帝京地下鉄東西線乗っ取り事件
onyx
トレインジャック
東京千葉間を東西に結ぶ路線がある。名前はそのまま、東西線だ。都内を走る地下鉄の殆どを司る帝京地下鉄が管理運営する路線で、その乗車率は約200%に達する事もある。遅延事故は当たり前。通勤ラッシュ時の時刻表は当てにならず、昼間しか定刻通りに動く事はないとも言われる程だ。
利用する側としては毎度毎度発生するこの遅延をどうにかして欲しいと思わずにはいられない。だが駅の職員は、「こんなのは日常茶飯事」と言った風体で仕事をしている。そんな改善をする気の見られないこの路線を我々は通勤のために毎日使用し、狭い車内で身動きも出来ずイライラを溜め込んで仕事に向かっている。JRで事故が起きればこちらにも足止めを食らった客が雪崩れ込み、その混雑は一層の厳しさを増す。現状、これ等に全てに関して何かしら対処はしているのだろうが、利用している人間からして見れば何も代わり映えしないのは明らかだった。
しかし、この路線に沿って町は発展し、経済も動いている。住宅地も整備され、比較的安い値段で賃貸を借りる事も出来る。駅は西船橋から中野までを主に結んでおり、途中下車するだけで十分に観光を楽しめるのも魅力の一つだ。
だが、そんな路線がある日、もしもトレインジャックされてしまったら―――
東西線 西船橋駅
通勤ラッシュが終わり、人も疎らになった駅のホームは閑散としていた。そのホームのベンチに、1人の男が座っている。グレーのコートを身に纏い、一見するとサラリーマン風の格好をしていた。視線は向かいのホームにある広告をただなんとなく眺めているにすぎない。
程なくして、同じような服装の男たちがホームにポツポツと姿を現し始めた。彼らは駅のホームに等間隔で立ち、車両の乗車口が目の前に来るであろう位置で仁王立ちになり、澄んだ空を仰いだり携帯端末を弄ったりしている。
駅のアナウンスが電車の到着を報せると共に、座っていた男がゆっくりと立ち上がる。等間隔で並んでいる男たちに対して、1号車の停止する場所を目指して足を進めていった。男が完全に辿り着く前に、ホームへ電車が滑り込んで来る。
『2番線の電車は各駅停車の中野行きです。黄色い線の内側までおさがり下さい』
ブレーキの音が喧しく響き渡る。電車が停車する前に、歩いていた男も1号車が止まる所で足を止めていた。次々に開いていくドアへ、男たちは吸い込まれていく。
発車の合図を報せるメロディが流れ、電車は中野を目指して走り始めた。高架橋の眼下に広がる住宅地や道路。遠くには東京湾も見える。空には成田空港へ下りようとしている飛行機が居た。
窓から差し込む優しい日差しの中、1号車に乗り込んだ男がまず行動を開始した。コートのポケットからスマートフォンを取り出し、帝京地下鉄のカスタマーセンターへ電話を掛ける。
帝京地下鉄 総合指令所
慌しい朝のラッシュによる遅延やトラブルを捌き切った指令所の空気は穏やかだった。鉄道指令長の
「これじゃあ体が持たん。早く引退させてくれんかな全く」
静かにそう愚痴を漏らしつつ、冷めたお茶をゆっくりと流し込んだ。毎年の健康診断でも消化器系に特に異常はないと言われているので、恐らくだがストレスが原因と思われるこの胃痛は、大迫を5年近くに渡って苦しめ続けていた。朝の忙しい時間帯になると決まって訪れるので、ほぼ確信しているがまだ退くには早い年齢だった。そのせいで会社が次の世代を中々用意してくれないのも悩みの種である。
(そろそろ有給でも使ってゆっくりするか……)
モニターを眺めながらそんな事を考えていた大迫の元へ、血相を変えた
「指令長、緊急事態です」
「脱線か? まだ何も警報は鳴ってないぞ」
