第一部 幽美留館
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない」
―ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(野矢茂樹・訳)
1 社会人オカルト研究部
「
開口一番―不穏なその言葉に続いて友達の友達から聞いた話だと
「つまりは今年の合宿先で巡るスポットはそこが有力候補だな」と部長。
「
「なんだ。トンネルとか墓場とかじゃないのか」
「
ネット掲示板で知り合ったオカルト好きの月一の
オフ会場所。社会人と冠するもののその実態は
学生からと幅が広い。事実、美希は高校生だ。
仄かな香りとまだ少し温もりがある珈琲がカップに
残っているのはオカルト談義に熱量を持っていかれた証左に他ならない。
部長のメガネの奥の瞳は他に意見は? と皆に促している。短躯な為、今一迫力には欠けるが。
「
「は……ハイッお友達も連れて行っていいですか?」緊張のあまり場違いな返事を返してしまう。
呆れた様子で冷ややかな視線をよこすのは副部長の
八ケ
根っからのバンドマンで、ボクも好きな某ロックバンドのデビュー曲を高校の有志集う前夜祭で披露したのが語りぐさとなっている。
最近ではリリースされた最新シングルの完コピを
深夜のライブハウスで披露していたみたいだ。
本来の音階からの半音下げチューニングに調律したギブソン―レスポールのエレキギターを愛用してると強く語る。
原曲では4Th《フォース》ギターで奏でてるのを2nd《ツイン》ギターで補ったとかなんとか。
ボクが好きなバンドの好きな曲で自慢してくるのだから余計に腹が立つ。
「おまえさあ、その恐がり体質どうにかならないワケ? 仮にもウチはオカルトサークルよ」
八ケ谷の云い草は気にいらないものの―
そう……怖いもの見たさとはまさしくボクの事を云うんだろうと過去を
それらに怖い怖いと思いながらもつい、目がいってしまう。その度に幼馴染のアイツは
「
そう、でも未知で無知であるからこそ今ボクは此処に居てる。きっと多かれ少なかれこの場に居る仲間も怖さへの関心が高いのは間違いなく、自分だけと云われるのは正直面白くない。
八ヵ谷に加勢するかの如く
意外とヘッドギア越しに殴られても痛いとか
「家でスプラッター映画でも観てる方がお似合いなんじゃないか」とより、下と格付けした相手には容赦がない。こんなヤツはいじめっ子の思想だなと思う。
ちなみにネット掲示板を通じて知り合った他メンバーとは異なりこの二人は小学校時代からの同級生。
高校時代には
その事件があって高校卒業後は双方とも連絡を取り合うことはなかったが社会人になって合コンの数合わせで偶然再会したのが
ちなみにコイツらはボクの天敵でもある。
「え〜美希も東雲さんの気持ち凄く判るよー」
「美希ちゃんはいいんだよ美希ちゃんだから」
「そうそう」といった扱いの差である。
まあ、いいじゃないかと表面上は仲をとりもつように部長が割ってはいる。部長は美希が加わったことにより、何かとソッチヘオアツクなる二人を
「風紀を乱している」とよく愚痴っていた。本人たちにもっと強く云えばいいのにと内心思う。
「東雲くんは入部してまだ日が浅いし、耐性つけてもらうのは徐々に慣れていける環境のほうがいい。なんなら新規加入者になるかもしれんしな」肩越しに覗く八ケ谷はどことなく納得がいってない表情で「部長が云うんなら、まいいっすけど」と何かと軽い。
わぁーい。きまりー♪と脳天気な美希の声に
「あー。うーるーさーいー」と
「機材準備は例年通り僕が」と
ボクにはよく判らないことを熱く語る。カメラ愛に溢れた人だ。
「えーっ。そんなんじゃ撮影技能とか上達しないじゃないですかーっ私もしたいー。どうせ今回も四日間泊まるんでしょー。時間持て余すしー」と美希が頬を膨らませる。
