あ、そうそう、これだけは言っとく

 騒がしい1年B組教室の最後列で、山田は暇そうに電子辞書をいじっていた。午後一時、入学式が始まる少し前。内部入学者たちの奇異の視線が突き刺さるが、特に気にしない。あの日出会った彼以外の人間に、興味などない。

 ……彼とはクラスが違ったようだ。目に焼き付いた姿を見紛うはずがないのに、既に全員が揃っているクラスに彼の姿は見当たらない。そうなると話す機会どころか、遠目に眺めることもままならなくて。嘆息し、電子辞書のキーボードに指を走らせる。半ば無意識で検索ボックスに打ちこんだのは、『彼の名前』という文字。

「……っ」

 軽く見開いた瞳を、ふっと伏せる。じんじんと熱い胸に手を置くと、新品の制服の感触があった。優しいベージュ色のブレザーと、その中でよく映える臙脂色のネクタイ。……この制服はきっと、彼の方がよく似合う。見てもいない彼の制服姿を脳裏に描きながら、ぱたりと電子辞書を閉じる。


「なぁ、お前、山田っていうのか?」

 ふと降ってきた男子生徒の声に、顔を上げる。前の席の生徒が椅子に逆に腰かけ、山田の机に頬杖を突いていた。面長気味な顔に満面の笑みが浮かび、その瞳は小学生のように純粋な光を宿していた。机の端に置かれた紙に軽く視線をやると、自分の名前と『ご入学おめでとうございます』の文字が躍っている。おそらく、そこから名前を知ったんだろう。

「……そうだが」

「そっか。俺、矢作っていうんだ。矢作悠仁ゆうじん! よろしくな!」

「……」

 聞いてもないのに自己紹介する矢作からすっと目を逸らし、頬杖を突く山田。ともすれば腹を立てられそうな行動だが、矢作は欠片も気にせずに言葉を続ける。

「でも山田、この名前、なんて読むんだ? ほし……せい?」

「スターライト」

「……は?」

 呆然と目を丸くし、矢作は間抜けな声を漏らした。しかし既に慣れきっているのか、山田はそれをを一瞥もせず、適当な床を眺めたまま口を開く。

「星って書いてスターライト。よく聞かれる」

「……す、すごい名前だな」

「親父命名。そんなことはどうでもいいから――」

「いや、どうでもよくはないよな……?」

 口元を引きつらせた矢作を軽くスルーし、山田はようやく彼に視線を向けた。黒縁の眼鏡越しに矢作を一瞥し、口を開く。

「お前、内部進学者か?」

「そうだけど。っていうか9割がた内部組じゃね?」

「そうか。ある生徒について知りたい」

「唐突だな……」

 マイペースというか、ペースがおかしいというか。すっかり彼のペースに巻き込まれつつ、矢作は軽く頭を掻く。

「……そいつ、名前なんてーの?」

「知らない」

「マジかよ……ここの生徒なんだよな?」

「ああ。内部生だった」

 彼の言葉を聞きつつ、矢作は考える。あまり他校と関わりを持たない鶴天の生徒が、外部の生徒と話すような機会は非常に少ない。しかし、どこで知ったのかはあえて突っ込むことはせず、矢作はさらに問いを重ねる。

「そいつ、どういう見た目してる? 流石にそんくらいはわかるだろ」

「まぁ、わかるが」

 机の上に視線を落とし、山田は何かを思い出すように口を閉ざした。眼鏡越しの瞳にろうそくのような光が灯るのを、矢作は怪訝そうに見つめる。水彩絵の具で画用紙を塗っていくように、山田はそっと声を唇にのせる。

「……明るい茶色の髪をしてて、血色がよさそうな肌色で……目は若干垂れ目がちで、利発そうな茶色で。身長は……俺と同じくらいか、若干低いか……」

「……」

「……あと、笑顔がすごく似合う。そいつ男だけど、有り体に言えば……かわいい。天使みたいで」

 画用紙を淡い色で染めていくように、砂糖菓子のような声が彼の姿を描く。明らかに先程までとは調子が違う声に、矢作は呆然と山田を見つめた。黒縁眼鏡の奥の瞳には、春の日差しに目を細めるような光があって。得た情報を脳裏でつなぎ合わせるより先に、矢作は半ば無意識で呟いた。


「……キタコレ」

「は?」

「あぁ、いや、なんでもない。気にすんな」

 一瞬で氷点下まで落ちた山田の視線が突き刺さる。それを逸らすように両手を振りつつ、矢作はとりあえず話題を逸らす。

「山田が言ってるそいつだけど、たぶん隣のクラスの神風だと思うんだ」

「……カミカゼ」

「そ。神風爽馬」

 その名前を聞き、山田はふっと視線を落とした。カミカゼ、ソウマ。よく晴れた朝の日差しのような、そんな名前。

「幼稚舎から鶴天にいる、まぁいわゆるエスカレーター組でさ。勉強もスポーツもそれ以外も、大抵のことはそつなくこなすわりに、気取ったところがあんまりなくてさ。人当たりが良くて親切だし、育ちもいいし、弱点探しても見当たらないし、こんなハイスぺチート実在すんのかよレベルなんだよ……」

「……」

 矢作の声を雑に聴きながら、山田はぼんやりと思考を巡らす。他人からの評価などに興味はない。誰かの目を通した彼は、本物の彼では決してない。電子辞書を改めて開きつつ、適当に話を切り上げる。

「そうか。助かった」

「あ、そうそう、これだけは言っとく」

「……?」

 ひどく真面目くさった声に、山田はとりあえず視線だけ上げる。対し、矢作は堂々と胸を張り、言い放った。


「恋愛相談なら受けつけないぜ? BLじゃ恋愛相談相手も恋愛に巻き込まれたり割とするからさ。俺、自分がCPに巻き込まれるのは地雷だから!」

「ふざけるな滅びろ」


 それ以来、山田は矢作悠仁と一切口を利かなくなったんだとか。

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