第20話 綻べよ、心の花《Ⅲ》
結局あれから全く眠れぬまま、胡蝶は桜華を迎えることになっていた。
「顔色が悪いな、愚妹。寝不足か?」
「…………ばかしののせいでな」
重く鈍い頭と、思い出すたびに熱くなる頬とに苦戦する胡蝶の薬指に桜華がふと、目を見開く。
「愚妹。婚約したのか?」
「……………………コンヤク?」
「ああ。左手の薬指は結婚指輪を嵌める指だ。とは言え愚妹が結婚したとは聞いてないからな」
ケッコン。コンヤク。
初めて聞いた言語のようにその二つの言葉がぐるぐると輪転し――はっ、と一気に顔が赤くなった。
「そ、そう言うことかッ…………!! あのばか!」
「?」
そう言えば確かに聞いたことがある。婚約指輪だか結婚指輪だかは左手の薬指につけると。
自分には関係ない話だと聞き流したし忘れていた胡蝶が百パーセント悪いが、はっきり言わなければ分かるはずもない。
それにそりゃそうだ。桜華のことを信頼してるはずだ。
だって胡蝶はそう言うことに疎いもの!!
「…………ちなみに、キスって場所によって意味が」
「あるぞ」
「ぐあああああああ!!」
聞くか、聞かないか。悩んだのは五分くらいだった。まるで壊れかけのロボットのような動きで振り替える。
「……首の、意味はなんでしょうか」
「欲求だな」
「ストレート! 本能しかねえのか! あのばかには!」
「ま、ヤツは甲斐性がないからな。我を見習うといい」
「ねえねを見習わなければならない甲斐性とは?」
「?? 我は頼りがいがあるだろう? いわゆるイケメンと言うヤツだ」
否定できない。桜華は大変イケメンだ。頼りがいもあるし、いつ頼っても助けてくれる。
「その辺り灰はなぁ…………大切だと思うと途端に奥手になる。事実こうして愚妹に知らせるのに二年もかかった」
「………………ん??」
二年??
二年、とは??
桜華はカップを受け皿に戻してたおやかに微笑む
「気がついていなかったか。灰が愚妹を好きと自覚したのは二年前よ」
「二年とは??? アイツ、まじで…………ろりこ」
その続きを口にしようとした時だった。外で言い争う音が聞こえ、胡蝶は何事かと顔を出す。
「あっ、ボス!!」
「止めろ!! それを報告するな!!」
言い争っていたのは夜蝶と元アゲハの隊員だった。確か今は松仙の元で働いていたはずだ。何事だろうか。外に出ると夜蝶がはっと驚いたような、怯えるような顔を浮かべた。
「なんだ。何かあったのか?」
「止めろ!! 胡蝶ッ! 聞くな!!」
「夜蝶……?」
彼が唇を噛み締める。
「お願いだ、胡蝶……。その償いは、なんだってする。だから、聞かないでくれ。お願いだ。一生の、お願いでいい。だから……だから。聞かないでくれ」
焦燥した様子の懇願は、土下座しろと言えばしそうな勢いだった。彼は胡蝶がそれを聞くことを恐れているようだ。
「夜蝶」
「…………はい」
「無知の幸福と、知ることによる不幸ならば私は後者を取る」
「胡蝶ッッ!!」
「気にするな、報告しろ」
「で、では……」
胡蝶の言葉に抗議の声を上げた彼を無視して指示をする。
「 」
「………………は?」
言われた言葉の意味が、理解できずにただ、胡蝶は瞬きをする。全ての音が空滑りしていた。だって、そんなの、あり得ない。あり得るはずがなくて。
「貴様、今、なんと」
「……ですから……」
彼は躊躇うようにもう一度、その言葉を繰り返した。
「――先刻、
胡蝶は地面にしゃがみこむ。昨夜あんなに話したのに、と言う思いが胸をよぎった。それくらい、唐突で。人はすぐに死ぬと分かっていたのに、それなのに衝撃で。
隊員が持ってきたそれは――
***
「獄幻隊長」
足元の覚束ないまま、歩いてきた胡蝶を出迎えたのは元叢雲隊の隊員だった。
「お久しぶりです」
「…………通せ」
「も、申し訳ございません……その、鶴野様から貴方だけは決して通すなと……」