「いや美希は不器用だからな。手際と器量良しの五反田さんに今回も担ってもらおう。その補佐として合宿中での記録は雨宮さんに
「……は、はい」と消え入りそうな声で返したのが
驚く事に夜学を終えても座談会なる大人の部があるらしくて、
「初めて会った気がしない話しやすさ」だったと云う。もっとも、通常モードに切り替わると脆くもそのイメージは崩れ去ったみたいだが。
部長の隣で八ケ谷もウンウンと追従笑いを浮かべる。かくしてその後の話は着々と進んだ。
「ぶ、仏滅の日は一応避けておこうね」と部長が言い添えた。
ボクたちの住んでるT県と県境に位置するN県H村は車で1時間半の山間部。バブル経済が産み落とした忌み子であるという。三方が山に囲まれた
が、しかし90年代中期―
経済の傾きによる地価暴落の憂き目を見る。今となっては
寂れた土地ではあるものの館だけが当時の威容を保っているのだという。
そんな背景を持つ『
先程までくっきりしていた山の
「物好きってのはどの時代にもいるんだよ」隣席で頬杖をつきながら部長が語を継ぐ。
「筋者の商談の場や政治家達の会合目的で利用するらしくてな。その手のゴシップには枚挙に暇がない。
「だからこそ噂を仕入れてこれたんですよー。
それに美希のパパがお金持ちで良かったでしょー♪」
部長の言葉を遮りながら携帯電話をいじる。
メールとやらを打っているらしい。
雨宮さんは、乗った先から酔いが酷いので膝を曲げ窮屈にトランクで身を横たえている。
「雨宮さん?」と呼びかけるも返事はない。
車酔いだけでなくショックも響いているのだろうか。
「ったく美希ちゃん様々ですわ。今夜ばかりは足向けて寝れそうにないぜ。部屋割のとベッドのレイアウト次第では外で寝るのも考えなきゃな。
懐中電灯は持ってきたし抜かりはねえし。なあ登美沢」
「おおよ」と相づちをうつ。この二人は酒に酔っている。
「ひっどーい!! なんで一日限定なんですか。美希を怒らせると怖いんだから。八カ谷さんも登美沢さんも覚悟してくださいね」
そんなやり取りをよそ目に部長は『ハッブル定数』なる本に目を落としている。
まあそんな事はどうでもいい。
ふと景観が変化した。
コンクリートを敷いた路が砂利道になる。空は鈍色で幾筋か黒い亀裂が走っていた。
世界の亀裂。歪み……ふとそう思った。
鴉が一羽亀裂にとまった。
「東雲くん前ッ! 前ッ! 運転に集中して」部長の声で我に返る。
「いえ、見惚れるのもむりはないですよ。立派な樹じゃないですか。枯れ落ちて枝ばかりですけど。もう少し早い季節に出逢いたかった」
「来年の夏にでもまた来ればいいさ。ホラーに似つかわしい季節だしな。もちろん美希のパパ次第ではあるが」とあざとい目配せに
「ん〜いいんじゃないですかー」と美希。
砂利道から敷石に車を乗り上げる。
着いた。イグニッションキーを抜きボクは後方へと廻る。
トランクを開け荷物と同体の雨宮さんを介抱する。よほど苦しいのかお腹と口にそれぞれ手をあてがっている。
「ボクに肩を回してください」
「雨宮さんってホント合宿始まるまでは情けない姿を晒すのが恒例だよねー」美希の視線が冷たい。「誰のせいだ、誰の」と部長が美希をこづく。
「気分も落ちているんだよ。貴重品が入ってなかったとはいえ、休憩ポイントで自分の荷物と間違えた上に外に置き忘れるなんて」
その瞬間
「……うっ」と雨宮さんの喉元がせり上がる。地面に
あの場では、別にいいよと美希を責めることはなかったがヤハリ心には堪えたのか。
着くなり吐くのは毎度なので皆冷静だ。
「東雲さんの友人はまだみたいですね」
「はい。マイペースな奴なんです。長年の付き合いでもう慣れちゃいましたけど」
皆、それぞれの荷物を取って、前方にかすかに見える館へと急ぐ。
たしかに他で駐めている車は見当たらない。
(まあ、
その用邸は周囲をとりまく景色とは不釣り合いな存在を示しながらボク達を迎えてくれた。
凸を逆字にした鼻翼形。どことなく海洋を思わせる
特徴的なのは一階から三階までをグルリと巻く
「ウロボ―」
「……よ」ボクの耳元で声がした。雨宮さんが目を見開く。
「……良くなってきたよ。かなり」まだしんどそうだ。そんなに無理した表情を作らなくてもと思いながら「あと、少しなので部屋までお送りします」と云いそえた。
「ひゅー!! お金持ちの考えることはホントにわかんねえな。周りは寂れた祠に燈籠、井戸ってな具合なのによ。木造の平屋や雑居ビルの廃墟なんかの方がよっぽど
その登美沢は美希の肩に手を回し五反田さんにツーショットをお願いしている。登美沢の浮かれよう。コイツなら夜に乗じて襲いかねない雰囲気がある。
はいはいと
「山奥だからな。
登美沢の手をふりほどき美希がボクの方へ来る。
「霊は井戸からなんちゃってー」と、両手をだらりと下げる。四年前に公開された映画の真似事だが褐色のギャルの霊とは新しい。
きっとくるー♪きっとくるー♪と唄い一人悦に入っている。それでも
世間一般では『喋らなければいい女』に属するのかもしれない。けれど実際、喋っても美人は美人で落ち度にはならない。美希に限っては。
「そろそろ中へ入らないか」
と部長が美希を促し館の正面、せり出した扉を開く。
「東雲も早く入った方がよくないか? チビでひょろっちょい上に色まで白い。脱水と日焼けのダブルパンチで倒れるぞ」
と八ヵ谷。
「ハハハ」登美沢の乾いた
冬場の脱水は危険だが日焼けはないだろう。
いちいち厭味を云わないと気が済まないのだろうか。こいつらは。
2
ギィィィ……と軋む音が
流石に
「
一歩踏み込むと円形のホールがボク達を歓迎してくれた。どこか
所々、ナノマシンの集積・顕在化なのか
眼前には
他はリノリウムの床が
館内は三層構造。
一階から最上階まで吹き抜けの造りとなっていて
東西階段は中央で踊り場を形成している。
三階中央には
その底は∞の軌道を描いた埃が積もっていた。
時計の文字盤は一方を除いて三人の女性がそれぞれ象られている。
「みてみてー!! かーっくいー」相変わらずのテンションで美希の拡げた手の先には―
その爪先には鎖がからまっているのもホラーをかきたてる。
これでは、一階利用者はわざわざホールから居室を通るのに鎖を
ホントにお金持ちのすることは判らない。これ以上心配かけまいと思ったのか
「トイレを探しにいったのかな」
「これ以上心配すると返って自分たちにも悪い。雨宮さんに、かまってちゃんになられても困るからな」と部長が厳しく云い諭す。
各階の居室は左翼に集中して位置してあり
一階からすべての北側に三部屋ずつ設けられていた。計九部屋。残されたメンバーで部屋を選ぶことに。
一方右翼には食堂の他―図書室、遊戯室や、その他備品室なんかもあるみたいだ。今日は移動だけで体力を使い果たしてしまったので各々部屋で休むことに定まった。
一階の西通路では五反田さんがカメラ撮影をしている。
「他にもカメラ持ってきていたんですね」
「ええ。カメラは二台持ってきました」
用意いいですねとの返しにええと急に低い声になった。
「以前に……僕の中で一番大切にしているカメラを合宿に持ってきたことがあって」と含みを持たせた口調に切り替わる。
「そんな大切にしているカメラを持ってきた僕も悪いんですが、登美沢さんに壊されたんですよ」訊くと、
「確かに美希さんは可愛いですよ。僕もいいなとは思います」風貌に似合わずポツリと意外な言葉を述べる。
「あっ、いえ。これは別にレンズを透して見るのと同じでして。何でしょうね、遠くから愛でるといいますか。若さへの憧憬も幾分か含まれてはいるかもしれませんけど」でもですね、と突然非難めいた口調に戻る。
「でもですよ。そんなに好きで人に借りてまでして湖に落として、あ、ゴメン。でも何台も持ってるでしょってのはね。しっかり謝ってほしかったし。今もその一件は許してません。写真は、その対象物の美を留めるチカラが在ると思っているんです」要約すると美希さんを撮るだけ撮っておいて美を破壊した罪は重いと云いたいのだろう。
「つい感情的になりすみません」と幾分冷静さを取り戻したのか止めていた手を動かす。左腕につけている数珠がゆれた。
「ついでに話しますと美希さんも登美沢さんをよく思ってはいません。セクハラがエスカレートしてきているらしいんです。彼女から相談を受けました。それに部長も被害を受けています」と語を続ける。
それはどのような? と訊くと
「実は……八ヵ谷さんと登美沢さんから苛めを受けてたんです」
えっ、コレには驚く。
「部長と彼らは実は中学の同級だそうです。その頃の部長は姓が違いますし、見た目も太っていたそうです。二人とは別クラス。ですが、他の苛め仲間とつるんで散々酷い目にあわされたと。別の高校を受験した彼は必死に印象を変える努力をしました。宗教に入信したのもそれがきっかけと訊いてます。まさか趣味の場で彼らと再会しようとは。内心どう、なんでしょうね」
雨宮さん以上に苦労した人生をまた一人知ってしまった。
「そんな過去があっただなんて。でも五反田さん、信頼されてるんですね。云うの辛い事だったと思いますよ。美希も部長も」
「『お前の長所は人当たりの良さにある』と親父に昔から云われてますし。他人の言葉には耳を傾けようとは常日頃心がけています。さあ撮影撮影」
「初日からトばしすぎると後に響きますよ。ボクもずっと朝からハンドル握りしめてましたし、雨宮さん意外に重かったので腕が痛くて。他の部員も一独り《ひと》になりたいって云ってましたし。あの
「此処がそうらしいんですよ」
え? と振り返ると五反田さんはさっきと異なる
「この窓から
寒気が走った。けれども館内の窓は限られている。西館に集中した配置となっている九つの居室とその側を南北に貫くこの三層の廊下以外には作られていないからだ。そして廊下側は一階にしか窓はない。
霊えると教えてくれた方角はボク達が来た
では居室からの窓はどの方向に
脳裏にオフ会で話した内容がフラッシュバックする。美希が入手した幽霊の
半年ほど前から度々、細身の幽霊が
忌み子と呼ばれる土地の歴史と道祖神も怖さを引き立てる要素となっている。元々がオカルトスポットを目的とした利用客もいる為、噂が
「納得がいってから僕も休むとするよ。バッテリーは十分あるから今日の手絡はコイツに預けるかな」とポンポンと少し苛立った様子で脚部をずらす。
(これはまだまだ休めないだろうなあ)
3 霊障一日目 有象無象登場(21:00)
よく寝た。身体の節々が痛い。
ヘッドボードの時計の針が21:00分を指している。部屋にはTVとラジオが置いてあるが
とても点ける気にならない。
窓から顔を出すと肌が粟立つ。
銀砂を撒いた宙に包まれているから冷たいのか。
廊下に出ると東館の方から声が聴こえてきた。どうやら食堂からのようだ。
扉を開けると、
「……さっきはありがと」少し回復したのか雨宮さんを含めたメンバー全員がいた。
「本当にそうなんだって」
「いいやあり得ない」
「いったいどうしたんですか?」
「……えっと。それが」
「この館少しずつ動いてるよー」
(? ボクはまだ寝惚けているのだろうか)
「だから少しずつ動いているんだってば!! 美希には聴こえるもん。ギシギシする音が」
バンギャ・オカルト好きならではの面白い発想だなあヘドバンからの妄想かな? ウンウンと部長が愉しげに頷いている。その左隣の席で
「現代の百物語に興じますか。一番ウけた部員が美希ちゃんとデートできるってのはどうすか」アルコール臭い八ヵ谷が此方に挑戦的な目を向け身を乗り出す。前半、登美沢にリードを奪られてたからか、ガッつく姿勢は余裕なさげだ。
「なんで美希だけデートなのよー」と怒っている美希に
「よっしゃー!! 八ヵ谷。オレとお前どっちがウケるかの勝負だ」と勝手に盛り上がっている。
「ちょっと」五反田さんが云い置いて席を離れた。五分ほどしてカメラを携え戻ってくる。何やら様子がおかしい。
