第19話 もう言っていいよね
本日最後の授業が終わった。
チャイムが鳴り響く中、俺はうんと背伸びをする。やっと終わったか。生徒会役員たる者勉学には一層の精を出すべきである、というのは綾小路の弁であり、まあそれもそうかと啓発された俺はとりあえず授業は真面目に聞くことにしている。だからというわけでもないが、隣で船を漕いでいた友人には多少なりとも思うところがある。
終業の鐘を合図に目を覚ました友人は、帰り支度をして携帯を弄り、ふうと嘆息する。
「誠、先に帰りますね」
「あいよ。またナナちゃんと一緒か?」
「まあ」
「俺がこんなことを言うのもなんだが、ばれない様に上手くやれよ。うちにはうるさいのがいるからな」
「心配には及びませんよ。俺と七緒は、恋人というわけではないですから」
爽やかな笑顔を浮かべ、友人は教室を後にする。やれやれ。
その友人とすれ違うように、というか友人の体を突き抜けて出現したのは、見慣れたインビジブル女子だ。こいつが生徒会室以外の場所に現れるのは珍しい。どうかしたのだろうか。
明日香はクラスメイト達の頭上を円を描いて舞う。騒がしい教室で少女が空を飛び、そして誰にも気付かれない。なんとも名状しがたい光景である。
「いやぁ、青春って感じだねぇ」
だしぬけに年寄りじみた台詞を聞かされた。
「私ももう一度高校生活に戻りたいよ。あの頃は楽しかった」
こいつがいつどのように死んだのかは知らないが、その話題は反応に困る。冗談として流してもいいものか。俺はこう見えて、他人を気の毒に思える人間だぞ。
「誠、パソコンにメモリ差しっぱなしだったけど。大丈夫?」
なんだと。大丈夫なわけあるか。あれには明日香作の恥ずかしい恋愛小説が記録されている。しかし、見つかれば俺が書いたと勘違いされるに違いない。いや、俺が書いたことに間違いはないのだが、決して俺が考えたわけではないのだ。
俺は鞄を掴むと、生徒会室に急行した。他の役員が来る前に回収しなければ、生徒会長の沽券に関わる。
下校ラッシュで賑わう廊下。道を遮る生徒達を避けて走る。小学校の時分は廊下は走るなと言われていたが、高校にもなるとそんなことはいざ知らず。掲示板にあってないような張り紙がしてある程度だ。
生徒会室の前に到着。引き裂くように扉を開いた俺の目に、役員の姿は見えなかった。どうやら他の役員はまだ来ていないようだ。
それで安堵できたかと言えば否である。俺の顔をひきつらせたのは、驚愕に身を縮ませる生徒会顧問教師の姿。そして、彼女が開いているパソコンの画面である。
見慣れた文章作成ソフト。それはまさに、俺のUSBメモリに保存されている明日香の恥ずかしい原稿だった。
「びっくりしたぁ」
大げさに息を吐く妙齢の女性教師。
「もう、菊池くんったら。脅かさないでよ」
生徒会顧問の桃城先生は、息を切らせた俺を見て首を傾げる。そして再びパソコンの画面を一瞥する。才色兼備な先生のことだ。この状況をもう理解したのだろう。彼女は悪戯っ子を諭すような優しげな笑みを浮かべ、薄桃色の唇の前で人差し指を立てた。
「わかってるわ、菊池君。誰にも言わないから」
そう言ってくれるのは実にありがたいのですが、俺にとってはあなたに見られただけでも今すぐ屋上から飛び降りたい気分になるんです。
汗を拭い、入室する。
「これって、今人気のネット小説よね?」
そうらしいですね。俺は自分でも解る苦い顔で頷いた。
「驚いたなー。まさか『あたたかな手』の作者がこんな身近にいたなんて」
「一応弁解しときますが」
先生の横からソフトの閉じ、パソコンからメモリを引き抜く。
「書いてるのは俺ですけど、考えてるのは俺じゃありませんからね」
「そうなの? 原作者が他にいるってこと?」
首肯。
「パソコンを打てない奴なもんで、代わりに俺がタイプしてるだけなんです」
「へぇ」
桃城先生は何か閃いたように天を仰いだ。
「それってもしかして、幽霊だから?」
俺は内心の動揺を隠すように、隣で逆さになっている明日香を見た。俺達の話を興味深そうに聞く明日香は、次に俺が何を言うかを気にしているに違いない。
「ご明察。今もここにいますよ」
俺は隣を指差す。
目を凝らす先生だが、何も見えるはずはない。どうしてかは知らないがこの幽霊、歴代生徒会長にしか見えないらしい。
「ま、いっか。菊池君、みんなが来たら後で図書室に来てね。仕事が待ってるから」
そう残し、桃城先生は部屋を後にする。
一人になり、俺は気の抜けた溜息を漏らした。
「ハラハラ?」
「まったく」
見つかったのが桃城先生であることが唯一の救いか。あれが綾小路だったりしたら俺は今ごろ、高跳びの選手のごとく屋上のフェンスを越えていることだろう。
さて、急いで生徒会室に来たはいいものの暇である。一人でやる仕事はあらかた終わっているし、手慰みになるものもない。すぐに役員達が集まってくるだろうから、のんびり待つしかないのかな。
「ねぇ誠」
ふわりと、明日香の腕が俺の首に回った。背中から抱きしめるような姿勢。ひんやりとした感覚と、明日香の程よく成長した体の柔らかさが伝わってくる。
胸の辺りで組まれた明日香の手を、覆うように握る。
時折、明日香は俺に抱きついてくることがある。壁も床もすり抜ける明日香だが、俺だけはこいつに触れることができる。
会話はない。ただいつも、明日香は小さく囁くのだ。
「あったかい」
俺には幽霊の気持ちなんて解らない。明日香がなぜ幽霊になったのかも知らない。だがこいつにとっては話相手も触れあえる相手も、俺しかいないのだ。だから俺は、こいつが求めるなら喜んで応える。
とはいえ、色っぽいことは微塵もない。明日香はただ俺の体温を感じ、俺は明日香の手を握る。それだけだ。
俺も健全な男子高校生だ。見てくれのいい明日香に感じるものがないと言えば嘘になる。けどここから先は、踏み込んではいけない聖域のように感じられるのだ。
生徒会室の扉が開く。
「おつかれさま」
抑揚のない挨拶を口にしたのは、会計職の津々井だ。
彼女の到着を皮きりに、続々と役員達が集まってくる。総勢八人のうち、七人まで数えたところで、目の痛くなるような金髪が見えないことに気が付いた。
「綾小路が最後か。珍しい」
なんとなしに呟くと、役員達の雑談に紛れて津々井の平坦な声が届いた。
「彼女は補習。遅くなる」
なんと。勉学に励むべしと豪語する張本人が補習とは、一体どういうことだ。抜き打ちテストの点数でも悪かったか。
そんな俺の呟きに、首肯で答える津々井。俺はわりと驚いた。
遅くなるなら仕方ない。とっとと図書室に向かおう。俺は役員達に号令をかけると、全員で図書室への移動を開始する。
明日香は名残惜しげに俺から離れると、手を振って俺達を送り出す。
移動の最中、俺は綾小路の相棒である津々井に耳打ちをする。
「なぁ、綾小路の奴は成績悪いのか? 俺はてっきり優等生だと思ってたんだが」
津々井は無言で俺を見上げ、何の表情も見せずに瞬きを一つ。
「前回の中間考査で、下から十番目だった」
なんとも言い難いな。
「ちなみに私は上から十番目」
まじかよ。
図書室に到着した俺達は、待っていた桃城先生と積み上げられた大量の段ボール箱を目にした。桃城先生の話によると、学校に保管していた古い本を市の図書館に寄贈するらしい。それを校門で待つトラックに運ぶのが我々の仕事だそうだ。
力仕事になりそうだ。生徒会執行部の男女比は半々だが、女子の力は当てにできそうにないな。試しに一つ持ち上げてみると、紙ってのは木から作られるものなんだと実感できるほどには重い。台車を使うことも考えたが、道程のほとんどは階段だし、あまり役に立ちそうになかった。地道にやるしかないか。
一仕事終え、俺は会長席に深く腰掛けた。
力の入らない腕をマッサージする。こりゃ明日は筋肉痛だな。
男連中はみな同じ様相で、女子達も大した仕事量でも無い割に疲労を見せている。
桃城先生が小気味良く両手を叩いた。
「みんなお疲れ様。今日の仕事はこれでおしまいよ」
そいつはよかった。これ以上働かされるのはご勘弁願いたい。
役員達は続々と下校していく。最後に残った役員は俺と津々井だ。もちろん明日香もいる。今は大人しく夕日を眺めていた。
津々井は無言で足音もなく俺の隣までくると、感情の読みとれない瞳をじっと向けてくる。
「聞きたいことがある」
お、なんだ。こいつが俺に話とは珍しい。
「私の弟に、校内恋愛の嫌疑がかけられている」
その件なら、昼休みに綾小路から聞いたような気がする。
「私は生徒会役員として、身内の校則違反を取り締まらなければならないと思っている」
凝視していなければ解らないほど微細に俯き、
「でも、姉として弟の恋を応援したい気持ちもある」
「ちょっと待った」
俺は手をかざして制止する。
「なかなか重大な相談をされているような気がするが、不真面目な生徒会長の俺から大した答えはでねぇぞ」
「たとえ不真面目でも、あなたは生徒会長。私達の長。だから、私はあなたの指示に従う」
