第5話 やっぱり夏は最高なのか
「ちょっとー。どうしたのー」
大きな声。けれども、その声は、私の耳にかすかにしか伝わってこない。たとえるなら、自分の部屋に籠る思春期の子供に呼びかける母親の声のような。
いや、ようなではない、そうだ。これは確かに、私の母の声。しかし、何故に母の声?ここは学校の教室で、しかも今日は平日だから、授業参観なんか絶対ないはずだ。じゃあ気のせいか。私が断定するその直前、教室では聞きなじみのない、ドアノブのガチャリという音が私の耳に飛び込んできた。
「どうしたのー。急に声を上げて。静かになさい。今日はお客さんが来てるんだからね」
母は、その心配した表情以外には、普段、家にいるときの様子と変わるところはなかった。澄んだ黒色のシャツに、真っ赤なエプロンを合わせるという極端ではあるが、なかなかにおしゃれなファッションだ。お母さん界隈では、かなり上位に食い込むのではあるまいか。
そんなことはともかく、母は部屋着だ。授業参観の格好じゃない。ということは。私も家にいるのか。さっきまで教室にいたはずだが。さっきまで確かに、しゃべりで笑いを生み出す一人のエンターテイナーだったはずだが。私は、ずっとここに独りでいたというのか。
こうした念は、私の脳内を隅々まで巡ったが、驚きがあまり大き過ぎたせいか、私の口はまったく動かなかった。
「もうお母さん行くわよ」
母は、心配顔と呆れ顔がうまく混ざり合っていない表情で、せわしなく私の部屋から出て行った。それを静かに見送った私は、自分の携帯電話で今日の日付を確認した。やっぱり、七月二十六日と光った。なんだ。あっちが夢か。そう思った瞬間、体中から安堵の息が漏れ出た。さっきまで残念に思っていたのが嘘みたいだ。
夏休みが夢でなくてよかった。結局、私も一高校生だということだ。
しかし、不思議な体験だった。夢の中で夢を見ていたのだ。面白い。そうだ、何かに書き留めておこう。メモ用紙を探していると、ふと、さっきの母の言葉に引っかかった。
「どうしたのー。急に声を上げて。静かになさい」
彼女は、いびきのことを言いたかったんだろうか。いや、でも、普通いびきを指摘するのに、声とはあまり言わないだろう。だから、いびきではないと思う。では、寝言か。私は、人生であまり寝言を指摘されたことはないが。しかし、それしか有り得ない。きっと、ゲームのやり過ぎで疲れているのだ。それで寝言を言ってしまったのだ。そうだ。そうに違いない。
私は、とりあえずそう自分を納得させた。ただ、今日あったことについては少し怖くなったので、書き留めるどころか、積極的に忘れることにした。
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