第五章 還る場所①

「本当は、別れを惜しむ時間を与えてやりたいのだが、もうそんな余裕は……どうやらないらしい」


 アラインの優しい顔はひどく疲れていて、終わりのときが近いことを知らせてくる。


「……アライン様は、また眠りにつかれるんですか?」


 ナールが、泣くのをこらえた子供のような顔で問う。泣きそうになっているだけ、彼は理解が早い。

 他の者は、まだ何が何だかわかっていない様子だ。


「そうだ。だが……次の百年後は、迎えられそうにない。だから、眠ったらわれの体はあの祠に運ぶのではなく、ここに埋めてくれるか? この、聖木の隣にでも」

「……アライン、死んじゃうの?」


 ようやくわかった芽衣は、必死になってアラインを見上げる。アラインは、ただおだやかに凪いだ目で見つめ返すだけだ。


「まだ、死なない。大事なそなたを、父と母の元へ帰してやらねば。メイの願いは、元の世界へ帰ることだろう?」

「…………」


 優しく問われ、芽衣は答えられなかった。

 唇を噛みしめて、次々あふれる涙と嗚咽をこらえるのがやっとだった。何か言葉を吐き出せば、泣き崩れてしまいそうだ。


「われが眠ったら、ここに埋めてくれ。そうすればわれは森と水の流れの中に還り、ここに再び生命として芽吹くことができるだろう。それを、新たな聖木とすればいい」

「そんな……」


 エイラは衝撃のあまり言葉をなくし、口元を両手で覆った。

 ナールは涙を流しながら、首を横に振り続けた。

 聞き分けのない子供たちを諭すように、アラインは言葉を続ける。


「われがいなくなったあとも、この世界を守る者が必要だろう? だから、死んでからもそれを担おうと言っているのだ。死んでからもこの世界を見守っていけるというのは、われにとっても希望のあることなのだ」


