凄い所だよ、メイムさん」


 再び大きなため息を吐いてから、あっと思い直して財布を取り出し、中身を確認する。


「三千円しかないよ、メイムさん」

「店長さんの奢りじゃないの?」


 だったらいいけどね~、と僕は再び大きなため息を吐いた。そうじゃなかったら、ボッコボコだろうな。ケンカなんて小学生以来やってない。今殴られたら相当痛いんだろうな。いや、待てよ。安易な暴力で解決するだろうか? もっと厄介な事にならないか? 例えば、メイムを人質に大金をせびられるとか……


「それはマズイ……」

「美味しくないの、この店」

「あ、いやいや。普通に美味しいと思う。値段相応だったら良心的な店のはず」


 はてなマークを浮かべるメイムに僕は苦笑した。まぁ、何とかなるだろう。メイムは常連の娘だから、酷い事はされないはず。あの店長を信じるしかない。

 五分くらい待てば、さっきのホストがメロンクリームソーダとミルクティを持ってきた。僕とメイムの前に丁寧に置いていくと、一礼して出て行く。


「わ、美味しい」


 メイムは遠慮なく飲んでいるが……僕は少しばかり恐ろしくて手が出せない。これから母親と会うという事で、緊張はしていた。喉がカラカラとまではいかないが、水分を補給したい欲求はある。だが、いったい幾らするんだこのミルクティ、とか思ってしまうと、やっぱり躊躇ってしまう。貧乏性だなぁ。

 しかし、まぁ、もう出されてしまったものは仕方がない。店長の奢りという言葉を信用して頂く事にしよう。


「あ、マジで美味い」


 自動販売機で売ってるミルクティなんか比べ物にならない位に美味しい。さすが、というか、値段相応というか。ほんと、高いんだろうなぁ。

 なんて思いながらミルクティを飲んでいると、ガチャリと扉が開く。一気に心臓が高鳴った。ミルクティの美味しさに緊張を忘れかけていたところへの不意打ちだ。今ので心臓麻痺を起こしても不思議じゃない。だが、まだ死ぬ訳にもいかないので、僕の心臓は自発的に動作を繰り返し始める。


「お待たせ」


 開けた扉の先に見えたのは、店長だった。非常な事が起こっているというのに、ひとつも焦った様子が見受けられない。

 そして、店長の後ろにちらほらと見える黒く長い髪。いや、薄暗くて黒っぽく見えるだけで、実際は茶色に染められている髪の毛。ずっと追いかけてきたあの長い髪。


「え~、本当にいるの~?」


 甘ったるい声が聞こえた。およそ、大人が出す様な声質じゃない。子供のそれに似た、それでも子供のものじゃない声。

 母親が店長の影から姿を現した。

 確かにメイムに似ている。美しいと可愛らしいの中間あたりの顔立ち。聡明そうな顔のくせに、何か情けなさを漂わせている。身なりが良いのに、それを中身が裏切っているかの様な感覚。

 いや、これは僕の悪意がそう見せているのかもしれない。僕はすでに色眼鏡をかけてしまっている。外すつもりなんかは微塵もない色眼鏡。だからこそ、僕はこの母親を絶対に認める事はない。ひとつも褒めてやるもんか。


「あ~、ほんとだ。ナナシがいる」


 ナナシ?


「子供は寝てる時間でしょ、ナナシ」


 もしかして、そのナナシというのは、メイムの事か?

 おい。

 ふざけるなよ。

 メイムだろう。名無と書いてメイムだろ。お前が付けた名前だろ。受理した役所もそうだが、諸悪の根源は貴様だろうが。

 ふざけるなよ!

 何が名無しだ! 自分の子供にエグい名前を付けておいて、更に傷をエグってんじゃねえよ! ナナシだと! ふざけるな!


「青年。まぁ、座りたまえ」


 店長の声が聞こえた。僕は、どうやらミルクティのグラスを持って、立っていたらしい。このグラスをどうするつもりだったのだろうか。まぁ、いい。店の中で暴れる訳にはいかないので、座っておこう。

 メイムを見れば、心配そうに僕を見ていた。ごめん、心配をかける。僕より、メイムの方が辛いっていうのに。


「それで、何の用なの? あたしは忙しいんだけど~」


 ねぇ~、と甘ったれた声で母親は店長に絡みついた。店長もにこやかに笑っている。ふざけるな、子供の前で何やってるんだ、という言葉を飲み込んだ。しかし、飲み込める量にも限界がある。僕は小食なんだ。早目に話に入った方がいいだろう。


「初めまして。茨扇空夜と申します。よろしくお願いします」


 再び立つのも何か居心地が悪いので、座ったまま一礼をした。下げたくもない頭だけど、店長の為に下げておく。

 ほうほうそれで~、と母親と店長は僕達の前の席に座った。テーブルを挟んで向かい側。いつだって殴りかかれる距離だ。


「メイムさんとお付き合いさせて頂いております」


 そこで初めて、店長の顔が変わった。まぁ、無理もないか。およそ想像していた話題の斜め上を行くだろうし。それにしても驚いた表情もイケメンだな。


「あははははははは! やるじゃんナナシ! さすがあたしの子供ね!」


 対して、母親は爆笑していた。


「ママ……」


 メイムの呟く言葉が、僕の胸に刺さる。この声に何の反応も示さない母親。本当に血が繋がっているのだろうか。不安になってくる。


「今日、あなたを追いかけてきたのは、僕達の結婚を認めてもらう事です」


 そう言って、僕は婚姻届を鞄から取り出した。すでに僕とメイムの名前は書いてある。後は、お互いの両親のサインさえ貰えれば完成となる婚姻届だ。


「うっわ。え、そこまでなの? あんたロリコンってわけ?」

「笑うなら笑うがいい。覚悟はできている」


 僕の言葉に、母親は鼻で笑った。一番カチンとくる反応だ。言葉もなく嘲笑でもない、一番僕を馬鹿にする方法。店長は何も語らず、目を閉じた。冷静な人だな。まったく。


「嫌よ。あんたみたいな変態にナナシはやんない」


 ちっ。物扱いかよ。


「ネグレクトの癖にか?」

「ネグ? なにそれ?」

「育児放棄だよ!」


 テーブルを叩く。ガチャン、とミルクティとメロンクリームソーダのグラスが音を立てた。


「なによ、うっさいわね! あんたには関係ないでしょ! あたしの家族の問題に首つっこまないでよね!」

「ふざけんなよ! メイムが一人で生活しているのに何が家族だ! こんな所で遊びやがって! ずっと働いてると信じてたメイムの気持ちとかどうなんだよ!」

「子供をどう育てようが親の自由でしょ! 他人は口を出さないで!」

「他人じゃねぇ!」


 僕は婚姻届を持ち上げる。そして、それを母親に突きつけた。


「僕が家族になるんだ! メイムの家族になるんだから、他人じゃねぇ!」

「はん。変態が偉そうに」


 ぐっ。このクソババア!


「青年。いや、茨扇くん。落ち着いた方がいい。器物破損で訴える事になる」


 店長の言葉に、僕は頷いた。沸騰しかける血を冷ます用に、僕は残りのミルクティを飲み干した。甘ったるい。炭酸飲料を頼むんだった。


「ママ……空夜さんはいい人だよ?」

「なによナナシ。そんな事言っちゃって、もうエッチでもしたの? 変態だもんね、この男。どんなプレイしたのよ、あたしに言ってごらん?」


 ニヤニヤと笑いながら母親がメイムに問う。

 下種が。下劣が。変態はどっちだ。お前だろう。よく俺の事を変態だの言えるな、この変態婆。


「そんな、そんな事してないもん!」

「あはははは。恥ずかしがらなくてもいいわよ。あたしの子供だもんね、どんな手を使ってこの変態を捕まえたのよ」


 ゲラゲラと笑う母親。


「違う。違うよママ。空夜さんは、いい人だって」


 対して、涙を浮かべる娘。

 およそ考えられない親子の会話だ。現実から離れた非現実。馬鹿にする母親とそれを必死に否定する娘。どちらが大人なのか分かったもんじゃない。親は必要以上に精神年齢が低く、娘は不必要に精神年齢が高い。なんの冗談だ、なんの悲劇だ。

 まるで作られた物語を見る様に、急速に僕の中で冷めていくのが分かった。

 現実は小説より奇なり? 笑わせるなよ小説家。物語の方がよっぽどマシだ。これがフィクションならばどれだけ救われただろうか。残念ながら間違いなくこれが現実の話であり、間違いなくこれが真実であるという事。

