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その頃安土では──
『また、河尻殿に書状を認めておられる。 此度もまた……』
「逸るな」という書状を書いている当にその日に、高遠城攻めが始まろうとしているなど微塵も思っていない。
信長は筆を置くと、また乱法師に書状を渡した。
日付は三月一日だが、安土から信州にすぐ着く訳がないので、河尻が長可達の勇み足について訴え、安土に届き、更に信長が送り返し河尻が手にするとなると内容にかなりの時差が生じてしまう。
「陣を固めて儂の出陣を待て」と、今回も指示を書いたが、陣を固めるどころか既に出撃してしまっているのもやむを得なかった。
乱法師は読み終えると美しい眉を潜め溜め息を吐き、言った。
「今頃、中将様の軍勢は大嶋と飯島の辺りに陣を敷かれている頃でございましょう」
大嶋や飯島どころではなかった。
「乱!儂等は三月五日に出陣じゃ!皆に触れを出す」
「はっ!いよいよ、御出馬でございますね」
乱法師の表情はぱっと明るくなったが、いよいよどころか、遅過ぎた──
────
信忠率いる軍勢は、小笠原信嶺の案内で高遠城に至る道を遮る川の浅瀬を渡り高遠城に迫っていた。
「各務!そなたの旗指物は凄いのぅ。此度も良い働きを期待しておるぞ」
森家の家老、各務兵庫の旗指物が信忠の目に止まった。
各務兵庫の背中の指物は九尺(2m70cm )もあろうかという程格段に長く、鳥の尾羽を使用した相当派手な仕様となっていた。
さしづめ、閉じた状態の孔雀の雄の羽を背中に差していたようなものか。
そんな長い物を背負っていては邪魔だろうと思うところだが、甲冑の意匠はともかく奇抜で派手な物が好まれた。
戦で指揮をする大将の場合は敵を威圧し、周囲に此処にいるという存在感を示す為でもあったろうし、家臣達からすれば武功を大将の目に止まりやすくするという意図もあったろう。
夜の間に城に迫った軍勢は、三月二日の払暁、大手と搦め手側の二手に分かれ一斉に攻撃を開始した。
法螺貝が吹き鳴らされ、大手側からは森長可、団平八、河尻、毛利河内守、小笠原信嶺が突撃し、搦め手側からは信忠が攻め掛かった。
大手口から城兵が出撃し、織田軍と白兵戦が繰り広げられた。
「漸く骨のある奴等と戦えるぞ」
長可は前線で指揮を取りながら、突きまくり斬りまくった。
返り血を浴びながら大声で下知を飛ばす。
乱戦となり、互いに鉄砲や矢が使えなくなった。
暫し斬り合った後、陣太鼓の合図で高遠城の生き残り兵が城に逃げ込もうとするのを追撃するが、城壁から鉄砲、矢が射掛けられ、橋が上げられ城門は固く閉ざされてしまった。
寄手側よりも城に籠る守備側の方が戦では有利な為、力攻めをする場合は守備側より三倍以上の兵力が必要とされる。
織田勢は十倍の兵力を要している為、城に籠る敵をその儘にしておく道理はなかった。
今度は織田方の陣太鼓の合図で竹束が用意される。
竹束とは竹で作られた塀状の楯で、その後ろに潜み矢弾を避けながら城壁に近付く事が出来る。
高く組まれた井楼からは数多の鉄砲の筒が突き出し、城の方角を狙う。
竹束を盾として堀際まで進むと、渡らせまいと城内から矢と鉄砲による猛攻撃が開始された。
織田勢は味方を援護する為に、敵の何倍もの数の鉄砲で撃ち返す。
眼前が霞む程の硝煙と砂埃が立ち込め、所々で運悪く矢弾に当たった兵達が倒れ、渡ろうとした者達が深い堀に落下していく。
城兵は必死に防戦するも、数で勝る織田軍は徐々に堀を渡り始め城壁に迫った。
城門城壁は極めて強固で、鳶口、手斧を使っても容易くは打ち破れない。
敵の攻撃を受けながら破壊、もしくはよじ登ろうにも、狭間からの矢弾と上からの石礫の攻撃は凄まじく、死者怪我人が多数出て士気が衰えた為に一旦退かせた。
「くっそーー!こうなれば、牛と亀を用意致せ! 」
長可が命じた牛と亀とは
防御と攻撃が同時に可能な『牛』とは、竹束や木の板を楯として三角形の形状の中に兵が入り、下に車が付いているので開いた穴から鉄砲を打ちながら前進出来る。
亀とは、これまた三角形の楯の中に兵が入り、横に鉄砲を撃つ為の穴が穿たれている所までは『牛』と同じだが、城門を破壊する為に先端から鋭く削った丸太が突き出しているのが特徴だった。
新たな兵を前線に送り込み、竹束、牛、亀で矢弾を避け、敵が城壁から狙うのを井楼から絶え間なく鉄砲を撃ち掛け援護した。
織田勢の圧倒的な兵力、鉄砲の数に圧倒され、高遠城の兵達に疲れが見え始めた。
亀が城門を破壊しようと何度も後ろに下がっては前に進み衝撃を加える。
城門を破られては大変と、城兵の攻撃がそちらに逸れた隙に竹束の後ろに潜んだ兵達が鳶口、掛矢などを使い壁の破壊を試みる。
森家の家老、各務兵庫は武勇に優れ、鬼兵庫の異名を持っていた。
隙を見て素早く城壁をよじ登り、狭間の穴に手を掛け潜り込もうとしたところ、長い指物を背負っている事をうっかり失念していた。
九尺もある指物が狭間に引っ掛かり、前に進めないのを力任せに抜け出ようとしたところ、群がっていた敵のど真ん中に落下してしまった。
味方がそれに気付き、慌てて長可に報せる。
「早く兵庫を援護せよ。儂の後に続け! 」
後何度か衝撃を加えれば開きそうな程、城門が軋んできていた。
兵の替えがない武田勢は、城壁をよじ登る敵を防ぎ切れずに浸入を許し始めた。
「おおうおーーりゃあぁーうがぁァぁーーいやーおりゃあくあァっ」
落下した各務は無我夢中で槍を振り回して敵を薙ぎ払い倒した。
漸く城門は打ち破られ、団、河尻、毛利隊も城内になだれ込んだ。
高遠城兵が次々と斬り倒されていく。
累々と横たわる屍は、最早どちらの兵なのか見分けがつかない。
森長可隊は三の丸に向かった。
その頃、本隊の信忠は山の尾根から続いた搦め手口から攻撃を加えていた。
自ら武器を持ち塀際まで迫ると柵を破壊させ、周囲が止めるのも聞かずに塀の上に登り下知を飛ばす。
本隊はさすがに士気が高く、総大将自らの前線での指揮に、皆ここぞとばかりに武功を競い、馬廻り衆も小姓衆も城壁をよじ登った。
大手搦め手から突入した織田勢が目指すは本丸。
長可と平八の隊は敵を斬り伏せながら進み、三の丸に辿り着いた。
三の丸の
完全に織田方優勢だが、最初から死ぬ気でいる兵程厄介なものはない。
頑強な抵抗に、生きて帰りたい織田の足軽達はおよび腰になり、戦う振りで雄叫びばかりが勇ましい。
長可は三の丸櫓の屋根に目を付けた。
城兵の死角に回り込み、兵達を屋根に登らせる。
城門城壁は中々打ち破れなかったが、屋根はそこまで頑強に造られていない筈だ。
「打ち破れーー」
長可の鋭い下知で、城壁破壊に使用した鳶口や掛矢で屋根を破壊しにかかった。
屋根に穴が開くと、中にいる者達が丸見えになった。
まさか屋根を破壊して攻めてくるとは思っていなかった城内の者達は恐慌状態に陥るが、こうなっては長可隊の鉄砲の的でしかない。
一瞬の内に櫓内は阿鼻叫喚の坩堝と化した。
兵士だけでなく、その妻や子も多数いたが容赦なく撃ち殺す。
凄まじい絶叫と轟音が鳴り響き、逃げ惑う人々が撃たれて血みどろの屍と化していく当に地獄絵図。
女子供の悲鳴が止むまで鉄砲を撃ち込ませた。
長可の甲冑は深手を負っているかのように血塗れだったが、全て敵の返り血だった。
老若男女の屍が積み重なり、壁や床には血飛沫が飛び散る凄惨な屋内に入ると、残兵達を斬って捨て三の丸を制圧し終えるや、今度は二の丸に向かう。
二の丸には米蔵や兵士達の為の食事を手配する台所などの建物があった。
仁科盛信の言葉通り、末端の兵、女子供に至るまで決死の覚悟で向かってくる。
台所の窓の隙間から、まだ十五、六歳の小姓と思われる美童が矢を射て織田の兵多数を倒したが、弓が尽きると刀を振り回して敵の中に突っ込んで討ち死にした。
諏訪勝右衛門の妻は、長刀で敵を七、八人倒すも力尽きて果てた。
織田勢は本丸に迫り、城主仁科盛信は櫓の狭間から外を眺め終わりを悟った。
生き残りの兵達は死を覚悟し、己の妻子を引き寄せ刺し殺す。
「最早これまでのようじゃな。皆、良う戦ってくれた。今年は花が咲くのを見られなかったのぅ」
城兵達が敵勢に斬り込み時を稼ぐ間、仁科盛信はそう呟き、家臣達との別れを惜しむと短刀を腹に突き立て十文字に掻き斬った。
享年二十六歳。
寄手の大将信忠と同い年であった。
小幡五朗兵衛が介錯をした後、城に火を放ち、高遠城は三月二日に落城した。
三月三日、高遠城が落城したと聞いた勝頼は新府城を焼き払い撤退した。
裏切った家臣達から預かった人質を閉じ込め、城と共に焼き殺して後であった。
人質達の嘆き悲しむ声を背に、引き連れた者達は二百余名。
そのうち騎馬は僅か二十人程。
勝頼の正室、側室、子供、付き人といった真に頼りない有り様だった。
家臣達から見捨てられ孤立した武田家の人々は、頼る当てのない、既にこの時から死出の旅路であったのかもしれない。
高遠城が落ちたという報せは直ぐに安土に発っせられた。
信長は、信忠と河尻秀隆に、その三月三日の日付で、また書状を書いていた。
内容は穴山梅雪が寝返った事や、勝頼が諏訪から新府城に撤退した事など。
やはり時差がある為、数日前の情報である。
またもや、これ以上の前進は一切無用、自分が直に出馬するから武田など容易く討伐出来るとも書いた。
──その頃、信忠は高遠城を落とした勢いに乗り、早くも三日には上諏方に進軍し諏訪大社を焼き払っていた。
高遠城が落ちたという報せが届くか届かないかという三月五日、畿内の軍勢を引き連れ、漸く信長が出陣したのだった。
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