第9話 夜空を見上げて

「どうして急に幽霊なんか探そうと思ったんですか?」


 帰路。河川敷にて、俺は尋ねた。

 これまでも七緒の突拍子もない行動は多々あったが、幽霊などと言い出したのはこれが初めてだ。学校で噂を聞いたというが、それだけとは思えない。


「『あたたかな手』って、スイちゃん知ってる」


 俺は首を横に振る。


「ネットでね、最近流行ってる小説なの。幽霊になった女の子のお話。ノンフィクションなんだって」


 ネットで小説か。紙媒体で読んできた身としては、とっつきにくいものである。それはともかく。

 幽霊になった女の子の話? しかもノンフィクションだって? それ、一体誰が書いているんだ?

 突っ込みどころは色々とあるが、女子高生が好みそうな話だとは思う。七緒がそういうものに興味があるのには少々驚きだが、さて、それがどうなったら今回の幽霊探索に繋がるのだろう。


「でもね、ノンフィクションって嘘っぽいよね。だから、調査してみることにしたの」


「本当に幽霊かいるかどうかをですか?」


「うん。幽霊がいたら本当にノンフィクション。いなかったら嘘。タイミングよく噂が流れてたから、これはチャンスかも! って」


 それで、結局見つからなかったってわけか。

 七緒は悄然とした表情だ。いて欲しかったのだろう。単なる興味や娯楽としてではなく、その物語が真実であると信じたかったのだ。


「わかってたけど、ちょっと残念だな……」


 七緒のこんな表情は久しぶりだった。いつも微笑んでいて、俺を和ませてくれる七緒。いつも一緒にいる俺にも、七緒がネガティブな様子を見せるのは何度とない。

 繋いだ手から七緒の感情が伝わってくるようだ。幽霊否定派の俺までが、その感情を共有してしまう。それをどこかに飛ばしてしまいたくて、俺は握る手に力を込めた。


「スイちゃんの手、あったかいね」


 囁くように言って、七緒は身を寄せてくる。夏なのだから温かいのは当然だ。むしろ熱いのではないか。それでも彼女は心地よさそうに目を閉じる。

 ずれたことを言う七緒。子どものようにはしゃぐ七緒。俺の手を引いてくれる七緒。そんな彼女を、俺は愛しく思う。出会ってからずっと、俺は七緒に恋をしている。

 いつまでこのままなのだろう。俺達の関係は、昔から何も変わっていない。このままズルズルと、この煮え切らない関係を続けるのか。


「スイちゃん?」


 そんなのは、ごめんだ。

 立ち止まった俺を、七緒は不思議そうに見て、俺の手を引っ張る。


「七緒」


 温い風が頬を撫でる。仄かなシャンプーの香り。

 七緒が唇を真一文字に結んだ。俺が今から何を言おうとしているのか、察したようだった。


「俺は――」


 言う前に、七緒の人差し指が俺の唇に触れる。

 思いがけない行動だった。俺の言葉は、そこで途切れてしまう。


「言わないで」


 これ以上ないくらいに優しい声。


「私は、今のままがいい」


 胸にナイフを突き立てられたようだった。


「七緒……」


「スイちゃんの気持ち、わかってる。わかってるつもりだよ? でもね、だからこそ私を見ないでほしいの」


 七緒は首を振った。


「んーん、なんか違うね。なんて言えばいいのかな。えっとね……スイちゃんが私を見ちゃうとね、私達は私達しか見えなくなっちゃうでしょ? それって、良くないことだと思うの」


 七緒が何を言っているのか、俺には理解できない。ショックで頭がうまく働いてくれなかった。


「だからスイちゃんには、前を向いていて欲しいの」


「何を」


「私はいつでもスイちゃんを、スイちゃんが向いてる方を見てるから」


 俺の頭は混乱したままだ。七緒が何を言いたいのか。まったく理解が及ばない。

 七緒は空いた手で俺の頬を撫でると、俺の眼鏡を器用に外した。俺の視力では、目の前の七緒の顔さえぼやけてしまう。


「恋人にはならない。私がおっけーするのは、プロポーズだけだよ」


 七緒の唇が俺のそれに触れた。

 こういう時は目を瞑るのがマナーなのだろうが、そんな余裕はなかった。七緒は目を閉じている。彼女の鼓動の速さは、寄せられた体から伝わった。

 唇が離れて目が合うと、七緒ははにかんだように笑い、俺の胸に手を置いた。


「スイちゃん、顔まっかっか」


 言われるまでもない。顔から火が出るとはまさにこのことだ。それは彼女も同じだった。

 羞恥に赤面しながらも、俺達は決して顔を背けない。

 段々と頭が冷えてきた。

 七緒は、自分のことを見るなと言った。それはおそらく、互いに見つめあうのではなく、共に同じ方向を向いていたいということだろう。

 共に歩んでいく、パートナーとして。

 七緒の言いたいことは解る。納得もできる。

 それでも。

 少しくらい構わないだろう?

 今この瞬間のように、お前だけを見る時間があっても。


「七緒」


 彼女の泣きぼくろを指でなぞると、くすぐったそうに声を漏らす。

 俺は七緒を抱き締め、半ば強引に唇を合わせた。


「ん……」


 心臓が割れ鐘のように鳴っている。痛いほどに激しく。

 再び離れた時、俺は嬉しさのあまりに表情が歪むのを感じた。


「ずっと、こうしたいと思っていました」


 声が震えていた。

 俺の言葉に、七緒はすっと顔を伏せる。

 拒絶の意を表されたのかと、不安になる。


「――も」


 囁きよりも小さい、消え入りそうな声。


「七緒?」


「私も」


 囁くような声は、それでも何とか聞き取ることが出来た。

 全身に張り巡らされた緊張の糸が解れたような気がした。七緒の背に回していた手が、ゆるゆると落ちる。

 結局のところ、七緒にだって自分だけを見て欲しいという気持ちはあるのだ。いくら考えを巡らせたところで、その想いを消すことはできない。

 安堵から、溜息にも似た笑いが漏れた。


「こういうのも、たまにはいいでしょう?」


 七緒は顔を上げ俺の顔を見ると、頬を染めて恥ずかしそうに頷いた。



 俺達は共に歩く。

 今度は俺が彼女の手を引いて。

 これからは俺も、七緒と一緒に空を見上げてみよう。

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