 最低な母親と可哀想な女の子の現実。

 それに対して、赤の他人である僕が耐え切れなかったのかもしれない。それとも怒りが一週まわってしまったのだろうか。

 ともかく、冷静になれた。

 なってしまった。


「まぁ、いい。僕とメイムが何をしようがあんたには関係ないんじゃないか」

「関係あるわよ。母親よ、あたし。この子に関係あるんだったら、あたしに無いはずが無いじゃない。ね~?」


 母親はそう言って店長にべったりと肩を寄せる。台詞と行動があっていない。チグハグで、まるで説得力の欠片もない。


「関係あるんだったら、こんな所で遊んでないで家に帰ったらどうですか? いや、そんなのはどうでもいい。メイムにもう少しお金を与えてやってもいいんじゃないですか?」


 最低限の一歩下をいく金額しか与えられていなかったメイム。最低限の文化的生活には程遠い状況だからこそ、彼女の姿は死神となっていた。せめて、もう少しお金があれば散髪もできただろうし、シャンプーも買えたんじゃないだろうか。常識も、偏らずに済んだかもしれない。


「嫌よ。旦那が残したお金だもん。あたしの物よ」

「旦那……?」


 そういえば、メイムが言ってたな。お父さんは死んでるって。


「そうよ。ナナシがお腹にいる時に交通事故で死んじゃって。悲しかったわよ~。もうず~っと泣いちゃって。残されたのはお腹の中の子供と、莫大なお金。一生遊んで暮らせるな~って」


 再び母親がゲラゲラと下品な笑い声をあげた。

 その話は本当なのだろうか。そう思ってメイムを見た。その話を、彼女は知らなかったらしい。僕の目を見て首を横に振った。

 メイムの話では、母親は仕事をしているはずだった。しかし、違っていたという訳か。働きもせず、日々を遊んで暮らしている。娘には最低限以下のお金を与えるだけで、自分は贅沢に生きている。

 お金か? この人間を狂わせたのはお金だろうか?


「そりゃ初めは子育てを頑張ろうかな~って思ったわよ。でもさ、旦那もいないし、凄く不安だった訳。んで、ちょっとホストに行ってみたら、すっごく楽しかったのよ~。もう旦那も娘もどうでもいいって位。で、で、子育てしながらあたしは人生を謳歌しはじめたわ。ず~っと勉強勉強ばっかりだったし? 付き合った人が旦那が初めてだったし? んでさ~、さすがはあの人の娘よね~。ナナシってば超優秀なの。教えたら何でも出来るの。小学校に行く頃には一通りできたから、あとはヨロシクね~って感じ」


 そんな……と、メイムは言葉を漏らした。メイムがこんな状況に置かれててしまったのは、彼女が優秀だったせい、とでも言うのだろうか。自業自得? 自縄自縛? 違うだろ。それはただの怠慢だ。ただの育児放棄だ。その証拠に、メイムは何一つ出来てなかったじゃないか。髪を石鹸で洗うような愚か者だぞ。自分で髪を切る事すら考え付かなかった馬鹿だぞ。誰にも助けを求めなかった阿呆だぞ。そんな人間のどこが優秀だっていうんだ。そんなメイムを放っておいていいはずが無いだろうが。


「もういい。あんたの話なんて聞きたくない。いいから、これにサインをくれよ。それだけで二度と会わないから。メイムはしっかりと僕が何とかするから」

「嫌よ」

「は? なぜ?」


 メイムの事を、どうでもいいと思っているんじゃないのか。


「さっきも言ったけど、ナナシは私の物よ。あんたみたいな変態にタダでやるもんか」


 ……徹底した物扱いか。そして、強欲ときた。どこまで僕の中の評価を落とせば気が済むのか。他人の評価っていうのは底があると思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。どこまでも落ちていく。嫌悪を通り越し、呆れを通り越し、無関心になっていく。


「あんた、どうせまだ学生でしょ? そんな奴がメイムの分までのお金を払える訳ないじゃない。あとになって学費を払え~って言ってくるんでしょ」


 母親が言った。

 その瞬間、僕は思わず口元を歪めた。勝利を確信する。勝利? いやいや、ふざけるな。結婚を勝利と思うなんて、僕はなんて愚かなんだ。この場合は許可を得る算段がついた、というべきか。


「その点なら心配ない。国から補助金が出る。未成年、しかも学生同士が結婚した場合は、学費が全て免除となり、その他もろもろのお金がもらえる。具体的には月十五万円の補助金だ」


 僕は、用意していたもう一枚の紙を取り出した。難しい事が色々と書いてあるが、簡単にまとめると僕が先ほど言った内容だ。

 人口減少に悩む日本政府が、結婚の年齢を引き下げたと同時に作った補助金制度。教育に掛かる費用が全て国が負担してくれて、それにプラスして月に十五万円の援助金も出る。手厚い保護の下にどんどんと子供を生んでくれという事だろう。ついでに言うと、子供が生まれた場合、更に手厚い補助金が貰えたりする。

 実質、この補助金制度はマスコミは報道していない。批判ばかりで、詳しくは取り上げておらず、知らない人がほとんどだ。僕も調べるまで知らなかったし。


「あら、それは良いわね。どこまでタダになるの?」

「大学まで含まれている。今後一切として、メイムに関するお金は払わないで済むと思ってくれていい」


 その言葉に、母親は笑った。

 ご機嫌な様子で。

 愉悦の表情で。


「あはははは! いいわ、売ってあげる。親の責任と一緒にナナシを買い取ってもらえるんなら、破格ね。変態に譲るのも悪くないわ」


 母親がペンを持つジェスチャーをする。それに従って、僕はペンを母親に手渡した。婚姻届も、彼女の方へと寄せる。

 特に躊躇する事なく、母親はメイム側の欄に名前を書いた。

 柚妃真名。ゆきさきまな。『名前』のある名前の癖に、娘には名前を与えなかった訳か。皮肉が利いている。もしくは、悲劇と言えるだろうか。


「ほいほい。これでいいかしら?」


 婚姻届を受け取る。問題はない。これで、最大の問題が解決した。


「もう行っていい?」


 母親はすでに立ち上がっている。それに付き添う様に、店長も立ち上がった。


「あぁ。もう何も言う事もない」

「そ。それじゃぁね、ナナシ。もう二度と会う事もないでしょう」

「……うん。バイバイ、ママ」


 涙を溜めた目で、メイムは気丈にも手を振った。浮かべている涙と、震える様に笑っている口元。矛盾しているその表情を子供が浮かべている。対して母親は無表情。酷いシーンだ。これが親子だっていうのだろうか。血の通う親子なんていう言葉が寒々しく聞こえてしまう。これこそ、冷血と呼ばれる人種だろう。

 柚妃真名。

 最低にして、最悪な母親。

 そんな狂った人間が、最後に僕へと声をかけてきた。


「あんた、ナナシより先に死んだら殺すからね」


 そう言ってから、扉の向こうへと消えていった。

 頭の悪い発言だ。もう死んでいる人間をどうやって殺すというのだろうか。

 だが、それでも。

 最後の最後で、母親らしい言葉を聞けただけ、メイムは救われたのかもしれないな。色んなものを失ったけれど。母親のイメージを根こそぎ破壊されたけれども。一握りの優しさを与えられただけ、マシだったと思う。


「許される訳じゃないけど」


 呟く。ため息を吐く。全身に恐ろしい程の疲労感が襲ってくると同時に、メイムが抱きついてきた。


「っく……うぅ……」


 僕の服に顔をうずめ、声を押し殺して泣いている。我慢しなくてもいいのに。声を押し殺す必要など、どこにも無いのに。一生分の涙を、今ここで流してしまってもおかしくは無いのに。

 信じていた母が、実は最低最悪の人間だった。いまの僕ですら、そんな事実を知ってしまっては泣くのを堪える事が出来るとは思えない。現実を直視するのが辛いだろう。でも、メイムはそれを受け止めるしかない。だからこそ、泣き叫んでもいい。存分に暴れてもいい。いますぐ、この店を破壊したって僕は許す。それぐらいの心のダメージがあるはずだ。


「ごめんな」


 僕はメイムに謝り、そっと抱きしめてやる。その体は、まだまだ小さい女の子だ。でも、精神は大人の女性に負けてない。そこらの馬鹿な女子大生よりよっぽど立派だ。僕はそう思う。


「くうや、さんは悪く、ない、よ。悪いの、は、ママなん、だから」


 嗚咽交じりのメイムの言葉。ストックホルム症候群から無理矢理解放した結果だ。この強引なやり方を、僕は謝ったんだけど。まぁ、そんな真実を伝える必要はないか。嘘も方便。先人の言葉にあやかるとする。


「帰ろうか」

「……うん」


 とりあえず、これで一番の問題は解決した。梧桐座に連絡をして、さっさと帰ろう。こんな教育に悪そうな場所は、あんまり長く居たくない。

 幸せになろう。

 そう思う。

 メイムの為にも、幸せになろうと思う。

 きっと、まだまだ大変な事がいっぱいあるだろうけど。

 絶対に幸せになってみせる。

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