真っ直ぐ見据えてくる津々井に、俺は些かならずたじろいだ。大袈裟なもんだ。生徒会長ったって、校則という法には逆らえない。
それでも俺の指示に従うと言うのなら、言わせてもらおう。
綾小路と同じく校則に厳しい津々井がそんな相談してきたという時点で、どんな答えを求めているかは明白だ。津々井も自分がどうしたいかは解っているのだ。ただ、背中を押す一言が欲しいってだけ。
とはいえ、俺も生徒会長という立場上、校則違反を助長するような言動は慎まなければならない。
「身内だからといって特別に扱うのはダメだ。それは生徒会の職権濫用だし、なにより他の生徒に示しがつかない」
津々井の黒曜石のような瞳に、俺が映っている。
「だがまあ。生徒会役員だって人間だ。校内恋愛の全てを取り締まれるわけじゃない。そりゃ、見落とすことだってあるだろ」
津々井はじっと俺を見上げてくる。夕日に染まる陶器のような無表情がなんとなく居心地の悪さを感じさせる。
「そいつらが隠し通そうとしてるなら、なおさらな」
たっぷりと十数秒、無言を挟んで津々井はようやく口を開いた。
「わかった」
それで話は済んだと言わんばかりに、津々井はこころもち早足で生徒会室を出ていった。
一人残される俺。
「人情派だねぇ」
明日香もいるが、こいつは数えなくていいだろう。生きてないし。
「そういうところが、誠の人気の秘訣だよね」
「人気なんてねぇよ」
椅子に深く座り直す。
「それがあるんだよねぇ。歴代生徒会長を見てきた私が言うんだから間違いないよ」
歴代生徒会長ね。
「明日香。つかぬことを聞くが」
「なぁに?」
「お前は、どれくらい幽霊なんだ?」
何気なくを装ってはいるが、正直勇気のいる質問だった。気になっていた事ではあるが、今までなんとなく聞きにくかった。それはある意味、女性に年齢を尋ねる感覚に似ているかもしれない。
「さあね、もう忘れちゃったよ」
「忘れたって……」
そんなことあるのか?
「だって、時間を気にする必要がないもん。眠らなくたって平気だし、暑さや寒さだって感じないんだよ?」
「だとしてもだな」
そこで俺は言葉を止めた。明日香の笑顔に翳りが見えたからだ。
「まあ、お前がそう言うならそうなんだろう」
だから俺はこの話題をさっさと終わらせることにした。誰にだって触れられたくないことの一つや二つあるものだ。
気まずい空気の中、俺はだんまりを決め込む。沈黙の中、俺は閉まった扉を凝視する。気まずいのになぜ帰宅せず生徒会室に留まっているのかと聞かれれば、正直に答えよう。
明日香の傍にいるためだ。
生徒会室という場所に取り憑いた明日香は学校から離れることができない。俺が帰ってしまえば、こいつは一人になってしまう。たった一人、暗い学校に取り残されるのだ。
同情というわけではない。一緒にいてくれと頼まれたわけでもない。他でもない俺が、こいつの傍にいてやりたいと思っているだけだ。いや、いてやりたいってのも上から目線でなんか違うな。
まさか幽霊にここまで思い入れが出来ちまうとは、俺もどうかしてる。思わず溜息が出るのも仕方ないというものだ。
「どしたの?」
明日香が俺の頭上を跳び越えて目の前に現れた。こんなに飛び回っているにも拘らずスカートの中が見えないことは常々残念に思う。
「おつかれ?」
「まあな。今日は肉体労働だったし」
「ふぅん」
興味無さげにそう言いながら、明日香は俺に抱きついた。正面から抱きつかれるのは初めてで、俺はかなり狼狽した。
「お、おい」
俺の頬にかかる半透明の髪がくすぐったい。
「誠、もういいよね」
耳元で嘯く声。
「今まで我慢してたけど。もう言ってもいいよね?」
何を、と言う前に俺は気付く。
少しだけ、迷った。ここで明日香の言葉を聞いてしまえば、俺はきっとそれを受け入れるだろう。それは俺達が築いてきた関係の崩壊を意味する。
ずるいぜ明日香。こんな状況で、冷静な判断ができるわけないだろう。冷たい明日香の体でも、俺の頭を冷やすことはできない。
俺はぎこちない動きで、明日香を抱きしめた。初めて触れた、絹のような髪と、意外に華奢な腰。
冷静な判断が、必ずしも正しいものであるとは限らない。そう自分に言い聞かせて。
「誠」
明日香の顔は見えない。けれど、彼女がどんな表情をしているのかは、解るような気がする。
「好きだよ」
心地よく耳朶に響くアルトボイス。
冷えきった体を温めてやりたくて、俺は明日香を強く抱きしめた。
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