 アラインは聞く者を落ち着かせるような心地よい声で語る。

 それだけに、聞かされる者の胸は痛んだ。

 アラインの深い愛と思いやりが伝わるからこそ、それを受け取るだけで返すものを何も持たない者たちは、その不甲斐なさに泣くしかない。


「すぐには……すぐには死なないのでしょう? それなら、残りの時間は、あなたの時間を生きてください! アライン様の幸せのために生きてください!」


 泣き叫ぶサイラスに、アラインは困り果てた顔をした。


「まさか、お前にまで駄々をこねられるとは思わなかった。サイラスはきちんと飲み込んで、最後には他の者たちを説得してくれると信じていたのだが」


 困惑し、アラインは顔をくしゃりと歪めて笑った。それを見たサイラスは、流れて止まらない涙を手の甲で何度もぬぐった。


「飲め込めません! もう、アライン様は解放されていいはずだ! あなたが幸せになるのを見届ける義務が私たちにはある!」

「では、誰がこの世界を守るのだ?」

「私たちが! シャリファ様の村のように、祈りで穢れを払ってみせます! 祈りで世界を美しく保てると、あの森は証明していましたから!」


 絶対に引き下がらないという姿勢をサイラスは見せた。しかも、ただ駄々をこねるだけでなく、具体的なことまで語った。

 それを聞いたアラインは、悲しみの浮かぶ顔で笑った。ペリドットのような瞳には、面白がるような光が宿る。

 だが、それだけだ。


「お前たちの思いは伝わった。それでも、もう時間だ」


 そう言うと、アラインの身体はさらに光りだす。姿は光の中で薄れ、その向こうに別の景色が見える。

 別の世界が、時空の扉が開いたのだと芽衣はわかった。


「メイ、みんなにお別れを」


 アラインに言われ、芽衣はあわてて光の中からみんなのほうを見た。

 みんなの姿はまばゆさの向こうで、もうほとんど見えなくなっている。


「メイ、大好きよ! あたしの、憧れの聖女様よ!」


 涙まじりのエイラの叫びが聞こえる。


「私も、大好きよ! エイラ、幸せに生きて! たくさんたくさん、これまでのぶんも幸せに生きて!」


 芽衣も負けじと叫び返す。心からの祈りを込めて。


「メイ様、あなたが今代の聖女で、俺の聖女様でよかったです!」

「私も、ナールが一緒に来てくれて良かった。ありがとう」


 ナールの必死の声に、芽衣も必死で答える。もう、声はだいぶ遠くなってしまっている。


「メイ様、愛する人とは離れてはいけない!」


 光に飲み込まれはじめ、芽衣の身体がふわりと浮く。


「メイ様……を、あなたが……アライン様を……に……!」


 サイラスの叫びが聞こえるが、途切れ途切れになる。

 その声に芽衣は懸命に耳を傾け、聞こえた言葉を頭の中でつなぎ合わせた。


「……サイラス、わかった! 私に、任せて!」


 ちりぢりになった言葉が頭の中でつながったとき、芽衣の中に天啓のようにひらめきが降りてきた。


「アライン、聞いて。私の願いごと」


 芽衣は、光の中で手を伸ばして進む。近くにいるはずのアラインを探して。

 ほどなくして、芽衣の指先にひんやりとしたものが触れる。硬い皮膚だ。それで芽衣は、アラインが竜に戻っていることに気づく。


『願いとは、なんだ? 元の世界に帰ることだろう?』


 おだやかな声が、そう問いかけてくる。初めて聞いたときと同じ、頭の中に響いてくる声だ。

 芽衣は両手でアラインと鼻先と思しき場所に触れ、そこに額を寄せた。きちんと、自分の思いを届けられるように。



「私の願いはね、アライン。あなたと一緒に生きること。ねえ、一緒に来て。私と生きて」



 強く思いをこめて、芽衣は願いを口にした。

 口にしてみると、それを真に望んでいたことがわかる。

 芽衣は、アラインを愛している。

 元の世界に帰りたいという願いは当然持ち続けているが、アラインと離れるのも嫌だと思っていたのだ。

 どちらかひとつしか選べないと思っていたから、元の世界を選ぼうと思っていただけだ。

 どちらも望めるのなら、絶対にアラインを離したくない。

 わがままだとはわかっている。それでも、アラインをこのままにしておきたくないのだ。

 人が好きで、人のために生きた竜。

 人のために力をふるい、そのたびに長い眠りについてきた。そのせいで、異界から来る少女と心を通わせても、いつも別れ別れになってきた。

 そこにアライン自身の幸せはあったのだろうかと、芽衣も思ってしまう。

 だから、手を離さずにいて、幸せにしてあげたい。


『……そんなに長くは、一緒にいてやれないかもしれないぞ』


 頭の中に、気弱な声が響く。だが、それが拒絶の言葉ではなかったことに芽衣は喜んだ。


「それでも平気! とは言いきれないから……そうだ! 私の寿命とアラインの寿命、足してはんぶんこにしよう。そしたら、私もあなたも寂しくないよ」


 言いながら、何て名案なのだろうと芽衣は思う。

 嬉しくなって笑う芽衣に、アラインが戸惑っているのが気配で伝わってくる。


『恐れを知らないというのは、困ったものだな。……これまでの聖女で、そのようなことを言った者は誰もおらん』

「いなかったから、私が言ったのよ。アラインが前に言っていた、幸せに生きてきた者にしかできない選択って、こういうことだったのね。私、アラインにこのままひとりで最期を迎えさせて後悔するより、一緒に生きていきたいの」

『そなたは、本当に……うまくいく保証はないぞ』


 呆れるような溜息のあと、光がさらに強くなった。視界がゼロになる。

 そして、押し寄せてきた強い力に、芽衣の身体は流されていく。


(……水だ!)


 途端に、あの日のことが思い出される。

 増水した川に落ちて、濁流に飲まれたあの日のことを。

 アラインに導かれ、異界へ迷い込んだあの日のことを。

 あのときの、水の中だ。戻ってきたのだと、芽衣は悟る。


『……理(ことわり)から外れた願いだ……』


 アラインの声が、遠くに聞こえる。だが、芽衣はもう答えることができない。濁流に翻弄され、どこに進むのかさえ自由にならない。


『……だ。……を代償に…………』


(アライン!)


 心の中で強く呼ぶが、もうアラインの声は聞こえなくなった。

 聞こえるのは、激しい水音だけだ。芽衣の身体は、ただ乱暴に、暴力的にも、流されていくだけだ。

 こらえようと思ったのに、ゴボォッと息が口から漏れた。すぐに苦しくなって、芽衣の意識は薄れていった。






 ...。oо○ ○оo。...




