第3話 鼻たれ農夫

 ──連理の木に からだをきつと結ひ付け

 ──潔う死ぬまいか 世に類なき死様の

 ──手本とならん サア只今ぞ

 ──南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


 胸くそわるい語らいであった。

 いや、古木は気まぐれゆえそうは語らぬ。饒舌なるは樹上に住まう百舌鳥だった。耳障りな音色をさえずりながら、無慚を嘲笑うように、凶鳥はかつて人世に広まった人形浄瑠璃の心中物語『曽根崎心中』の一節をうたった。

 ──曽根崎心中、とは。

 先年の新緑期、早朝に大坂堂島新地天満屋の女郎と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛が、西成郡曾根崎村の露天神の森で情死した。

 この事件を、稀代の台本作家である近松門左衛門が作り上げた世話物浄瑠璃である。

 これまでにない語り口と身近な題材により、作品はたちまち世間の話題に上った。情死を美化したこの作品に感化され、多くの男女が倣い、心中死が流行するという社会現象にまで至った問題作なのである、が。……


(なにゆえそれを出してきた)

 ふたたび舌打ちした。

 無慚は『曽根崎心中』がすきである。

 十年前に観劇してから、聴くたびツツと涙がこぼれるし、語りを真似たくなる。けれども同時に『心中』という言葉が心底きらいだ。

 若く青臭い青少年が『心中』という甘い響きに感化されて犯した罪は、十の年月を経たいまも消えることはない。

「チッくそ」

 錫杖の柄を、近くの樹に突っつくという八つ当たりをする。すかさず樹上から枯れ葉がドサッと降ってきた。

「だ、てめえ!」

“痛い やめろ”

 叱られた。

 幹とにらみ合いをする無慚の背後から、あれェと声をかけられた。


「ホンマにおった、生臭坊主!」


「────」

 聞き覚えのある声。

 目付き鋭く振り向くと、ひとりの小柄な男が歩いてくる。大きな猫目、その体躯に合わぬおおきな籠を背負って、大量の浮き蕪を運んでいる。そわそわと落ち着きのないこの男──天王寺農家の次男坊、泰吉やすきちという。

 無慚にとってはまたもいまいちな顔である。彼も岡部と同様、当時村単位で組まれていた若者衆仲間のひとりだった。

 彼は、無慚の坊主らしからぬ目付きをわらい飛ばす。

「こえェ面!」

「ホンマにおったって、どういうこった」

「岡部の兄貴に聞いた! 自分がこっちもどってきとるてェ。てっきり諸国行脚修行中と思てたんに、なんやさっそく他所からも叩き出されたんか。えっ、死に損ねの」

「やかましい」

 無慚の声がぴしゃりと叱った。

 すると泰吉は、ぷっと子どものように頬を膨らませる。童顔の彼には違和感のない顔芸である。

 コイツは若者衆のなかでは一番の年若で、むかしから口に戸が立たぬうつけ者。思ったことをポンポンと喋ってしまうから、よく年上の兄貴分たちに叱られたものだ。

 その兄貴分のなかには当然、無慚も入っている。

 ハッ、と無慚は顎をあげた。

「下手なことを言う暇があったら、托鉢のひとつもよこしな」

「もらう立場で頭が高ェのう。それよりさあさあ、ちっと呑もうで。どうせ坊主なんぞ名ばかりで呑めるやろ」

「酒か──」

 いまいち気は乗らなんだ。

 しかし泰吉という男は意外にも、村中に耳を隠しておるのかと云わんばかりに飛耳長目な人間であった。

(山川草木も、どうせ明快な解は云わぬし)

