推理A
「ぞ、ゾンビ……!」
青白い顔で跳ね起きた隠先生は、いつの間にか職員室にいた私と青山さんの姿を見咎めて丸眼鏡の両目を見開く。
「そ、そこで何してるんだ君たちは……!?」
「先生こそ、何をしているんですか?」悪びれる様子もなく青山さんが尋ねる。
「し、仕事だよ……! 残業してたんだ!」
「シャツ、汗でびっしょりですね? 怖い夢でも見たんですか?」
「あ、え……?」
言われて隠先生は自分の身体を見下ろす。彼のシャツはまるで大雨にでも降られたかのよう濡れていた。
「そ……、そうだよ! ちょっと嫌な夢を見てね……」
「とか言って。本当は白嶺さんの電脳空間に侵入していたんじゃないんですか?」
「な――。突然何を言い出すんだ君は!」
明らかに狼狽した様子の隠先生に青山さんは「くっくっ」と喉を鳴らして笑う。
「なるほど。白嶺さんから先生が怖いものが嫌いだと聞いていましたが――、効果は絶大でしたか」
「何を……」
「白嶺さんの電脳空間をゾンビランドに変えたのは私です。可愛らしかった部屋の内装をあんなふうにしてしまったことはあとで私の方から彼女に謝っておくことにしましょう」
青山さんが白嶺さんにしたお願い。それは電脳空間の内装変更権限をもらうことだった。
この権限によって、彼女は白嶺さんの電脳空間の内装を書き換えて、ファンシーな部屋を墓場に作り変えていたのだ。すべては隠先生を驚かせる。ただそれだけのために。
「先程の先生の泣き叫びながら走る姿、見ていました。助演男優賞モノの素晴らしい叫び声でした」
「いい加減にしろ!」
嫌味な笑顔を見せる青山さんに対して、隠先生は立ち上がって力任せに机を叩く。
だがそれでも相対する彼女は笑顔を崩さない。
「そうそう、お約束してましたよね。事件について何かわかったら、いの一番にあなたに教えると」
約束を果たすべく、青山さんはゆっくりと持ちあげた指を隠先生へと突きつけた。
「全部わかったよ。万端白嶺の電脳空間に侵入していたのはお前だな。隠徹」
突然突きつけられた指に目を剥いていた隠先生だったが、やがて低く笑う。幾分冷静さを取り戻したのか。はたまた冷静を装っているのか。何にしても先程より少しは落ち着いたようだった。
「……教師に向かってお前とは大した口の聞き方だね、青山さん。だけど証拠はあるのかな? 証拠もないのにそんなことを言うのは名誉毀損になると思うが?」
「先程私が用意したゾンビランドで情けない悲鳴を上げたばかりじゃないですか隠先生」
「……知らないね。第一プライベートスペースの電脳空間には、招待されなければアクセスできない。万端さんに招待されていない私にアクセスすることは不可能。違うか?」
「まず電脳空間にアクセスする手法です。先生が仰られたように、通常プライベートスペースの電脳空間に招待されていないユーザはアクセスすることはできません。それが絶対のルール。ですがそのルールを捻じ曲げることのできる手段が存在します。それが、あの部屋に存在したバックドアです」
青山さんの言葉に隠先生の顔がこわばる。
バックドア――。
読んで字のごとく裏口を意味するそれは、サイバー犯罪者が自分の侵入経路を確保するための手段だ。バックドア経由ならば正規の認証手順を踏まないためアクセスログに残ることはない。それならアクセスログに白嶺さんのもの以外なかったこともうなずける。
だがしかし、そんなものがあの電脳空間に置かれていたというのか? それもどういう経緯で?
