第22話 理解って、抱いて、愛して《 Ⅱ 》
胡蝶との出会いは、夜蝶にとっては特別なものではなかった。夜蝶の父親はひどい人間で、自分の子供に暗殺を叩き込み、できなければ平然と暴力を振るうような人間だった。
廃棄区画にある家庭としてはそれは標準であったが、標準だからと言って痛くないわけではなかった。最も、そんなもの感じるのも面倒になっていたのだが。
ある日、家が燃えた。恐る恐る課題を捨てて、部屋の外に出ると父親が心臓をひと突きされて死んでいた。兄はいなくなっていた。
能動的な憎悪で、能動的な憤怒でナイフを持つ。
殺されたから殺す。ごく当然の理論だと思って。
家の外、瓦礫の上に彼女は座っていた。黒髪が、月明かりで銀色に見える。
『はー。ナイフを持って立ち向かってくるか。骨があるのがいて良かったよ』
『あんた、誰だ』
『……お前の家族を殺した人間』
『…………親父は良いよ。でも兄貴はダメだ』
『興味ねえな。いいか、クソガキ……いや、オマエ、オレより年上か。まあ良いよ。なんだって、どうだって良い。大事なのはな、死の価値は等価ってことだよ。死は全てに等しく訪れる。そして、オマエが殺さなくてもオレの死もまた、いずれ訪れる』
濁ったカラメル色の瞳が自分を見下ろしていた。まるで彼女が月になったようだった。
『だから良いよ、くれてやるよ』
『…………あ?』
『オレの死、オマエにあげる。オレの背中、預けてやるよ。光栄だろ?』
『どういう意味だよ』
『実は今、個人部隊を作れって言われててな。でも団員に目処が立たない。だからオマエを一人目にする』
とんでも理論の自由人。彼女はまさに名前の通りの蝶だ。ふわふわとひらひらと、こちらのことなんて視界に入ってはいない。
『オレの背中を預けるってのは、いつだって好きなときに撃ち殺せるってことだよ。さあ、青年。殺ってみろよ。あんたはオレを殺すその日まで、オレを守れるかな?』
そのゲームにのったのは気紛れだ。
この女を殺せればそれで良いと思った。彼女はそう簡単には殺されてくれなかったし、奇襲をかける度にダメ出しをされた。
父親から叩き込まれた暗殺術は実践じゃあほとんど役に立たなかった。特に魔法師相手じゃあそんなの意味がなかった。仇に土下座をして魔法を教えてもらった。父親よりもハードではなかったが、十分苦しいものだった。
守る必要がないと思っていた時期の方が長かった。
ある日、彼女が加害者ではなかったと知った。彼女もまた、廃棄区画出身だと聞かされて。なんて思ったのだろうか。少なくとも獄幻家と言うのは高貴な家だと聞いていたから、ひどく驚いて。
あれから時間がたって、周りに人が比べ物にならないほどに増えた。家族のいない自分等に、その温もりを与えようと年下の子供が必死に抗って。
それで……守ると言うことにも、いろんなやり方があるのだと知らされた。
お盆を片手に部屋の前で足を止める。扉を数回ノックして、返事が返ってくる前に開いた。
「…………胡蝶」
小さく呼んだ名前は宵闇に溶け落ちる。盆を机の上に置いて、精神安定剤の残骸を足で避けながら寝台に近づく。
あれから何日、彼女はこうしてるんだろうか。
あの日に、良くにていた。
瞳を閉じて息をしている彼女は、あの日、夜蝶を弄んだ彼女に良くにていた。そっと首に手をかけると瞳が緩やかに開いた。
「夜這いか?」
「………………胡蝶」
「なんだよ」
窶れた。すっかり窶れて、きっとこのままこの可憐で冷たい花は朽ちるのだろう。ならば、醜く色褪せる前に。
「おれが、殺してやろうか」
息遣いだけが寝室に降り積もる。手に力はまだいれていない。だが彼女がそれを望むなら、そうしたいと思った。
「閨で言われるような言葉じゃないな」
「胡蝶。おれは本気だ。楽になりたいって言えよ。苦しいって言え。死にたいなら、死にたいって言え。お前がなにか望むなら、おれが叶えてやる。だから言えよ! 救ってくれって! 苦しいって言え!!」
ほとんど叫びとなったそれを、胡蝶は表情一つ変わらずに見上げていた。
「…………そう言えばなにか変わるのか?」