 誰かの気配と話し声が耳に届いて、芽衣は目を開けた。

 ぼんやりとした視界に、ゆっくりと色が戻ってくる。見えたのは、清潔な白の天井。


「……びょ、いん……?」


 喉がカラカラに乾いて強張っていて、声がうまく出せなかった。だが、そのかすかな声だけでも十分だったようで、気配の主があわてたように寄ってきた。


「芽衣ちゃん!? 起きたの? ああ……ごめんね。ママ、お花を活けなおそうかと思ってて……ごめんね。もっと前から起きてた?」

「……いま」


 母は少し取り乱していた。芽衣がもっと早くに起きていたのではないかと思って、それに気づかずにいたのではないかということを気にしていたらしい。

 だから芽衣は首を振って、そっと母に触れた。


「今起きたのね。よかった……本当に」


 芽衣の手を握り返して、母は涙ぐんだ。初めて見る顔だ。よほの心配させてしまったのだとわかって、芽衣の胸も痛んだ。

 だが、それよりも現実感がわかないという気持ちのほうが強い。


「いま、いつ?」

「えっと、芽衣ちゃんが川に落ちて運ばれたのが一昨日の夕方だから……」

「え……?」


 芽衣のあまりの驚きように、母はスマホのカレンダーで日付を確認しようとした手を止めた。


「三日くらいしか、眠ってないってこと?」

「そうよ。安心して」


 今がいつなのか。どのくらいこの世界を不在にしていたのか気にしていた芽衣は、頭が混乱していた。


「大丈夫? 一昨日、すごく雨が降ってたときに川に落ちちゃったのよ。すぐに助けられたから命に別状はないってことだったけど……怖かったわね」


 小さな子供をなだめるように、母は芽衣の頭を撫でた。そうしてなだめられても、芽衣の気持ちは落ち着きそうにない。

 川に落ちたあの日から三日しか経っていないなんて、信じられない。芽衣の中では、半年近い月日が流れているのだ。異界の国、マータラムで過ごした月日が。


(……どうなってるの? アラインは? 無事なの?)


 心の中が気がかりなことで塗りつぶされた直後、静かに病室の戸が開いた。


「芽衣? 起きたのか?」


 入ってきたのは、父だった。芽衣が起きているのに気づくと、急いで駆け寄ってきた。


「母さん、起きたのなら連絡してくれよ」

「今起きたのよ。ああ、そうだわ! ナースコールして、それから学校にも連絡しないと」

「落ち着きなさい。芽衣がびっくりしちゃうだろ」


 父親がやってきたことでさらにほっとしたのか、母親はナースコールで看護師さんを呼び、パタパタとどこへ走っていった。その後ろ姿を、芽衣と父は苦笑いして見送った。


「芽衣が病院に運ばれて意識が無いって聞いて、母さん大変だったんだよ。泣いて泣いてな。だから、芽衣が目覚めてくれて嬉しいんだよ。ちょっと騒がしくても、許してやってくれな?」


 そう言う父も、目が赤いように見える。きっと心配かけただろうし、今日もきっと早上がりさせてしまったのだろう。スーツ姿のままだ。


「うん……ごめんなさい」


 かすれた声で言うと、父は眉根をキュッと寄せて目を細めた。

 芽衣に悲しいことがあったときに一緒に悲しんでくれるときの、優しい顔だ。きっと今、芽衣のことが可哀想でたまらなくて、胸が痛んでいるのだろう。


「あのな、芽衣。父さん、お前に言っておかなきゃいけないことがあるんだ」


 ためらいのにじむ声で、父はそう切り出した。よくないことを告げられるのだなと、芽衣は身構える。


「お医者さんに言われるより父さんから聞くほうがいいだろうと思って言うんだけどな……今度のバレエの発表会には出られないんだ」


 そう言ったところで、父の目には涙の粒が盛り上がる。その言葉に不吉さを感じて、芽衣ははっとした。

 左脚の感覚がない。右足でそっと触れてみると、ぐるぐるに固定されている。


「……脚、動かない。治らないの?」

「まさか! 骨折だから、骨がつながれば大丈夫だ! ただ、完治までに早くても二ヶ月はかかるって言われてるから、発表会には間に合わないんだ」

「……そっか」


 父親のあまりの悲壮感に、最悪なことを想像していた。だから、ただの骨折だと聞かされて脱力する。


「泣かないんだな。絶対に悲しがると思ってたけど、芽衣は強い子だ」


 泣かない芽衣を見て、父親はさらに泣いた。

 それを見て芽衣は、帰ってきたのだなと、どこか他人ごとのように感じていた。


(平和だな、この世界は……)


 嬉しいはずなのに、心は満たされない。欠けたものの在り処が気になって、すぐには元の世界に適応できそうになかった。


 それから芽衣は診察を受けたり、簡単な検査を受けたりした。医者の話では左脚の骨折のほかには特に外傷はなく、非常に運がよかったということだ。だが、もしかすると骨が完治しても、軽い麻痺は残るかもしれないと深刻そうに言われたのを、芽衣はあまり実感なく聞いていた。


「そういえばね、芽衣ちゃんが入院してからずっと、病院の近くをうろうろしてる人がいるのよ。お友達かもしれないから、声かけてみる?」


 リンゴをむきながら母が言う。

 まさかと思って、芽衣はベッドの上に勢いよく起き上がった。


「誰? どんな人?」

「女の子よ。あなたと同じ高校の制服を着た子」


 銀髪の、美しい男の人だという答えが返ってくるのを期待していた芽衣は、落胆した。

 そして、すっかり忘れていた問題を思い出したのだった。

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