「違います。東西線を中野方面に向けて走行中の260号車に乗っている男性から、トレインジャックを宣言する電話がありました。カスタマーセンターに通話しながら最後尾車両の車掌に向けて、コートの下に巻き付けた爆弾を見せていると話しています」
坂崎副指令長が何を言っているか脳が理解を拒んでいる間に、件の260号車の車掌から通信が入った。
『鉄道指令、こちら260号車車掌、至急応答願います』
大迫と坂崎の会話など何も知らない指令員が、260号車からの通話をオンにした。
「こちら鉄道指令、260号車どうぞ」
『浦安駅手前を走行中、コートを着た男が車掌室の窓越しにこちらへ向けて体に巻き付けた爆弾を見せながら、何所かと電話をしています。そちらに何か脅迫電話のような物は入電していないでしょうか、どうぞ』
指令員が青ざめた顔を大迫と坂崎に向けた。2人共に、その表情は固い。他の指令スタッフに聴こえないよう、小声で会話を始める。
「……何か要求しているのか?」
「通勤退勤のラッシュによる遅延の改善を求めています。また、ホームドアが何時になったら全ての駅に設置されるのかについての回答と、遅延に対する職員のなあなあな態度、情報発信の遅さなど、多様な改善回答を求めています。具体的な遅延改善策が退勤ラッシュの始まる18時までに提示されなければ、各車に1人ずつ乗り込んだ仲間と共に自爆テロを起こすと……」
その言葉に大迫は戦慄した。同時にしくしくと痛み出す胃を摩りながら、どう対応すべきかの検討を始める。
「指令、警察に連絡しましょう。我々だけではどうにも出来ません。260号車には現在50名近い乗客が乗り込んでいます。それに、東西線は市街地と地下を走行する電車です。どの地点で爆発が起きても、その犠牲者は相当数に上るでしょう」
坂崎の発言は最もだった。何所で爆発が起きても、多くの人間が巻き添えになる最悪の事態へと発展してしまう。それだけは何ともしても阻止しなければならない。
「分かった。直ちに警察へ連絡してくれ。関係機関や全ての駅へも連絡を頼む」
「承知しました」
「指令! どう応答すれば良いですか!」
待ちぼうけを食らっていた指令員がついに大声を出した。そちらへも、現状で的確と思える指示を送る。
「落ち着いて伝えてくれ。こちらにも脅迫電話の話は来ている。連中は東西線の通勤退勤ラッシュによる遅延の改善を求めている。18時までに具体的な改善策が提示されない場合、自爆テロを実施するつもりだと」
自爆テロと言う単語が、他の指令員をも震え上がらせた。有り得ないと頭の片隅で思っていながらも、もし本当に起きたらどうすれば良いのか、この職種を選んだ人間なら誰もが1度は考える事態がよりにもよって今日に引き起こされたのだ。
緊急対処のマニュアルは相応の物が存在しているが、走行中の車内で発生した場合の対処法は実の所、明確に定義付けされていなかった。しかも複数犯による計画的な犯行である。1両につき1人を乗り込ませ、全員が体に爆弾を巻き付けている等、誰が想定するだろうか。大迫もまた、何をどうすれば良いかは分からなかった。
中野方面行き260号車 最後尾車両
「いえね、御社の苦労は並大抵の物じゃないと私も常々に思っていますよ。ですからこれを機会にですね、抜本的な改善策を提示して頂きたい訳ですよ。ユーザーの希望に応えるのがサービス業の鉄則じゃないですかぁ。そうすれば行く行くは、東西線の全線地下鉄化も夢じゃないと思うんですけどねぇ」
窓ガラス越しに、ヤツの話し声が聞こえて来る。30代後半のやつれ切った顔だ。恐らくはクビになったか退職したサラリーマンだろう。電話に対する言葉遣いがヤケに丁寧なのが鼻に掛かる。
「正直あなたとこれ以上の話をしていても進展しませんのでねぇ、どなたか責任者の方を出して頂けないですか。あなただって私が何かに腹を立ててこの起爆スイッチを押して、何百人かの死者を出す原因になんてなりたくないでしょう。だからお願いしますよぉ」