「バックドアとなっていたのは、白嶺さんの電脳空間にあったあのテディベアです」
テディベア。確かに白嶺さんの電脳空間には、大きなテディベアのぬいぐるみがあった。
確か本人はネットの友達からもらったものだと言っていたか。
「白嶺さんはネットの友達からあのテディベアをもらったと言っていましたが、本当はあなたは白嶺さんのネット友達としてあのテディベアのプログラムを白嶺さんに送りつけたんじゃないですか? あなたは生徒と大変仲がいいみたいですから、個人の趣味を聞き出すのにそう苦労はしなかったことでしょう」
「何を証拠にそんな――……。大体、そもそもバックドアなんて本当にあったのか?」
「と言うと?」
「プライベートスペースの電脳空間には、セキュリティソフトがあるはずだろ? バックドアなんてものがあればセキュリティソフトが即検知するはずだ」
「拾い物を使ったのか知りませんが、先生はどういう仕組みで検知されないかよくわからずにアレを使っていたようですね。いいですか? 大事なのは検知できないということではなく、何故検知できないのかということです」
「な、何故?」
隠先生の声が上ずる。
教師と生徒。まるでふたりの立場が入れ替わったような錯覚を覚えてしまう。
きっと隠先生も同じ感覚に襲われたのだろう。その表情に屈辱を滲ませている。
「あのバックドアプログラムにはセキュリティソフトの検知を
「欺く処理……ですか?」
尋ねる私に青山さんは小さくうなずく。
「2010年頃の研究で、人間にはわからない程度の微細なノイズデータを加えたパンダの画像を画像認識システムにテナガザルだと誤認識させることができた。これはあくまで画像認識の話だけど、この手法はテキストや音、プログラムにも応用可能でね。セキュリティの分野でウイルスを良性のプログラムに偽装する研究が始まったの」
「パンダがテナガザル……」
「まあそれに関してはあくまでも古い例だけど、こういうのはどこまで行っても完璧な対策なんてない。防御、回避、防御、回避のイタチごっこだから。とにかくあのプログラムはその手法の応用によって、セキュリティソフトに検知されないようになっていた。プライベートスペースで採用されているセキュリティソフトは共通だから、バックドアがセキュリティソフトに検知されないかどうか事前に実験することもできたでしょうね」
セキュリティソフトがバックドアを検知できなかったのには、そういうからくりがあったのか。そう納得しかけたところで新たな疑問が脳裏に浮かぶ。
「それでも青山さんはバックドアを見抜けたんですよね? セキュリティソフトと同じものを見ているはずなのに」
「私一応人間だから? システムを騙す小細工が人間に効くはずがないでしょ?」
言い返されて、私は自分がなんとも間抜けな質問をしてしまったことに気づく。
なるほど確かに。同じものを見ていたとしても見ている側の思考ルーチンが異なれば、自ずと違う結果が導き出されるだろう。
人間がパンダの画像を見てもテナガザルだと誤認識しないように、青山さんもバックドアを無害なプログラムであると誤認識しなかったのだ。
隠先生は憎々しげにつぶやく。
「なるほど。だがどうして今日僕が万端さんの電脳空間に忍び込むとわかった?」
「あのテディベア、つまりバックドアにはふたつの機能がありました。ひとつは隠し通路。これは本来のバックドアの機能。そしてもうひとつがカメラ機能です」
「カメラ機能……?」
「白嶺さんの電脳空間は、バックドアに仕掛けられたカメラによって盗撮されていたの」
「盗撮って……!」
思わず声をあげて私は隠先生の方を振り返る。自分の生徒を盗撮。彼はそんなことまでしていたと言うのか?
「カメラは正規の手順でアクセスした時だけ動作するようになってたみたい。正直ぎょっとしたよ。白嶺さんの電脳空間に入ると同時にこちらを見ていたテディベアの録画機能が有効になったんだから」
「そんなの――全然気づきませんでした……」
「気づかなくても仕方ないかもね。表面上、テディベアは一切変化なかったんだから」
だけどプログラムの挙動を読むことができる青山さんなら、難なくテディベアの変化に気づけたというわけか。
「正直見られていることを考えるとやりづらいことこの上なかったけど、それならもういっそのことこの状況を利用して犯人をおびき寄せることができないかって、そう考えた。だからね、カメラの視界を覆っておいたの。こうすれば犯人は直しに来るんじゃないかって思って」
カメラの視界を覆った……? 一体何の話だ?
しばらく何のことだかわからなかったが、ふとそこである光景を思い出す。
白嶺さんの電脳空間から出る間際、青山さんは確かテディベアの頭にリボンを巻いていた。結び方が雑だったのでリボンはテディベアの目元が隠れてしまっていたが、何のことはない。あれはカメラの視界を潰すため、彼女がわざとやったことだったのだ。
あえて謎が解けたことを白嶺さんの電脳空間で明かさなかったのも、バックドアによって電脳空間の映像が記録されていたことを知っていたから。
「お前はあれを――そういう魂胆でやっていたということか」隠先生が静かにつぶやく。「だがいつから僕に目をつけていた? そうでなければこんなに早くここに踏み込んでくることはできなかったはずだ」
「今日、最初に先生とお会いした時です」
「嘘だ」
「嘘じゃありません。私たちと廊下で会った時のこと覚えていますか?」
「廊下で?」
「『プライベートスペースの電脳空間に侵入事件があった』と言いました。そうしたら、先生言われたんです。『大丈夫なの万端さん?』って」
「何がおかしい。電脳空間に侵入された生徒の心配をするのは当然だろ」
「おかしすぎます。私『プライベートスペースの電脳空間に侵入事件があった』とは言いましたが、誰が侵入されたとは一言も言ってなかったんです。あそこには私や千鶴もいた。何ならあの場にいなかった他の生徒の可能性だってあった。でも先生は『プライベートスペースの電脳空間に侵入事件があった』の一言だけで、なんの迷いもなく白嶺さんの電脳空間が侵入されたと判断した。自分でも『初めて聞いた』と言っていたのに、先生はどういうわけか白嶺さんが侵入されたことを知っていた。私が不思議だったのはそこです。あの時、先生は誰が侵入されたのかを聞かなければいけなかったんです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます