第11話 階段踊り場は僕の天国
先日の合同練習会(というよりは説明会みたいなものだった)で分かったことは、僕みたいな初参加にして全行程をひとり完走を目指すぼっち参加者には、なにやら優遇措置みたいなものがあるらしいということだった。
村山君はチャンスカードって言い方をしていたけど、そのカードの内容は当日までわからないのだから、やっぱり練習はコツコツやってゆくしかない、ということだった。
日々のオタ活でルーティン慣れしてるからなのか、事なかれ主義で長いものに巻かれてきたからなのか、僕は毎日○○するっていうのがあまり苦にならない。
お陰で毎日何かしらのトレーニングや、ランニングもできている。
好きかどうかで言ったら決して好きではないのだと力を込めて言いたいところなんだけど、この生活は体調や気分の維持にいい感じなのだ。このご利益のおかげで決して好んでやってるわけではないこの生活だけどイコールやらないにはなっていない。
ちなみにエレベータ禁止条例(僕に限る)も遵守中だ。
今日も今日とて部署から部署の移動で非常階段を上る僕。最近では2フロアの移動だと曲のサビ部分で到着するな―—、と細かい設定もできちゃうようになったので、推しの歌をだだ漏れ状態にできる階段移動という環境はぼくにとっては実は天国だ。
だけど天国、と思っていた今までの天国はただの入り口にしか過ぎなかったらしい。
なぜなら、今僕の目の前に推し本人が立っているのだから。
動画や写真で見ていた通り、いやそれ以上のクリクリっとした瞳、ぷっくりした唇、つやつやのほっぺ。
バランスのよい身体に……か、顔ちっさ!!
ってか本物? なに、僕、夢見てるの?
当のMinoriちゃんは目をぱちくりさせている僕の顔をのぞき込んで「?」という表情を浮かべている。
「ねぇ、いまウチの歌、歌ってくれてたよね?」
そういわれても反射的にコクコク頷くのが精一杯だ。
キモイっていわれるのかな、と僕は身構えた。
「めっちゃ嬉しい!!」
なにこの笑顔ー!
推しの笑顔の破壊力の凄いこと!
僕はまたもやコクコク頷くだけ……。
「い、移動で階段が……歌が…誰もいなくて」
やっとの思いで捻り出した言葉が日本語勉強したての外国人か! と突っ込みどころ満載な感じなことになってて、挙動不審にさらに拍車がかかってしまう。
「あははっ! おもしろーい。そんなにびっくりさせちゃった?」
全く邪気のない笑い声。天使? 天使なの?
「ごめんねびっくりさせちゃって。ここ、ほとんど人が通らないから。この踊り場借りて練習してたんだよねー。そしたらウチの歌聞こえてくるからちょっと嬉しくなっちゃって」
ようやく落ち着いてきたので少しだけ冷静さを取り戻す。
「ふ、ふ、ファンですっ!」
い、言えた! 一生本人に伝えることのないと思っていたこの言葉を。
生まれたての仔馬かってくらいプルプルに震えてはいたけれど。
「ありがとー! 今日ね、今度あるマラソン大会の打合せって名目で父とランチの約束してたんだけど。父の会議が長引いちゃって、待ってる時間もったいないから練習しよーってなって練習してた。ラッキーだったな。ここにいて! お陰で応援してくれる人に会えた!」
いや、ラッキーなのは僕ですから!
「応援ありがとね」
Minoriはニッコリ笑うと僕の前に右手を差し出した。
恐る恐る僕も手を出しその手を取る。
全オタの夢、リアルで握手ーっ!
「ぼ、僕も走るんです! 頑張ります! Minoriさんが来てくれるなら、走り抜きます!」
「わぁ! イイ感じの勢いだ! 頑張ってくださいね。アナタえーと、名前は?」
「ヒャ、ヤ、ヤマモトです!」
「ウチも山本君を応援します!」
いま世のありとあらゆるめでたい出来事が全て僕に降り注いだ感ある……。
感動に浸りたいし、いつまでも話していたいのはやまやまだけど、練習の邪魔はファンとしては絶対しちゃいけない! し、そもそも僕も仕事中だった……。
「じ、じゃあ僕もう行きます。練習頑張ってください!」
「お互いにね!」
なんてことだろう。
ヒラヒラと手を振る推しに見送られるなんて。お正月が10年分一度にやってきたみたいだ。
神様どうもありがとう!!!
あの時間は僕にとっては紛れもなく天国で天使と過ごしたかけがえのない時でしたー!
心からの感謝をささげて、僕は自分の右手を見つめる。
この手が、握手を……。
漫画や本で憧れの人と握手した手を洗いたくないって場面は何回も見たし、その度に、いやいや、洗いなさいよって心の中でつぶやいてきたけれど、いや、ごめん。僕が間違ってた。
洗いたくないね、完全に取っておきたい手になってる。
それからしばらくの間、不意にあの突然の出会いがフラッシュバックして仕事はガタガタになりそうな綱渡りだったけど、その度に僕は決意をますます固めていった。
走る。走り切るぞ!!
今日も帰ったら走り込みだ!
辛くなったら思い出せ。
忙しい最中、少しの時間も無駄にせず練習に費やしていたMinoriちゃんのあの姿を。
僕はギュッと拳を握り締め前を見据えるのだった、
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