第11話 寂しがり屋
安西青龍の絵はよくダリに似ていると評されるとウィキペディアには書かれていたが、似ていない気がするなというのが千春の正直な感想だった。
夕食後、全員揃ってアトリエへと移動した千春たちは、そこにいくつか飾られた絵を見ながら談笑となった。アトリエは忠文の説明の通りダイニングのある建物とは別で、建物を繋ぐ渡り廊下を通って来なければならない。出入り口にはちゃんとドアが設けられており、二つは独立した建物であることをより印象付けていた。
アトリエは大きく、二十畳ほどの広さがあった。その空間の間には柱はなく、ただ広い空間となっていた。ちょっとした体育館のようだ。普段は絵筆や絵の具で散らかっているというが、今日はパーティーのために片付けられている。しかしフローリングの床のあちこちに絵の具の跡があり、ここで創作活動が行われていることが窺えた。それに、掃除しても取り切れないこの室内に染み付いた絵の具の匂いが満ちている。千春は高校の美術室を思い出していた。丁度、そんな匂いが部屋には染みついていた。
部屋の奥はカーテンがあり、そこが庭に面しているのだろうと千春は思う。が、その前には絵があり、カーテンを開いて外を確認することは出来なかった。そこに飾られているのは安西の代表作が六点、他にも部屋の壁沿いに絵が展示されている。イーゼルに載せられた形で、どれも額装はされていない。それを自由に鑑賞していいとのことだった。
その中で、千春は気になった一枚をじっと見つめてしまう。この不可思議な絵は、何を表しているのだろうか。そう目を凝らしていた。複雑怪奇な幾何学模様に見えるが、その奥に別のテーマが潜んでいそうな印象を受けた。
「どうですか」
「何だか、数学を視覚化したみたいですね」
じっと絵を見ていたら、安西本人に話し掛けられた。だから千春は、無理に飾ることなくそう感想を漏らした。
「ふふっ。やはり先生を招待して正解でしたよ」
「えっ」
「そういう率直な感想を聞けて、嬉しいんですよ。数学のよう、いい言葉です。この年になると、別の感想というものは聞き難くなります。世間ではある程度の評論家の意見が流布していますからね」
そう言うと、安西は僅かに寂しそうな顔をする。予想していなかった展開に、千春はどう対応すればいいのか、解らずに持っていたワインを飲んだ。しかし、こういう時に飲むものは、何であっても味がしない。これも人間の心の不思議だなと、無理に自分の研究に結び付けて意識を逸らす。
「評判は一朝一夕で作られるものではない。今が悪くても、後から高評価になったりする。だからこそ、世間から風当たりが強いという先生がどういう人か、知りたかったんですよ。私は今、評価されて人からちやほやされていますが、こういう絵を最初に発表した時は、それはもう理解されないものでした」
「な、なるほど」
たしかにこんな抽象画、六十年前に評価されただろうかと千春は思った。幾何学的でグネグネとしていて、そして色彩の洪水。絵を見ているだけで目を回しそうだ。最初は批判されたというのも、頷けるほど異彩を放つ絵だった。
「人とは違う世界を見ているというのは、時に大変ですよ。あそこにいる今村君なんかもそうでしょうね。それに安達君も。ここにいる人たちは、そういうちょっとはみ出した人たちです。まあ、私の勝手な決めつけですけど」
「そ、そんなことはないでしょう」
とはいえ、千春は大地の作品も友也の作品もまだ見たことがない。しかし今の言葉からして、彼らもまた異端な存在ということか。その二人は、別の絵の前で何か話し合っていた。気が合うのか、ゲラゲラと笑っている。すでに酔っているのだろうか。
「何かに先んじているというのは、そういうものですよ。生き難いことが多いものです。まあ、ここにいる間はゆっくりしてください。嫌がらせをされているということは、大学にいても気が休まらないでしょう。似た者同士なんです。気兼ねすることはないですよ」
安西は千春の肩を叩くと、そのゲラゲラ笑い合っている二人の元に歩いて行った。取り残された千春は、再び複雑怪奇な図形に彩られた絵に目を向けた。しかし、すぐにそれは終わる。
「安西先生はね。意外と寂しがりなのよ」
「えっ」
声を掛けてきたのは美紅だった。相変わらず妖艶な笑みを浮かべていて、本当に主治医なのかと疑ってしまう。
「ずっと独りで突っ張って来た人だから、理解者がいない寂しさをよく知っているわ。世間の喧騒から離れた場所に住んでいても、本心はやっぱり寂しい。だから、医者である私もここに住んでいる。意味はお分かりよね」
「ええっと。つまり男女の関係だと」
「ええ。他に理由は必要ないでしょ。でも、ここの生活は面白いわ。私にはぴったり。あの人が描く絵も、こうしてたまにやって来る客人も、どれも刺激的よ。だから、医者として行き詰っていた私には丁度いいわ」
「えっ」
急展開に、千春は困ってしまう。行き詰っていた。とてもそんな風には見えない。どういうことだろうと困惑してしまった。美紅はそんな千春にくすくすと笑った。
「そんなに心配しないで。外科医としてやっていく自信がなくなっただけよ。やっぱりね、救えない命ってあるじゃない。どうしようもないのだけど。手術では成功していても、術後の経過が悪くて亡くなる場合もある。それが続くと、駄目になるのよ。医者としてやっていくには、時に失敗を忘れる必要があるのよね。でも、それって患者の人生を何も考えないことと一緒。患者はたった一度きりのチャンスに賭けている。けれども、それを忘れなければならないの。命と責任の重みに耐えるにはね。でも、私には、出来なかった」
「なるほど」
外科医だったという告白に、千春はさもありなんと思っていた。端々に表れる気の強さは、その頃に培われたものなのだろう。しかし彼女は、多分に優しさも持ち合わせた人だった。深く考えるからこそ、外科医としての人生を早々に終わらせることになったのだ。それが、画家としてはみ出していたという安西と惹き合った理由だろう。
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