猫カフェ大好き公務員女子、異動先は諜報組織!?
煙 亜月
第1話 賞勲局(前置きというか主人公の紹介的な話やで)
まえがき
本作品は過去にカクヨムなどで公開していた『言向司』を改題し加筆修正したものです。
大幅な変化こそありませんが、より面白い作品となっていますので、お時間のよろしいときにお楽しみいただければ幸いです。
「あ、課長、このあいだの件ですが――あ、課長、あの、待ってください」
課長はフロアカーペットにヒールの鈍い音をさせながら自分のデスクまで歩く。悠然とオフィスチェアに座る。追いかけてきたわたしに向かっていった。
「さて、新人さん。『このあいだの件』がなんの案件か、上司の脳がイメージしてくれるのをまだ期待してるの? 歩いてるひとを自分のデスクで引き留めるのもよろしくないわね。で、まあ、なんの用事?」
拝命当初はまったく感じられなかった。むしろ美人で愛想もよく、憧れでしかないというのが、この――山本課長の第一印象だった。ところが少し慣れたと思ったら、朝から晩まで嫌味という名の指導をしてくる。
石の上にも三年、古くからそうだった。そうだ。そうなのだ。だが、まだあと一年弱ある。いや、それだけあれば十分だ。わたしは可能な限り姿勢を正す。毅然と報告する。
「課長。ムラサキの方で辞退者が多数出る見込みです――内訳は、文芸の先生方が多くを占めています。スポーツの方ですが、事故で一名がそろそろ亡くなりそうな気配との情報がありました。ほか、今回は特別なのですが、サッカー選手の事故死に飲まれる形で一気に辞退ムードとなり、次年度――」
それまで聞いていた課長は掌をこちらに見せ、制止した。
「わかった、じゃあその、醤油一気飲み大会は辞退するひとが多いのね、向井さん?」
「え、は?」
山本課長は遠視鏡という名のただの老眼鏡を外して残念そうな顔をした。
「あのねえ、話すんならもう少し分かりやすく、というか正確に話して、向井さん。それじゃ、紫綬褒章なのか寿司屋の醤油なのか分かんないじゃない。あとさ、口頭で説明を続けるんなら、紙ベースの資料のひとつやふたつ、作ってよ」
「す、すみません、資料は共有フォルダに入れておいたので、課長にそれを開いていただいての報告にしようと思ってました。『ムラサキ』が醤油なのか紫綬褒章なのか、それは、部署が部署なだけにいいかな、と」
説明しながら、うしろの方でわたしと課長のやり取りを聞いている面々を思い浮かべた。なあ、一瞬でも笑ってみろ、呪い殺すからな。いや――まあ、笑顔禁止、とかそんなのは本課の規定にない。別に笑ってもいい。ただ、ちょっと呪い殺されちゃうだけだ。
わたしが背中に発する波動に気圧されたのか、無駄口は絶え、多忙極まりない業務風景が戻った。そんな気がした。
ここ――わたしが籍を置く内閣府賞勲局は、内閣総理大臣が閣議に報告した要綱に基づいて各省庁の長、ならびに地方自治体の長、また一般より、内閣総理大臣に閣議で推薦された個人や法人へ、閣議決定にもとづいて栄典の授与を行なう際の、事務処理を所管する組織である。
などと一文でまとめようとすればするほど七面倒くさい職場なのだが、平たくいって年二回、国が制定した勲章などをだれかに授けるときの事務屋なのだ。
もっとも、それは楽しいイベントごとでなく、歴然たる国事行為である。つまり、メダルにしてもなんにしても、造幣局で造られた「モノ」である以上に、天皇から下るべき神の「もの」――すなわち神事、と。少なくとも初任研修ではそう叩き込まれた。
わたしは高校時代、学年トップを争う成績で、のちにそう悪くない大学に合格し、学部内でもそう悪くない成績を収め、晴れて国家公務員となった。そこまではよい。かなりよい。拝命した役人を勤め、年功序列に従い、退官後も家族で一緒、安心の老後生活を見ていた。そのはずだった。
「話を戻そうか」
課長が眼鏡を掛けなおしてパソコンの共有フォルダを開く。戻そうか、とおっしゃいますのは? 先ほどあなたが壊滅的に脱線させた話のことでしょうか? ここらで醤油でも一本いっときますか? ――そう尋ねてもよいが、こらえる。
「それで? 叙勲と褒章の辞退希望者のリスト、お願いしたんだっけ?」
「はい。共有フォルダの――そこ、――はい、それです、開いていただいて、あ、そのシートです」
「はいはい、これね。――問題点がいくつかあります。わかる?」
「問題点といいますのは」
「質問してるのはこっち。まあいいわ。第一に、ファイルサイズが大きすぎなんだよね。あなたの家のパソコンがどうあれ、ここや、ほかの省庁にあるパソコンは限界まで使い倒すんだから、こんな重いファイルは困るね。あなたのデスクには少し後の世代のパソコンがあるけど。次に――」
フロアの面子のため息を聞こえた。もう嘲笑を浮かべる者もいない。それどころか憐れみすら抱いている。しかしその憐憫は不要だ。なぜならば、わたしは課長の苦言を聞きながらも心は大学時代に訪問した、美しきライプツィヒのホールに在り、そこでわたしはシューベルト『ザ・グレート』の公演に感動しているさなかであるからだ。
「向井さん、聞いてるの?」ティンパニの音で目が覚める。
「はい、問題点をただちに修正し、早急に業務へ間に合わせるよう努めます」
「まあ、分かってるんならいいわ。残業しないようにだけ気をつけてね」
公務員の退庁は早かったり遅かったりするが、おおむね遅い。たいへん遅い。この国の内情に鑑み、拘束時間と打刻時間の一致性とか、その整合不整合をとやかくいう理由も余裕もないのだ。
「ふああ」
思わずため息を夜空に吐く。国家公務員――もっとクールで、綺麗好きな人の集団だと勘違いしていたな。わたしも、あの課長も、そのほかのおっさんどもも、スーツじゃなくて作業着だ。国家公務員だからって清潔なスーツの人ばかりではない。
「なんか、頭のなかごちゃごちゃしてきたな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます