靄2
炎が黒い靄を包んでいく。触れそうな距離なのに、熱さを感じない。それも鬼の恩恵なのだと思うと、少し複雑な気持ちになる。俺は勢いよく燃える敵を見ながら、どうでも良いことを考えていた。
遠くから赤ん坊の泣き声が聞こえた気がした。敵を切った時の感触があまりにもリアルだった。この手の感触と苦しそうな赤ん坊の声を俺が忘れることはないだろう。
もしかしたら、俺は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。先程とは違う汗が額を流れる。いや、最初から分かっていたことだ。自分を優先するなら、何かを犠牲にしなければいけない。ホウショウの言葉を信用するなら、他の代償が必要だ。そう思うのに、もっと他の方法があったのではないかと模索してしまう。全て偽善に過ぎない。今、どれだけ俺が考えようとも、結果は変わらない。手放せたら、楽になれるのに。もう、この世を捨ててしまいたい。そう強く思った瞬間、全身に激痛が走った。俺は耐えられなくなり、地面に伏した。それでもなお、敵がいた場所から目を逸らせない。目に焼き付けておかなければいけない。不思議と、そんな強い思いが俺の心を包み込んでいく。
霞む視界の中、小さな女の子が笑っている姿が見えた。それから、俺は暗闇へと落ちていく。深く、深く、深く。俺は無意識に自分の身体を抱きしめていた。何がこんなに辛いのだろう。何がこんなに悲しいのだろう。心がはち切れそうだ。
あの少女を俺は切ってしまった。俺の罪はいつになったら償えるのだろうか。段々積み重なって、俺の足枷となっていく。そう思ったら、本当に自分の足に鎖で繋がれた枷があるように思えた。これは罰だ。これは戒めだ。徐々にこの枷への愛おしさが湧き上がってくる。ありがとう。俺を縛ってくれて。もう、逃げられない。その方が良かったのだ。これで、もう罪を犯せない。
これでもう、人を殺さなくて済む。
【ホウショウside】
俺は倒れたチトセに近づき、口元に耳を寄せる。規則的な呼吸だ。死線期呼吸やその他不規則な呼吸は見られない。ただ、眠っているだけか。そう思ったが、あの倒れ方は異常だった。外傷はほとんど見られない。それならば、どこかゆっくり休める場所を探すべきだ。
「ねえ」
突然、背後から冷たい声がした。気配も音もなく背後をとる相手。俺は思わず、飛び退いた。相手と対面する。
「……シナノ」
そこには無表情のシナノがいた。チトセの前では見せないような顔だ。
「君の心はどこにあるんだろうね」
シナノが笑いながらそう言った。それは子供とは思えないほど、大人びた表情だ。俺はあの表情を知っている。
戦場に一人の影。俺は不審に思ったが、構わず剣を振るった。近づいてみたら、そいつは笑っていた。今のシナノのような笑顔だった。その後、そいつは俺の身体を捕まえ、自爆した。間一髪で俺は逃げたが、胸糞悪い結果になったのは間違いない。
俺は警戒して腰の剣に手をかける。
「僕には聞こえるんだ。心の声が」
「知っている」
「どんな汚い感情も、僕からしたら当たり前。日常の世界。でも、そこに一筋の光が現れた。その人の心の声は聞こえなかった。とても清らかな人。だから、僕のものにしようとした。動かなくなれば良いと思っていた。人間でなければ完璧なのに」
変わらない笑顔でシナノは言葉を紡ぐ。その片鱗はシナノと初めて言葉を交わした時からいくつもあった。ただ、俺はそれを静観していた。俺がどうこう出来る問題でもないし、俺が介入してはいけないと本能的に知っていたからだ。
チトセとシナノは罪人で俺は国立軍の人間。元々、相容れない存在である。
「だけど、君は何なのだろうね」
その質問の意味がよく分からなかった。
「何、とは」
「可笑しいんだ。君、可笑しいよ。最初は心の声が聞こえなかった。だけど、あの見世物小屋にいた時とか、たまに、何でもないような時に、心の声が聞こえてくる」
シナノの表情が段々苦しそうに歪められていく。
俺は何と言ったら良いか分からない。心の声が聞こえるということも疑っていた。そんな俺にはこの質問に答える資格さえもない。
静寂が俺たちを包み込む。時間は刻一刻と過ぎてゆく。
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