第26話 愛とは

 復活上演にて、三郎治は初めて『曾根崎心中』を観たという。

 それまでは一目も観たことはなく、憧れの兄貴分である無慚すら魅せられた演目──という認識でしかなかった。なぜなら、これが流行った当時はまだ七歳にも満たぬほどの小童だったのだから。

 だが。

 それを観た瞬間、目覚めたというのだ。

 ──十年もの沈黙を守ってきた鬼子が。


「語りのなか、『ころして』というものがありましょう。あれを聞いた瞬間から、俺は意識を失くしてもうた。それからの三日間は記憶がない」


 目覚めたら曾根崎の森で土にまみれていた、と三郎治はつぶやいた。

「何をしたのか、だれも教えてくれへんかった。気が付いたら光のなかに立っていて、いつものとおり闇のなかではガキが寝ておって、徳兵衛がずっとこちらを見よる。──」

「そのときに、あの女をころしたのか」

 無慚はつぶやいた。

 あの女とは、見覚えのある短刀を胸に抱えたまま骨と化した人間のことである。ともに現場に立ち会った泰吉はぶるりとからだをふるわせた。

 三郎治は泣きそうな顔でうつむく。

「さっき、無慚の兄貴が赦してくれたでしょう。ガキの三郎治。あのときにすべて分かったんです。おれの知らへんかった俺のこと、ぜんぶ」

「ころしのことも?」

「────め。目玉を、抉りとる感触まで、ぜんぶです」

「…………」

 ヒッ、とこいとが息を呑む。

 すべてを知った三郎治は、ゆえにあの娘たちをころしたのだと続けた。

「兄貴の思うとおりです。ガキの俺は許せへんかった。曾根崎心中を見てから、かつて兄貴を痛め付けたすべての人間がなおさら憎らしゅうて、……」

「それで、徳兵衛に言われて娘たちをころしたわけか」

「おけいも、とみ子も、徳兵衛の芝居にコロッと騙されよった。闇のなかで呼び掛けたら、それが三郎治かどうかなど分からぬらしい。さんざん籠絡して、やがて永久の愛をささやくと──女たちはたちまち乞い願うようです。──『ころして』と。徳兵衛がそう仕向けたのでしょうが」

「では『これも違う』とは?」

 無慚が問う。

 は、と三郎治は目を見開いた。

「三人目の娘が橋に捨てられたとき、そのような声を聞いたと証言があった。どういう意味だ」

「…………はあ、俺は徳兵衛のときをよう知らんのですが、どうやら『徳兵衛』という存在自体に使命があるらしい。分からへんけど──彼は彼として、女を求める理由があったのやも。あ、あくまで想像です。なにせ彼は自分のことはなにも教えてくれへん。でも、まだ俺のなかでじっと俺を見とる。いまも」

「だったらその徳兵衛とやらに聞いてくれ」

 突如、岡部がさけんだ。

 彼は憤りも隠さずに、ぐっと三郎治の胸ぐらを掴む。

「新米芸妓の長浜。彼女は十年前の事件とはなんの関係もあらへんはずや。なぜ狙うた。なぜ!」

「お、岡部」

 惣兵衛が眉を下げる。

 ともに長浜の生い立ちから苦労までを聞きに行ったからわかる。懸命に励む彼女がころされる謂れはない。聞くにつけ、無念しか残らぬことを。

「それも『徳兵衛の使命』やったとでもいうんかッ」

 と、岡部の絶叫が本堂に響き渡る。

 三郎治が一瞬、白目を向いた。

 それから間もなく項垂れる。自身の内側に意識を向けているのか、このようすは今までに何度か見てはおれどいまだもって見慣れぬ。

「…………、……」

 待つこと寸の間。

 三郎治は虚ろな目をしてゆっくり顔を上げた。そのようすを見るに、どうやら三郎治ではない。

 徳兵衛か、と無慚が問うた。

 三郎治だった男は力なく口角をあげた。

「長浜──長浜か」

「徳兵衛ッ」胸ぐらを掴む岡部の手に力がこもる。「貴様が長浜を!」

「ころしたのはあのガキじゃ。わしじゃねえ」

「しかし狙うたのは貴様や! なぜ狙うた。長浜は十年前の事件とはなんの関係もなかろう!」

「そうさな。わしにもよう分からぬ」

「なっ────」

 岡部の肩がふるえる。

 いまにも殴りかからんと拳を振り上げる。そこに、

「聞くところによると」

 と止めに入ったのは惣兵衛だった。

「女に言うたそうやないか。『籠の鳥やったから良かったんや』と」

「…………そがなことも言うたかな」

「どういう意味や。分からへんって答えはなしやで。岡部の兄貴はこう見えて腕っぷしはなかなかのもんや。首が吹っ飛んでまうかもわからへん」

「こわいねェ」

 徳兵衛はクスッとわらう。

 が、その瞳はちっとも楽しくなさそうに曇っている。


「本当に、わしにも分からぬ。が、……『徳兵衛』とはそういうものやっちゅうことやろう」


「なに?」

「『徳兵衛』は目覚めた瞬間から、やった。わしは『徳兵衛』じゃキ──永久の愛を誓うには籠の鳥でなければならんのよ。きっとそのことばにそれ以上も以下も、意味はない」

 と。

 徳兵衛が言った瞬間、バキッと大きな音を立てて徳兵衛が吹っ飛んだ。岡部の鉄拳が、彼の横っ面をぶっ飛ばした音である。

 本堂のなか、飛ばされた徳兵衛によって寺院具足がなぎ倒される。岡部は肩で息をしたままなにも言わぬ。

 そのくちびるは、噛みちぎらんばかりに噛み締められている。床の上で大の字にころがった徳兵衛も、ちいさく呻くのみでことばはなかった。

 意味はない。

 ころされた者にとって、それがどれほど無念たらしめるものか。岡部はゆるせなかったらしい。

 ならば聞くがね、と無慚がついと前に出る。

「貴様は──長浜を愛していたのか」

「…………」

「徳兵衛」

「わか、分からんよ。──分からんが、しかし」

 本堂の天井を見上げる徳兵衛。

 その瞳に、光が宿る。

「握った手のひらの熱を心地よい、と思うたあの心が……愛というなら」

 愛していたかもしらん、と。

 つぶやいて、徳兵衛は瞳から一筋の涙をこぼした。

 それを聞き、握られた岡部の拳から力が抜ける。惣兵衛のこわばった身体も、弛緩する。そのまま徳兵衛は眠るように意識を失った。


 ────。

 すぐ三郎治に戻るかと思われたが、四半刻経てども目覚めぬ。岡部はとりいそぎこいとの保護と犯人確保が完了した旨を伝えにゆくと言って、廃寺をあとにした。

 残された一同もすっかり手持ち無沙汰となり、家に帰ろうかと惣兵衛が腰をあげたときだった。

 惣兵衛、と。

 無慚がつぶやく。突然の呼びかけに惣兵衛は一拍遅れて返事をした。

「あとで、三郎治に書き置きを書かせる。それを治郎吉のとこに届けちゃくんねえか」

「書き置き?」

「女と駆け落ちします、とでもなんでも。──こいつがこうなった責はおれにある。もしも三郎治がこの村から出たいと言うたら、そうしてくれ。おれが引き取る」

「引き取るて、どうすん」

 泰吉がズズと鼻をすする。

 とはいえ、聞いたはいいが聞かずとも分かっていた。事件が解決したいま、無慚は早々にこの村を出て行く気なのだ。無慚がちらりと蕎麦屋の主人へ向けた目線で察した。こいとは哀しげに瞳を伏せる。

