第二章
第6話 小料理屋の若旦那
西町奉行所同心岡部曾良は、迷っている。
目玉抉り事件にて九郎右衛門町の新米芸妓が殺された。その芸妓について追っていると、彼女の生まれは大坂新町であることがわかった。新町といえば表向きは大坂で唯一の遊里であり、かの有名な夕霧太夫もかつてはこの新町で、男を情で抱いたという。竹垣と溝渠に囲われたこの場所で育った、芸妓長浜という娘を知るためにやってきた岡部。彼はおよそ小半刻ほど大門の前で立ちすくんでいる。
女が苦手なのである。
仕事で遊里に行くなど、ほかの奉行人はとびあがって喜ぶのだろうが、岡部にとっては苦行にほかならぬ。ゆえに、いまからでも引き返して、無慚の奴でも引っ張ってこようかと思案していたのであるが、あれもあれで女には心的苦痛を抱える男ゆえにたいした役にも立たぬか。
ぐるぐると思案を続けた挙句、手汗を帯でぬぐう。呼吸をひとつととのえて岡部は意を決して一歩すすむ。
「岡部の兄貴」
直後、背後から聞こえた。
おもわず飛び上がった岡部は、そろりとうしろを向いた。すらりと背高な体躯に眼鏡をかけ、ひとつひとつの所作で良家育ちの振る舞いをする男がひとり。
かつて青春時代をともにした仲間──惣兵衛。現在は、西寺町にて小料理屋を営む若旦那だと聞く。
風呂敷包みを背負った彼は涼しげな瞳を半月型ににやつかせ、岡部と花街を交互に見比べた。
勘違いすな、と岡部が強い口調で牽制する。
「同心としての仕事のうちだ」
「まだなんも言うてへんやん」
「目は口ほどに物を言わはる」
「こりゃ失礼──」
と、惣兵衛はにやけた面を隠すように、手のひらで目元を覆った。
十代の若かりし頃はこの男と無慚、もうひとり泰吉という男と四人でさわがしくやったものだ。若気の至りとも言えるおのれの愚行の数々を思い出し、岡部はわずかに顔を歪める。
「貴様こそ何用でここへ」
「店まで閉めての仕入れ帰りや」惣兵衛はちらと背の荷を見る。
「通りがかりに自分がまごついとるん見えたんで、つい声かけてしもたんよ」
「まごついとったんちゃうわ!」
「目玉抉るやつ調べとんか」
「なぜそれを」
「すこし考えらァ分かるやろ。こない真っ昼間から、色街に町同心、まして色街とはもっとも縁遠い男がしかめっ面で仁王立ち──はてなにかの職務やろかと思い巡れば、いま世間様を騒がす風聞にて、花街の新米芸妓の名あり……な?」
と、惣兵衛は気だるげに微笑んだ。
岡部はうなった。この男、歳は岡部よりわずかに下だが頭の良さは若者衆仲間の内でもずば抜けていた。地頭が良いのだ。あの無慚でさえ、自身と同い年である惣兵衛のことは一目置く節があったほどだ。
彼はとくに、この国においてはドがつくほど人嫌いだというのに。
「無慚にも手伝うてもろとる」
「……無慚、帰ってきはったんか」
「半月ほど前にな。二、三日でずらかる予定のところ、無理を言うて引き留めておる。いわば岡っ引きよ」
「無慚がねえ」惣兵衛の口角がゆるんだ。
「当分村に残っとるだろうから、おまえも会うたらよろしい」
「ああ──その内な」
「むう」
岡部は唸る。
むかしからこの男は『善処する』等と安請け合いするわりに、気が向くまで一切そのつもりがない男である。
どうせここで情報を集めて、いずれは無慚と合流するのだ。そのときにでも惣兵衛と引き合わせるのもよいかもれん、と思案する。きっと今回も有耶無耶にするにちがいないから、という衆時代の兄貴分根性だろうか。しかし問題はその情報集めだ──。
「ほな」惣兵衛は背の荷をからだで持ち上げる。
「無慚によろしゅう」
「まて惣兵衛」
「ん、なに?」
「貴様はきょう店じまいやろ。ちと付き合え」
「え。付き合えてどこまで」
「惣兵衛の対人術はつかえる。奉行所に協力せい」
「えェ」
岡部は、イヤそうに眉を下げる惣兵衛の袖をつかむ。
背の高い惣兵衛と並ぶと自身の小柄が目立って快くはないが、いまはそうも言っていられない。引きずるようにひっぱって新町の大門をむりやりくぐり抜けた。
「芸妓の子ォ、九郎右衛門町と聞いたが」
「生まれはこの新町らしい。屋形のモンならなにかしら知っとるかもしらん」
「ほお、どこ?」
「扇屋」
「へえ!」
惣兵衛はおどろいた顔をした。
