狂態カンセン

小槻みしろ/白崎ぼたん

被害妄執



 親友の明子が、狂った。前触れもなく、昨日、映画を見に行こうと約束し、別れたところまでは普通だったにもかかわらず。

 尤も「狂った」という言葉から、およそひとが連想する様な激しいものではない。ただ、今目の前に立つ明子と昨日までの明子、そして明子の言動を合わせて、それ以外に形容する言葉が見つからなかった。


「なんだか、殺されるような気がしたの」


 そう明子は言った。真っすぐに奈緒を見つめる目は、声音と同じく至極真面目だった。

 奈緒ははじめ、何を言っているのだろう、そう思った。視線を明子の目から、明子の服装へと移した。明子は冬物のコートに、マフラーをまいている。明子が、時折縛る様に巻きなおすマフラーの隙間から見えた首は、タートルネックのセーターで覆われている。

 季節は、桜の葉が青々としてきていた。日差しは、春の面影を忘れさせるほどに暑い。

 当然だが、マフラーとセーターから飛び出した顔は、汗に濡れそぼり、蒸気がもうもうと立ち上らんばかりだった。


「なんでそんな恰好してるの」


 五分以下の沈黙の後、奈緒の口から漸くこぼれ出た言葉だ。そして、それに対しての答えが、冒頭のそれである。

 朝起きると、明子は誰かに殺されるような、そんな妄想に取りつかれたらしい。見知らぬ人間に、背を刺される。


「背にぶつかられた、そう思ったら、私は刺されていて。熱い、そう思った瞬間、心臓がそこに移動したみたいに脈打って、温かい液体が腰や足を伝っていって。わからないまま、私は咄嗟に足元を見て、それで血だって気付くの」


 あるいは、喉を裂かれ、胸を突かれ……バリエーションは様々だった。同じなのは、噴き出す赤い血――特に喉からが壮観だったそう――止めようにも止まらず、体は震えだし、冷え、痙攣しだす――どうやら、ずいぶんリアルな妄想だったらしく、説明しながらも、明子は着ぶくれて太くなった腕を何度も擦っていた。血の類の話があまり得意ではない奈緒は、明子の言葉に少しめまいがし、不快になった。しかし、目の前で、ぐずぐず明子の顔を濡らし、鼻の下のくぼみにたまり、また涙の様に睫毛にまとわりついている汗が日に照らされ光っているのを見ていると、そう言っていられない気もした。


「それで……私、怖くて。少しでも、隠さなきゃいけないように思ったのね」


 マフラーを鼻の下まで持ち上げた。ついでにさりげなく鼻の下のくぼみに溜まった汗をマフラーで拭ったのが見えた。毛糸に雫の光が幾分移動する。

 明子は、暑さなどは感じていない様に見えた。それよりも、自身を襲う、「殺されるかもしれない」という妄想を取り払う方が重要なのだ。

 しかし、そんなもので果たして、守れるものだろうか。

 守れない。守れるわけがない。

 奈緒は瞬時に思う。厚手の服を着たところで、刃物に太刀打ちできるはずもない。明子のそれは聊か「ずれた」対応に感じた。言ったところでどうしようもないので、口に出しすらしなかった。家を出なければいいだろう、という言葉は、今日外で会う約束を取り付けた昨日の奈緒自身の言葉を裏切るものだった。

 ただ、見ていて暑いのだ。見たくはない。しかし映画は見たい。そして元来、奈緒は消極的で慎重派だった。異様さを指摘して傷つけはしまいか、そんな懸念がわいた。迷った奈緒のとった行動は、目をそらすこと――それは現状にも、明子の姿にも――と、そして


「あ……そう、まあ、とりあえずいこっか」


 いつも通りを装う事だった。その臆病な行動に罪悪感がそっと追いかけてくるが、見ないふりを決め込んだ。だってどうしようもないではないか、そんな自己弁護で叩き伏せた。とりあえず暗い所、そして涼しいところへ行こう。集まる奇異の視線も熱気も、すべてそこが解決してくれるだろう。


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