「お? どうですか心霊撮影の様子は」
「ええ、美希さんから訊いた幽霊の目撃談は
20:30〜21:00頃らしく、曜日もワリに明瞭り絞れているたいで、金曜の今日がその日にあたるんですが、あいにくと撮れてないみたいですね。もう少し張りこませます」意気揚々とはしているが、それと裏腹に五反田さんの指が微かに震え出した。
画面を覗きこむと五反田さんは早送りで映像を再生した。赤い丸印にRECの文字が表示された。
窓枠がフレームアウトギリギリのラインに収まっている。
徐々に昏くなる画面でカメラは暗視モードへと切り替わる。すると微かに景色に違和感が。
「おい……ちょっと待てよ」さっきまで軽口をとばしていた八ヵ谷や登美沢も徐々にその
巻き戻しと再生を交互にくりかえす。その意味がどんどん判ってきた。
画面にはミシミシとノイズが紛れ込んでいるのだ。
早送り再生でも微かに連続して聴こえるぐらいの
小さな音だが、通常再生だと断続的で殆ど聴き取れない。
―先に早送りで見せた五反田さんの真意がそこにある―。
暗視モードが捉えた風景。昼間に視た山の稜線が
形を僅かながらに変えている。
それは……それは……。
「この建物は膨張しているね。間違いなく」
「誰だ?」と驚く登美沢の前を抜け、
「まったく君ってヤツは……アレほど怖いものを視るなと助言をしてもまったく変わらないじゃないか」
「あなたが東雲くんのお友達ですか」部長が丁寧に対応する。副部長は異物が紛れ込んだような嫌悪の目で有象を見据える。
「わお。おっとこまえじゃなーい」
「……」
すると突然有象は
「……名前を訊く暇もなかった。東雲さんの友達は随分と賑やかな人ですね」
彼……大丈夫かなと赤の他人からでも心配になるらしくあまりに帰ってくるのが遅いので有象の携帯電話にかけてみた。
〈―お客様の電話は電波の届かない距離にあ―〉
電波表示は圏外になっている。無理もないか。先輩方の電話も同様だった。それならばと館の固定電話から有象にかけてみることに。
だが……何度リダイヤルしてみても繋がらない。
アナウンスすら流れない。電話は機能していると訊いていたのだが。
そこへ有象が戻ってきた「館の膨張でコードが切れたんだ。外へ廻って確認してきた。このままこの奇妙な事象が続くのか否か。続くとすれば電線だけじゃなく、館すべての機能が停止するだろうな。これがミステリ小説の
「有象さんよう。帰るって? いよいよ面白くなってきたとこなのに。ねえ部長、こんな情況に置かれて帰ったんじゃオカルト研究部の名前が泣きますよ。なあそうだろう皆」
八ヵ谷に煽動されたのか、オカルト研のプライドをくすぐられたのか意外にも一番早く同調したのは五反田さんだった。真面目さゆえの反応なのか。
「ええ! 僕のカメラに幽霊を収めるまでは帰るに帰れませんよ」
「こ、このまま不思議な体験に身を任せると、部員も増えるだろうし部念願の機関誌発行。出版社に投稿できるかもしれん」去勢を張る部長。
「ねー私が正解だったでしょー」それは未だわからんといった空気に
「じゃあ残るもん!!美希がゼッタイ、ゼーッタイ正しかったって認めさせてやるんだから」
「美希ちゃんの前でカッコ悪いとこ見せらんねえからな。オレだって残るぜ」
「……僕は今凄い愉しいですし」
正気か? と目を丸くする有象。
(で、君はどうするんだ)その眼は云っている。
ボクの顔を見て咄嗟に額に手をあてる有象。云わなくても解る。きっとこう思っている。
―また病に憑かれたか―と。
これは嵐の山荘の物語じゃない。
そう後悔するにはボク達はあまりに若すぎた。
4 霊障一日目 探索 (21:45)
二人にしてくれ。とメンバーに云い放ち、ボク達は今、図書室にいる。壁一面を背表紙が飾ってい
る。
エクレアイデス『幾何学原論』ディオファントス『算術』ニュートンの『自然哲学の
平成の現代に
その背表紙だけは何故か真新しかった。
そして、その隣りにはアルフレッド・ウェゲナーの『大陸と海洋の
書架の端―隅には一際珍しい名前が同じ枠組みにあった。横文字でなく漢字だったので余計に目立つ。飲料水を思わせる奇妙な名前だがこの本も宇宙論を説いた学術書か何かなのだろう。
『コズミック』と
有象は、それを
「いや、それは宇宙論や数学・物理のカテゴリーに在るのは可笑しい。これは、そうだな……探偵小説―引いては本格ミステリ小説の
彼は『本格ミステリーの棚』に『コズミック』を差し入れると別に本を数冊抜きとった。
「気になったので、借りておこう。宿泊中に読破したいな」と愉しそうだ。
らきむぼん『オムファロスの密室』『リリスかく語りき』朝歩く『昼歩く』倉野憲比古『墓地裏の家』
『スノウブラインド』
本棚を眺めるのに飽きたボクは美希を胸中に想い浮かべる。が、上手くいかない。
顔の
一方有象はというとボクと対象的に部屋の隅々まで書架を舐めるように視線が泳がせている。本を眺めだしたら止まらないのはこの男の悪癖でもあることを思い出した。
「発病してしまったのなら仕方ない。私も当初の予定通り此処に泊まろう。そうだな……君の部屋にしよう」勝手に今後の予定を取り決める。ボクはこれには驚いたので
「なんで……」と少しばかりの抵抗を試みる。
「不満そうだな」
(ええ、不満ですとも)
「他に部屋が空いてるじゃないか」
すると有象はボクの肩を掴み、
「
「わ、判ったよ。有象がそこまで強く云うなら従うけれど」
「うむ。では眠るまでの少しの間だが館の中を散策しようじゃないか。君は恐怖に私は謎と婚約しているのだから」
「それにしてもこの館を建てた人は大層な変わり者だね。一階から三階までと九つの利用客の部屋。それに限定された窓。良い意匠だ。できることなら
リヒャルト・ワーグナーの
『ニーベルングの指環』を館内放送として昼夜問わず流したいね。勿論、戯曲片手にね」
有象の云ってることがいまいちよく判らない。
「
「そうか」笑みを滲ませ
「あれをみたまえと」前方を指差してみせた。それは館の案内板だった。
驚いたことにそれぞれ三層ごとに名前がつけられている。
第一層Midgard
第二層Asgard
第三層Yggdrasill
「当然―秘密の通路も用意されているんだろうな」
と探偵は一人納得している。愉しいのだろう。唇の端がやや持ち上がっている。これはこの探偵が何らかの天啓を得た時の微表情だ。長年の付き合いであるボクにしか判らないだろうけれど。
「つまりあの門番は……うむ。ヤハリ君は気をつけるに越したことはない。しかし……あの時計……腑に落ちないな」ブツブツと独語を繰り返す。
「おい……ボクを誘っておいて一人で愉しむとは何事だ」時間差があった。しばしの黙考の後にボクに気づいたようだ。(ムカつく)
「ああ。すまないね。つまりだ。この館は北欧神話の世界観を内包した造りとなっているんだよ」
「北欧神話って
「『エッダ』? 」
「北欧神話の古典では国内で入手できる大変貴重な資料なんだよ。この図書室にも納めされてるけれどもね。ハイデッガーを引用するまでもなく建築物と
「そんなことはないよ」思わず心を見透かしたように有象は語を継いで
「建築や様式美には存在を誇示しようとする呪いであふれているからね。この建物にも呪が放たれている。北欧神話に於ける天地創造はユミルという
そのユミルが朽ち果て、各臓器や骨なんかが人間界や冥府、天上界。そして数多の神々を作るんだ」
「ちょっと待て。いきなり出てきた神とやらが死ぬのか―と、ゆうより神は死ぬのか」
「そうだよ。神は死ぬ。でも実際は姿形を
「じゃあもしかして……」
「判ったみたいだね。ワトソン君にも。そう……
忌み子とされた地で当時の美をそのままに留める館。確かに呪がかけられているのかもしれない。
「君のユミルも見つかったらしいじゃないか。最もライバルは多そうだ。けれど永遠の美を留めたベアトリーチェはダンテを
まあ話を戻そう。あの時計台の文字盤の三人の女性は北欧神話の女神達だ。