「こやつの顔がひとつになるまで、おれの弟子として付き従わせてやるのよ。きっとその頃にはほとぼりもさめて、三郎治も村に戻れよう」

「無慚さま、またどっか行ってまうんですか」

「なんだじゃじゃ馬。昨日まではおれの顔を見るたび、嫌そうな顔をしていやがったくせに」

「せやってそんな、さびしい……」

「…………」

 無慚は珍妙な顔で押し黙った。

 ふと泰吉と惣兵衛が顔を見合わせ、おもむろに本堂から出てゆく。ついでに、気配を消していた蕎麦屋主人の袖をも引っ張って。

 どこへゆく、と無慚が問う。

 どこへも、とふたりはにんまりわらった。

「ただホラ、息が詰まってもうてあかんわ。ワシらは外の空気吸ってくるよってに、自分は三郎治が目覚めるまで待っとってや」

「なにィ」

「無論、こいとちゃんのことも頼んだで。宵闇紛れて変なもんが湧いたらかなわんさかいな」

「ほな蕎麦屋のあんちゃん、いっしょに散歩でも行こうやァ」

「月下の散歩とはまた趣深いですな」

「オイてめえら──」

 言いかけて、無慚は口をつむぐ。

 なぜなら背後で袈裟の袖をグッと掴まれたから。こいとである。彼女はいまにも泣き出しそうな顔で、無慚を見つめている。

 そうこうする間に、旧友たちは廃寺の外へ出ていった。

 気を利かせたつもりか──と無慚は苦々しく、彼らが消えた闇のなかを見つめる。十年前のあの日以来、無慚は女と深く関わることを避けてきた。こいとに関しては、まだガキだとたかを括っていたのだが、どうやらりっぱな女だったということか。

「無慚さま」

「なんだ」声がわずかに張り詰める。

「このお寺は──無慚さまが昔にいらした場所?」

「あ。おう、そうだ。和尚とともにこの本堂にて、ようく読経したものだ」

「ふうん──」

 こいとが本尊を見上げる。

 和尚が生前より医学について学んでいたこともあり、当寺の本尊は薬師如来である。和尚はいつもこの御仏の前に坐し、経を読み上げていた。

 神様仏様──とこいとはつぶやく。

「無慚さまのご無事をお祈りしたら、聞いてくださるやろか」

「さあ」

「さあ、てなんどすのん。仏弟子ですやろ」

「そうだがね。おれはこれまでずっと、御仏よりも、よほど山川草木たちに助けられたものだ」

「…………」

「この力を持ってからの方が、生くるが楽になった。あながちあの事も──無駄ではなかったのかもしれねえな。当時の娘さんには申し訳も立たねえことだが」

 無慚は苦笑した。

 十年前、永劫つづく愛を誓った娘。あれほど熱く愛していたというに、日が過ぎるたび彼女の声が雑踏に消えてゆく。哀しいが、これも愛のひとつであろうと、無慚は最近になってようやく分かってきた。

 それを聞くこいとは、不満げに口を尖らせる。

「もうたれとも、そんな気ィ起きへんのん?」

「当たり前ェだ。そもそも、ともに死をえらんだところで永劫共になど居られはせぬよ」

「エ。愛を誓うても、輪廻の道はいっしょに行かれへんてこと? ほんなら──愛ってなんやの」

「──なんだろうな?」

 無慚が慈愛に満ちた目をした。

 なあ、と。

 彼はわらった。

「あれから十年、いまのおれはもう、あの娘の声も、顔も、こんなにも朧になってしまった。残るはあの日々のあたたかなぬくもりひとつだ──しかしそれでよい」

「無慚さま。……」

「愛とは、誓い合った末、死に向かうべきものじゃねえ。おのれの魂に刻み、一生を歩むものだ」

 歩むための勇気たりうるものだ、と。

 無慚は如来を見上げた。

 その横顔があんまりうつくしくて、こいとはまばたきも、息することも忘れてただ見つめた。やがて、彼女の渇いた瞳からぽろりと涙が一滴こぼれた。

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