 此度の事件について、この男が掴む情報を聞くもわるくはない。思い直し、無慚にしてはめずらしくうなずいた。


 ふたりが立ち寄ったのは、なにわ橋畔にある居酒屋。泰吉は杯をかかげる。

「帰国祝いに!」

 かち、と猪口をぶつけた。

 ぐいと飲み干した泰吉が猪口を卓に叩きつけ、ぎらりと無慚を睨む。

「なぁにがムザンや。おのれんことキチガイみたく言いよってからに──自分ほんまに名ァ捨ててもうたんか?」

「いつの話をしてやがる、テメエ」

「アーッ。その江戸訛りのこまっしゃくれた物言いも嫌やなぁ。むかしはもっと可愛げあったぞ。わし嫌やなぁ」

「テメエが嫌など知ったことか。ったく、酒に誘うならもっとマシな話をしな」

「なにを。話があるんは自分の方やろ、わしの鼻は騙されへんど」

「大げさ言うない。おお、寒ッ」

 外がずいぶん冷える。

 あんまり寒いので外を覗くと、ちらちら雪が降り始めている。店の親父がつまみを盛るのを横目に「降ってきてもたなぁ」と泰吉が首を掻いた。

「きょうは熱燗がええわな──」

「なら、今のうちに聞いておくべきか」

 べろべろに酔われたらかなわん、と無慚が猪口をくいと傾けた。

 さらに徳利から猪口へ、なみなみ酒を注ぎ入れる。しかしそれを食らうことなく、無慚は大儀そうに泰吉を見た。

「近ごろ起きている事件は知ってるだろ。娘の両目がえぐられるってヤツだ」

「そら知っとる、当たり前や。今朝ももう町中大騒ぎやで。けったいな話よなぁ。なんでわざわざ目ン玉くり抜かなあかんのかしらん」

 知るか、と無慚は半目に細めた。

「それより死んだ娘たちのこと、なんか知らねえか。なんでもいい、男関係でも性格でも──」

「なんや自分、岡っ引きの真似事始めたんか?」

 と、泰吉はまた子どものような笑みで、いらないことを口走る。無慚としては、なんの詮索もなしに答えだけがほしいというに。しかし図星なのですんとも言えない。

「で、どうだ」

「乗りのわるい坊主やな。まあええ、男関係でいうたら聞いた話があるど。昨夜ころされた娘、名前なんやったけ──ああそうちゃん。おけいって子ォは、一見するとしとやかなおなごやけど、その実はけっこう男と会うてたみたいや」

「男──それどこ情報だ」

「野田村。の、若者衆のあいだでやいやい言うとるらしいわ。ほら、自分のことよう慕いよるガキがいてたやん。あそこら辺の集団よ」

「おれを慕うガキ?」

 無慚は閉口した。

 そんなけったいな人間がいるものか、と思考する。が、ほどなく思い当たった。十年以上もむかしのことで記憶も曖昧であったが、たしかにいた。

 当時十代半ばの若者であった自分を、兄のように慕う男児。当時彼はまだ十にも満たない年頃だったようにおもう。

「名前をわすれた」虚空を見つめていった。

「ホンマに友だち甲斐ないよな、自分!」

 と、泰吉が非難の目を向ける。

治郎吉じろきちさんとこの三郎治さぶろうじ。三男坊の甘えたがおったやろ」

「三郎治──ああ。あのちんまいガキか」

「そう。あれも自分が国にいてへんうちに、十七なってん。いまや立派な野田村若者衆の一員やねんで!」

「へえェ……」

 と、無慚は感心した。

 なぜか自分を兄のように慕ってきたあの子どもが、いまや十七と立派な青年になっていることが想像できなかった。

 むかしは、と泰吉は鼻頭にシワを寄せる。

「ちいと目つきのおかしい坊でよう、わしはあんまし好かんやった。自分にはずいぶん懐いてはったみたいやけど、ガキのくせに目ェが据わって……あンの、狐みてえな」

「そんなだったかね。わすれた」

「なんも覚えとらんのかい。ホラ、いつもは不気味なくれェに静かやというに、おめえの話ンなると頬っぺたりんごに染めてよう」

「はあ?」

「……でも。いつの日からか、そう。自分が諸国行脚に出てもうてからコロッと変わったやんなあ。面構えもさわやかで愛想もようなって、近ごろァうまく馴染んどるみたいや。わしもそれで、話しやすなったわ」

「ふむ」

「ほかの娘たちのことも、三郎治とかほかの衆の奴らに聞けば、男関係くらいは分かるんちゃうか。あとはせやな、行商ついでで聞く話やと、いずれも身持ちの堅い娘やったとか、親孝行で評判とか──まあとにかく、まずわるい噂は聞かへん」

「さすがの飛耳長目だな」

 無慚は、つるりと形のよい頭を撫でる。

「そっちも当たってみるか。──」

「うん、三郎治なんか会いに行ったら喜ぶんちゃうか。ほんならこの話終わり! なんや目玉えぐるとか言うから、つくねが目玉に見えて気色わるい。はよ旅の土産話聞かせてえや」

「てめえに語る土産話なんぞねえよ。おれはもう帰ェって」

「ハイ聞こえませェーん。ええやんええやん、減るもんじゃなし。なっ。あんちゃん」

 と、立ち上がる無慚の腰元に、泰吉は無垢な笑みを浮かべてがっちり抱きつく。てめえ、とか、離れろ、とか。しばらくは店が壊れぬ程度に暴れた無慚であったが、四半刻の攻防の末──ニッカとわらう泰吉の鼻から汁が垂れるザマがあまりにまぬけで、無慚は折れた。

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