扇屋といえば、さきにも言った夕霧太夫の囲い屋形である。もとは京島原に置かれていたが、数十年前に夕霧らを連れてここ新町へ引っ越してきたのだという。京女郎が大坂へ下るとして相当さわがれたのだ、と当時を知る古老たちより以前聞いた。
ここ扇屋の女郎が客の子どもを孕んでしまい、ひっそり産み落としたのがどうやら長浜であったというが、それが真実かどうかも含めて確認したいのだ、と岡部はつづけた。
長浜は、と惣兵衛がつぶやく。
「如何してここから出て、わざわざ九郎右衛門町なぞに行ったんやろなぁ」
「それは殺しと関係あるんか」
「せやのうて──単純に気になるやん。芸妓の本場ともいえる新町でそのまま気張っていけば、はよ上にも昇り詰められたやろうに」
「なんだ。いつもの貴様のわるい癖か」
「わるいことないやろ。人に興味があるだけや」
といって、惣兵衛はほほ笑んだ。
『扇屋』という扁額が掲げられた建物の前では、老いぼれた女がひとり箒をもって落ち葉を掃いている。女といえど老婆は平気だ。岡部はなんの躊躇もなく彼女へ近づいた。
「ご婦人」
老婆は振り向かない。
「お尋ねしたい。長浜のことで」
聞こえているのか、否か。
彼女は黙々と落ち葉を払いつづける。さっそく腹が立ったのか岡部が「おい」と声を荒げるので、惣兵衛はその肩を掴み止めて首を振る。
終わるまで待とう、という目配せをうけ、岡部は不服そうに口を閉じた。
老婆が落ち葉を篭へ捨てきる。
ようやく岡部へ向けたその表情は、決して歓迎しているようすではない。彼女は掠れた声で「なんえ」とつぶやいた。
「藪から棒に」
「失敬な。奉行所の役人を待たせるとは──」
と、突っかかる岡部の首根っこを引っ張って、惣兵衛はずいと前に出た。
「お掃除中に邪魔してしもて堪忍な。こいつは西町奉行所の同心岡部、手前はこいつの付き添いで惣兵衛いいます。ここ最近のころしについて調べとるんや。九郎右衛門町の長浜ちゅう芸妓がころされたんは知っとるやろ。その娘について、話聞きとうてよ」
「南地の妓のことを、なんでここで聞かなあかんのん」
「もともとここで生まれたて聞いたんや。なんや、この話都合わるかった?」
惣兵衛は終始やさしい口調で問いかける。
が、その手はいまだに岡部の首根っこを掴んで牽制している。ゆえに岡部は話にも混ざれぬ状態である。
わるいことないよ、と老婆はぶっきらぼうに答えた。
「ほんでもころしにはなんの関係もない話や。あの娘は、さんざん叩き込んでやった芸事ぜんぶ捨てて、芸妓なぞなりとうないっちゅうて自分からここ出ていった。そっからは預かり知らんことさね」
「芸妓がいややったん? それやのになんで南地で──」
「知るもんかい。結局、花街で生まれ育った娘っこなんぞ、ほかに働く口もなかったんやろ。男に唆されでもしたんちゃうの」
「そもそも、よう新町からの足抜け許したなぁ」
「あの娘は売られたわけちゃう。ここで生まれ育った、妓たちみんなの娘同然やった。むりに芸妓させることはなかったんや」
と、語るうちに老婆の瞳に涙があふれてきた。
彼女にとっても孫のような存在であったにちがいない。惣兵衛は岡部を放っぽって老婆に寄り添った。
「長浜の母親は、まだいてるんか」
「もうとっくに年季明けて嫁にいかはった。近江の豪商、玉の輿やわ」
「ほうか──そらよかったやん。なんやいろいろ、辛いこと聞いてしもて堪忍やで」
「あの娘は」老婆は喉をつまらせる。
「なんでこないなことになってしもたんやろか……」
「いま、それを一所懸命あん男が調べとるところやねん。女が苦手な利かん坊やけど、きっと女将はんよりもこの殺しを憎んどるはずや。アレはいつでも正しい男やさかいな」
せやから協力したってや、と惣兵衛はほほ笑んだ。岡部はといえば、バツがわるそうに後ろでふたりの会話を手帳に書き留めるが、たまに近くを芸妓が通るや、ピャッとびくついて顔をうつむかせる。
老婆ははじめて、わずかに口許を緩めた。
「長浜のこと、すこし手助けしたもんがいてるんよ。そっちのほうが最近のあの娘については詳しいやろうから、話聞いたらええわ」
「ほんま? だれのことや」
惣兵衛と岡部が身を乗り出す。
うちの牛太郎や、と老婆は店奥へと入っていった。
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