EP12 民衆の声

 その手紙はクイリナーレ宮殿の門の前に置かれていたものだという。アグネスが今朝、随分緊張した顔でグレゴリウスに渡した。


 内容も差出人もわからないうちからグレゴリウスの手は震えていた。検閲が終わっているのだろう。すでに開けられている封筒から、質の悪い便箋とも言えない紙切れが顔を出している。





親愛なるグレゴリウス8世様へ


 私たちはローマの市民たちの中でも、特に身分の低いものの集まりに過ぎませんのに、聖下に手紙を出すご無礼をお許しください。ただ、どうしても申し上げたいことがあって手紙を出させていただいたのです。


 初めにことわっておきますが、この手紙は私たちの独力で書いたものではありません。しかし、どうかこれを書くことを手伝ったものを罰しようとはなさらないでください。あなたの慈悲によって、その咎を私たち以外に及ぼさないでください。どうぞお願いいたします。


 私たちは貧民街の掘っ立て小屋に住んでいて、そこに住む13人が連帯してこの手紙を書いております。ゾック、リーベ、ネスト、マリオら13名がどうしてこの手紙を書いたかというと、ただお礼が申しあげたかっただけなのです。


 私たちは生まれてこの方幸福と呼べるような経験は何一つしてきませんでした。私たちが仕える主人はひどい男で、私たちをいたぶって楽しむことを生きがいとしていて、心が休まるときはありませんでした。


 ローマでは私たちのような者は珍しくありません。仕方がないことですが、毎日がつらくて仕方がありませんでした。しかし今、主は我々を安らかに去らせてくださいます。


 小麦が異常な高値をつけて以後、私たちの主人の生活はどんどん苦しくなっていきました。もちろんそれに連動して私たちの生活は苦しくなっていきましたが、それはもはや問題ではありませんでした。


 重要なことは彼が困窮すればするほど、解放される奴隷と使用人が増えるということだけです。次々に私たちは『解放』され、流浪の身となりました。職がないまま放り出されたわけですが、それすら私たちにとっては喜ばしいことだったのです。


 総主教様。昨日サンタンが死にました。私たちに残された時間はもうあまりなく、私たちの中でも子供や老人から次々に飢え死にしていきます。それは悲しいことですが、同時にこうも思うのです。


 私たちが望んでいるのは豊かな隷属ではなく、貧困な独立だったのではないか。少なくとも、私たちにとっての幸福は巨大な屋敷のしもべでいるより、掘っ立て小屋の主であることでした。


 ですからお礼を申し上げます。総主教様の統治で私は安らかに世を去ることができます。元老院の統治ではこのようなことはありえなかったでしょう。


 ありがとう。ありがとう。塵に過ぎない私たちの生活が最後に報われたことに感謝いたします。


                               或る貧民の集団






 グレゴリウスは震える手でその手紙を封筒に戻し、見えないように封筒の口を折った。


 何か、大変な間違いを犯しているのではないか。


 自分がこの国の狂気を加速させているのではないか。その疑念が頭を駆け巡り、グレゴリウスの顔はみるみるうちに青ざめた。


 どうにか落ち着こうと水がめに手を伸ばすが、水がめは空だった。目の焦点もうまく合わず、震えたままの手で数回机を叩く。


「聖下」


 アグネスがすぐそばに立っている。いつからそこにと聞きたかったが、声が出ない。


「私たちは、どこで、間違ってしまったのでしょう」


 どこかかすれた声で紡がれた問いへの答えをグレゴリウスは持っていなかった。


 歪で、矛盾を抱えたままに、七つの丘は前へと進む。帝国の再生はいまだ遠い。苦しむ人の呻きが止むまでは彼の動悸が収まることはないだろう。


 だから、そう。言うなれば、命は弱さを許さない。

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