胡蝶が緩慢な動作で手を持ち上げると、影から飛び出してきた水銀が隊員の首に絡み付いた。そのまま、首を潰すために手を握り締める。
「ッ!!」
「愚妹!!」
「同じことを二度は言わない。私は誰にも指図されないし、誰の指図もうけない。私だけが私に命じる権利を持つ。それとも……」
彼の顔が青白くなる様子を眺めながら、胡蝶は軽薄で悪辣な笑みを浮かべた。
「お前も殉職をお望みか? 彼のように」
「………………通して差し上げろ」
「しかし」
「彼女は我々の上官で命の恩人だ……この方がここまでする、と言うことに意味がある。通せ」
手を緩めれば水銀が彼を下ろした。
「しばらく動かない方がいい。力の調節ができなかった……手荒くして悪かったな」
「いえ……脅していただかなかければ通すこともできませんでした。その……心中、お察しします」
胡蝶が脅したとなれば彼らは命令違反を許されるのだろう。頷くこともなく、暗く、深い廃墟へと歩を進める。
暗い、影の中。鉄柱から伸びる縄に首を括り、彼は、ただ、そこにいた。拳銃で縄を撃ち、落ちてきて、冷たくなったその体を受け止める。
「愚妹」
「平気だ。なんてことはない」
「……………………愚妹?」
信じられないことを聞いたかのように桜華は聞き返す。胡蝶は笑った。それは、満面の笑顔で。
「平気だ。これくらいなんてことないよ。今までだって沢山看取ってきたんだ。沢山殺してきたんだ……この程度じゃあ、傷付かない」
さっきまでの焦燥が嘘だと言うように晴れ晴れと笑った胡蝶に、桜華は笑えなかった。ひきつった、乾いた感情だけが、顔に張り付いている。
「愚妹」
「ちょっと焦っちまったな……遺体があるなら、まだいいほうだ」
失望ではない。絶望でもない。まるでそれは、猛毒の入った杯の中身を知っていて飲み干すような表情で。
「……平気なわけないだろう」
桜華の言葉に彼女は瞬きをする。分からないと言うようなその顔に、燃えるような怒りが走った。
「平気なわけないだろう!!」
「痛っ、ねえね、痛いっ」
肩を恐ろしく強い力で握り締められ、胡蝶の顔はきゅっと歪んだ。
「愚妹!!」
「ほっ……本当に平気なんだよ!!」
彼女は、今度こそ、目を丸くした。桜華は平手で胡蝶の頬を叩く。乾いた音と走った痛みも構わずに、痛くないと笑う胡蝶を叩いていた。
「平気などと言うな!! 大切な人間が死んだんだぞ!! なぁ!! 胡蝶!!!」
「ねえね」
「愚妹!! それはっ……平気じゃ、ないんだ!! 痛いんだ、お前は! 何故目を背ける! 何故分からないふりをする!」
「わっ……分からない! だって、それなら、これまでの死としのの死とが、まるで違うみたいじゃないか!! なんでそんなことを言うんだよ!!」
「違うからだ……!!」
上ずった声で桜華が告げた言葉が、理解できない。彼女は理解できない。叩いた手だけが痛い。どうしてこうなんだと、叫びたいのにできない。
「…………それとも、おまえにとってしのは、どうでもいい人間だったのか」
「………………」
「愚妹。我は……我は」
平気なわけがない。
平気でいいはずがない。
ただ、本能的に胡蝶はそれを理解することを拒んでいる。理由は分からない。意味も、意義も分からない。だけど。『痛くて』『辛くて』『苦しい』を、理解できない彼女を責められるわけもない。
桜華は拳を握り締める。
自分自身を削っている胡蝶がどこに辿り着くのか――桜華自身、その想像をしたくなかった。
ただ、なにもできずに立ち尽くす胡蝶の左手。心臓の血管に繋がるとされてる薬指で、未来永劫果たされない約束の指輪が、切なく煌めいた。
それこそが紛れもない、桜華の問いへの答えだと知らないまま。
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