「変える。おれが、変えてやる。だからお願いだ……なにか、言ってくれ」
懇願するような、祈るような、そんな声が寝室に響き渡った。彼女の吐息の音が聞こえる。
「……苦しくないよ」
「胡蝶」
「辛くもない」
「胡蝶!」
聞こえてきたのは思考とは裏腹に、平然とした嘘の答えだった。
「なあ、胡蝶、お願いだ。本当に、お願いだよ……俺のために、もうだめって、平気じゃないって、無理だって泣いてくれ。嘆いて、すがって、祈って、叫んでくれ」
「……
「名前なんて、要らないよ。お前のくれたのしか、要らないから……要らないから、お願いだ。俺にあんたを愛させてくれ。あんたがしたいようにする。全部やってやる。罰されることでしか許されないってお前が言うなら、俺が罰するから」
「夜琉。それは間違いだよ」
ひどく平然と、傷付いたような顔で胡蝶は嗤う。痛々しく、呼吸をするたびにどこかが痛んでいるのではないかと思うような、そわな顔で。
「そう言った地点で、そう思ってる地点で、その献身のせいで、もう全て、意味がないんだ」
ああ、ああ、ああ。
痛い。痛い。痛い。痛い。
官能的に響く息遣いの音すら、痛みを孕んでいた。
細い細い首筋を絞めてしまいたい。その苦痛から許したい。けどその優しさこそが胡蝶の毒になっている。ならばいっそ、エゴイスティックに。自己的に。陶酔的に。
彼女の痩せ細った栄養不足の体を抱き締めることもできやしない布切れを引き裂き、苦痛にまみれる彼女を組伏せて、その腹の中まで暴いてしまえば、彼女も楽になるのではないだろうか。
肺の全てを酸素と夜の空気で満たして、血液全てを啜って、その心の全てを吐き出したくなるような愛で腐食させたら……少しでも、楽になってはくれないだろうか。
「……本当は分かってるよ」
夜の静寂に不意に響いたのは彼女の声だった。
「もう、分かってる。私は、多分、全然平気じゃない」
「なら」
「でも、平気じゃないって言えるのか? 言う資格が、私にあるのか?」
百の人間を殺した。千の人間を殺した。この両腕は血と業で染まって、洗おうとも落ちることはない。多くの人間を殺して、その死を蔑ろにしてきた。
屍の上で、生きてきた。
「そんなヤツが――誰かの死を、悼む資格があるのか?」
息と共に、痛みを吐き出すように、そう吐いた。
「誰もの死を蔑ろにしてきたヤツが、誰かの死だけを、特別嘆くのか? どこかで誰かが悲しんでいたかもしれない死を、私は踏みにじってきたんだぜ?」
誰か一人の死を尊ぶのか?
平気でないと言って、逃げたとして、そうして生き延びるほどの価値があるのか。
「仮に灰と、他の誰かの死が、それぞれ別の価値を持っていたとして――私は、その死を悼んで良いのか?」
黒い、沼のような底無しの絶望がその心を満たしていた。
「今なら誰よりもはっきり言える。この流れの中、異端だからこそはっきりと分かった。人生は、死ぬためにあるんだ」
彼女は今度ははっきりと嗤った。
「ならきっと私に死ぬ価値はない。できるだけ惨めに生き長らえて、できるだけ惨めに死ななければ。例えばそう、この光すら通さない海底のような帳の中で、腐り落ちるように」
混ぜ込んだ絶望を飲み干すように胡蝶はそう言った。
許されることも、救われることもない地獄の底で彼女はそう告げた。山積みになった精神安定剤と、薬指のリングと、たっぷりの絶望が彼女を殺すのだ。
黒く濁った瞳で、彼女は嗤う。
「私は私なんて大嫌いだ。死んでしまえばいい。死んでしまえば、楽になる。でもその楽になることすら、許せないのなら……このまま、この泥沼の中で溶け落ちるしかないんだ」
未来も、明日もいらない。
師匠も灰もいないならこんな世界に価値なんて感じない。このまま、世界の全てが終わればいい。
「だって誰も私のことを分かって、抱き締めて、愛してくれないでしょ。死を降りまくって言うだけでしょ」
ひどく落胆したその声に、夜蝶は手を離すしかできなかった。
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