第4話 けらけら男(説明に困る回やけどまぁ読んでみてや)
小走りでオフィスに戻る。「課長! もしくは係長! あ、課長!」
「はいはい、うるさいわね。なんの用事? スタバかマックの新作?」
「そんな用事で話しかけたりしません! 再来年度の秋で旭大と文化で辞退って、本当ですか?」
課長は飲んでいたコーヒーをぶふ、と吹きだし、飛び散ったしずくをハンカチで拭いた。
「む、向井! あんた、夢でも見たんじゃないの? クリーニング代、払う用意もあるんでしょうね」といい、鋭い目線を投げかける。「で、ソースは? 誰に聞いたのよ」
「え、そっ、それは、屋上でご飯食べてたら男性職員が――」
「ああそう、はいはい、なるほどね。それで? その人の所属と氏名は?」
「えっと、職員証を着けてない方で――面識はなかったんですけど」
ざわめきだす課内の雰囲気に、わたしは動悸を感じた。
身を乗り出して聞いていた課長だったが、乱暴に椅子の背もたれに身をあずける。
「くっ――」
「――だらないわねえ! 所属も、氏名も、なにもかも不明、取るに足らない情報で職場の風紀を乱さないでほしいわね。ほんと、下らない」
退くべきだ。確たる情報源を提示しないと、わたしの墓穴は深まるばかりだ。
「す、すみません。白昼夢でも見ていたのかもしれません――あの、ほんとに、そういった情報はないですか? 再来年度の秋の――」
「はん。自分で調べてください。明日の昼にまた屋上に上がってみれば? 夢の続きが見られるかもよ? とりあえずはフィクションと現実の区別をしてから仕事して」
課長が毒々しくいった。
いや――たしかにそうだ。明日の昼も屋上に出れば、会えるかもしれない。あのけらけらと笑う男に。
また降りるべき駅を三駅、乗り過ごす。
カフェのドアに立ち、少しだけ口角を上げて笑顔を作ってみる。
「あら、いらっしゃいませ――と、きょうはあまりしゃべらない方がいいかもね」
「え、そんなに疲れた顔、してます?」手を洗いながら老店長に訊く。
「ううん、上手な笑顔ですよ。でも、楽しそうじゃないって感じ」
あっさりと看破されたので、わたしは武装を解く。だらり、と顔の肉が弛緩し、重力への抵抗をやめる。
「三〇分?」わたしはうなずく。
「ホットミルク?」わたしはうなずく。
「黙っとこうか?」わたしはうなずく。
キャットスペースに通され、わたしはソファに全身をあずける。小田さんもいたが、構っていられない。わたしはため息をつくためだけの存在となった。
「あ、シェリー、こら」小田さんが手を伸ばしかける。
シェリーはソファに上がり、そこで丸くなった。わたしが手を伸ばすと、また向こうへ行った。
「あ――もう。珍しいんですよ、人のそばに座るのは」
わたしは涙を拭いて「そもそも人、って認識、あんまりないのかもね、今のわたし」といってぎこちなく笑った。「わざわざカフェに来て泣くの、まだ二回目なんですよ、これでも」
小田さんはぬるくもなく、熱すぎでもないホットミルクをテラスに運び、そこでわたしは猫たちを見ながら一息つく。
ここに住みたい。
「いらっしゃいませ」
小田さんと店長の声がそろう。「――はい、三〇分で。はい、ホットミルクですね。かしこまりました。では、中へ」
「おや、奇遇だねえ」
「――け、けらけら男、こ、この!」
「うん?」
けらけら男と店長と小田さんが不思議そうな顔をする。
「だって、所属も氏名も教えてくれなかったじゃないですか。あなたの情報、鵜呑みにしてうちの課長に上げたら『フィクションと現実の区別して』っていわれたんですよ?」
けらけら男は「それはどうも。で、なんでまた僕が『けらけら男』なの?」と相好を崩さずにいった。
「そ、それは、あなた屋上でけらけら笑いながら旭大と文化が、っていう話をしてて――」
ごろごろ。
「はーい、シェリーちゃん? 怖ーい人が出てきちゃったねえ。でも、大丈夫だからねえ?」
人間嫌いのはずのシェリーがけらけら男の足にじゃれつき、けらけら男がシェリーを抱きかかえ、シェリーのお腹に顔を埋もれさせる。それ以外の者はただ黙っている。言葉もない、と表現した方が正確か。
「な、なんですかその態度は。所属も階級も氏名も分かりませんが、とにかく、わたしは帰ります。店長、長いあいだありがとうございました」頬を震わせながらわたしは支度をする。
「向井さん」
「なんですか」
「諸々の非礼は詫びますが、あなたも裏を取るなど、所定のステップを踏まずに上長に報告したのはいかがなものでしょう。それにここは一般店です。どうぞおだやかに。なおわたしの身分でしたら、明朝あなたの所属部署へ情報提供しておきます。では、いずれまた」
けらけら男はそのまま立ち去った。
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