元は営業か何かに所属しているのが窺えた。相手の機嫌を損ねないよう、丁寧にこちらの言い分を通そうとしているのを感じる。
「ああ、はい。お忙しい所を申し訳ありません。ええそうです。私を含めて10名でこの電車をジャック致しました。先ほどから申し上げている通りですね、混雑の改善を訴えさせて頂いております。18時までに何かしら改善策をご提示頂けない場合は全員で自爆テロを実施しますので、どうか色よい御返事をお願い致します」
狂っている。それが260号車の車掌こと、
取りあえず指令センターへの連絡は済ませた。後は上がどう判断して対処するかに掛かっている。無いとは思いたいが、交渉しろ何て言われたらどうすれば良いのか、鷹田には想像も出来なかった。
「はい、では進展ありましたらこの番号まで折り返し頂ければと思います。申し訳ありませんが、どうぞ宜しくお願い致します。失礼します」
男は通話終了の表示を押して、電話を終えた。スマートフォンをコートのポケットに仕舞うと、鷹田が乗っている車掌室の窓をノックして来た。視線を合わせたまま、鷹田はドアを開けて乗客の居る空間へ足を踏み出す。
「お聴きの通り、この電車は我々がジャックしました。下手な真似をすれば文字通り消し飛びます。私も無碍に人の命を奪うつもりはありません。ですが、そちらの対応如何では全員一緒にあの世逝きです。その旨、乗客の皆さんにお伝え願えますか」
鷹田は引き攣った顔で、こんなお願いがあって堪るものかと心中呟いた。これでは自分がこの男と指令センターの取次ぎをしなければならなくなる。そんな大役、自分に出来るのかと頭の片隅で思いながらも、男の要求を乗客に伝えるため車内放送マイクのスイッチを入れた。
「……お客様にお報せます。只今、当電車はトレインジャックされました。何もしなければ、乗客の皆様に危害は加えないと言っています。ですが、18時までに要求が受け入れられない場合、当電車は爆破されます。どうか、何もせずに落ち着いて下さいますよう、お願い申し上げます」
鷹田がそこまで喋った所で、男は車掌室に乗り込んでマイクを奪った。
「私が主犯格の、そうですね、
その言葉を切欠に、各車に乗り込んでいた仲間たちも一斉に行動を起こした。右手に起爆スイッチを握り締めた男たちは、コートをはだけて体に巻きつけている爆弾を乗客たちに見せびらかしている。車内は一瞬にしてパニックへ陥るも、逃げ場の無い空間に居る事で自然と静かになっていった。
自称金本はマイクを鷹田の手に返し、車掌室から出て行く直前、何かを鷹田に耳打ちして来た。
「電車を停めれば、それも交渉決裂と受け取ります。運転手の意思によるものだろうと、鉄道指令からの命令だろうと同じです。それも上にお伝え下さい」
鷹田は思わず息を飲んだ。これは、只のテロではない。用意周到に練られた、運行システムの抜け道と事なかれ主義に対する反抗だ。
「……一言一句、お伝えします」
「ありがとうございます」
不思議な感覚だ。近年で稀に見る前代未聞の大罪を犯しているのに、物腰がとても柔らかい。金本の要求を鉄道指令センターに伝える傍らで、まるで別企業の人間と仕事上の関係で接しているかのような気分に、鷹田は陥っていた。
電車は浦安、葛西、西葛西駅を停まる事なく走り抜けた。ホームで電車を待っていた人たちが、停まろうとしない電車を呆然と見つめている。
260号車の運転手こと
赤澤は一目散に逃げ出したい気持ちを必死に抑えながら、実質的に自分自身とも言える電車を走らせ続けた。鉄道指令が電車への送電をカットし、車体を停車させて何かしらの実力行使に出ない事を祈りながら―――|
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