運命の
スクルド・ベルダンディー・ウルドの三姉妹。
運命を刻む秒針の
「時計ならあと一つ装飾が足りないんじゃないか」「それは私も違和感がある。女神は四人いたとは訊いたことがない。まあその謎は今は置いておこう。ハイデッガーの師、現象学の創始者フッサールもとりあえず判らないことは( )に入れよと説いてはいる。一時保留だ」
「女神の話はこの辺りで終わらせて次へ移ろうか。あの騎士を説明するとしよう。あの騎士は北欧神話ではヘイルダムというアース神族の世界と人間界を結ぶ 虹の
有象の忠告は確信をついてることが多い。ここはひとまず頷いておく。
「Midgard Asgard Yggdrasillてのは流石に判る。
世界樹と称されるユグドラシル(Yggdrasill)
その下の世界はアースガルズ(Asgard)
アース神族ってのは……」
「そうユミルの子孫だね。だからこそ、天上界で一番の位にいる。そこが面白い所だね。 人間が住まうミッドガルズ(Midgard)は至って平和な世界だ。 これが『古事記』なら、天孫降臨といって神が人間に成る大革命的なお話だし、北欧神話のユミルと同じく
それは何故か? これは私論だけれど
中国や日本と、海洋で隔てられてる地域に位置する阿斯蘭得には、中国からまたは、阿斯蘭得からは口碑伝承や民俗学の類は
それに、
北欧は君の云う通り、ヴァイキングの民族ではあるが、流石に中国大陸までは辿りつくには、当時の舟の構造上厳しすぎるしね。
盤古の例はユング心理学で唱えられる
つまりは、
だからこそ、北欧の神は人間に成り得えなかった。
そう―古文書を紐解いても『エッダ』のお話は人間は神に成り得る描写は存在しない。神は
それは、利用客用の居室を除いて一階にしか窓がないことでも顕著だ。
一階―一層はMidgard《人間界》だからね。
二層と三層は神の視点により俯瞰できることから
肉体を通して視る器官なんて邪であるという皮肉なんだ。拠って窓がない。そして何故東館には
窓がないのかとゆうと、東は北欧神話の世界で此方も巨人の地とされているから全く同じ理屈なんだ。
QED―証明終わり。
皮肉といえばその代表神はロキだ。
驕り高ぶった巨神族の血を受け継ぐロキとゆうキャラクターの火遊びで果ては
ロキには子供がいて、
特に際立って特徴的なのは狼神。グレイプニルと呼ばれる強靭な鎖で顎を縛られている。これは動くモノを留める力があるのだが、
ロキにより、外される。暴れる狼神を筆頭に大蛇も冥府も加勢する。
そして世界は―」
世界は? と先を促す。
―崩落する―。
ちょっと待て。
「それでは、美は留められないんじゃないか」
「そうだね。膨張に膨張を重ねた世界も最終的には崩落の美を迎えて物語は収束する」探偵はあっさりと
5 霊障一日目 (22:00)
「他に君に云っておく面白い事象がある」
「この他にもまだ何かあるっていうのか」
「ああ、君が惰眠を貪っている最中に実は到着していた。家具や調度品などに身を潜めながら来る人、来る人をやり過ごして観察を愉しんでいたんだよ」
(犯人みたいな行動だな)
其処で館内に存在するハズがないモノ……有象が来た時間帯には確かに其処にはなかった残骸があったのだと云う。どうやら館の膨張に伴い、周囲の物質が取り込まれている。理由は謎だが下生えの草などはその対象ではないらしく。あくまでオブジェなのだと。原型はそのまま留め置かれている。
とゆーことは……朝起きると祠が眼前に在るなんて現象にも遭遇するのだろうか。
「ところでだが……この膨張は続くと仮定して―その頻度と、どのぐらいの面積で拡がるのかはある程度割り出せるかもしれないな。しかしそれは明日また考えよう。君は仮眠をとってるからいいけれど私は疲れたよ。オカルト研の部員に挨拶だけして今夜は寝るとしよう」
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