虫の日常
私、
***
「で、
週に二回の退屈殺しの時間が終わりに近づいてきた。
もう終わるのか、あぁ、もう終わってしまうのか。
そういう時の流れの速さと、それにひきかえ、本人曰くとても大事そうな、大事ではなさそうな話というものを、あまりにも後回しにされ待たされる側になっていることに、私は苛立っていた。
「分かってるってば、驚かないでほしいんだけどね、」
私の家庭教師として呼ばれている女子大生、
「
畳み掛けるように聞いてみた。
「ごめんごめん、あのね、前に彼氏いるって言ったことあるじゃん?」
「はい、三年くらい付き合ってるっていう」
「そうそう。その彼氏ね、実は鈴華ちゃんの担任の
結衣さんはそう言って笑った。なぜ笑う?
「へぇ、どっちからですか」
「え、驚かないの?おかしいなぁ、絶対びっくりすると思ったのに」
「驚いてますよ。驚いた上でどっちから告白したのか聞いてるんです」
そう言うと結衣さんはまた笑った。なぜ?
「大人だなぁ鈴華ちゃん。告白は先生からだね」
「へぇ、教え子に手を出すとか工藤先生もなかなかやり手なんですね」
「たしかにねぇ。隠してるつもりはなかったんだけど、今は鈴華ちゃんの担任じゃん?だからあんまり言わない方がいいのかなぁって」
結衣さんは溜まっていた毒素が完全に抜け切ったかのような笑顔で、手元にあったお茶の入ったコップに手を伸ばした。
「担任だけど、そんなに話したことないから大丈夫ですよ」
「ふふっ、それ工藤先生も言ってたよ。鈴華ちゃんは話しかけにくいんだよなぁ、って」
「へぇ......」
工藤先生からは、名字で『鳥海さん』としか呼ばれたことがない。そこが一番驚きだった。
「結衣さんは工藤先生のどこが好きなんですか?」
「お、気になる?」
社交辞令に鈍いのか、ただ話したいだけか、あるいはどちらもか。結衣さんの目の焦点がすごく広がったので、心の中で社交辞令にお礼を言った。
「実はね、顔は全然タイプじゃないんだよねぇ」
「じゃあ性格ですか?」
「広く言えばそうかなぁ。優しいんだよね、とっても」
「優しくて?」
「明るくて、ポジティブで」
明るいとポジティブは同じ。
「困ったときに相談に乗ってくれたりして」
それは優しいの中に含まれないのか。
「料理もすごく美味しいんだよね」
「料理が上手な人がタイプなんですか?」
「いやそういうわけじゃないんだけどね、料理できる男の人ってカッコよくない?」
つまり、好きでもないデザートを目の前に置かれて、周りが美味しいと言うから食べただけで、好きじゃなかったけど美味しかったよ、と言っている。結衣さんの言葉の支離滅裂さも面白いが、結衣さん自身がそれに気付いていないのも同じくらい面白い。
「え、それもう最高の彼氏じゃないですか」
社交辞令で始めた話題は、社交辞令で終わらせるべきなのだ。
「そう言われるとなんか恥ずかしいよ、やめてよ!」
結衣さんの幸せそうな表情は女の私からみても可愛い。それでいて
「でも、よく言われるんだけどさ」結衣さんが口を開いた。
まだ終わっていなかったか。詰めが甘かった。
「十六も歳が離れてる人とよく付き合えるなって」
「まぁそれは確かに」
「私は全然四十までだったらセーフなんだけど、大学の友達にはすごい心配されるんだよね」
「工藤先生って、今年三十八ですっけ?」
「そうそう、おじさんだよね、ウケる」
ウケるところがなかったので愛想笑いをした。
「でも、結衣さんが別にいいんなら、問題ないんじゃないですか?」
愛想笑いだけだと苦しかったのでフォローを入れた。
「そうだよね、鈴華ちゃんほんと大人びてるよねぇ。私より全然しっかりしてる」
大人びてる、か。
「いやいや、普通の卒業前の女子高生ですよ。子供です」
「あは、なんか子供のフリした大人って、どっかの名探偵みたい」
「あんなに賢くないですし、変な薬も飲んでませんよ。というか、その名探偵もそもそも高校生です」
「あ、そうじゃん!高校生じゃん!」
そう言って笑った結衣さんは、見ているとなぜか落ち着く。喜怒哀楽の感情とそれらの表現がとにかく素直で、暗く細くどこまでも続いていそうな螺旋階段状の、退屈すぎる私の日常を鮮やかに彩ってくれる。
素直な人だよなぁ、と二年前に会った時から変わらず、いつも思う。
よくこんなに素直でいられるもんだ、とも思う。
「工藤先生は、結衣さんの両親のことも知ってるんですか?」
つい、聞いてしまった。
結衣さんの顔が、少しだけ明るさを消した。
「んー、簡単にだけど言ったかな。小さい頃にママもパパも死んじゃったんだよね、って感じで明るくね。工藤先生も言いたくないことは言わなくていい主義らしくて、あんまり聞いてこないからそれ以上は何も」
「なんかそれ、いいですね。『大事なことは陽気に伝えるべきなんだよ』ってたしか、
「え、誰?」
「えっと、仙台の面白いおじさんです」
これは割と当たってるんじゃないか、と自分ながらに言って思った。
「変なおじさんってなによ」
結衣さんも笑ってくれた。またその表情に明るさが灯った。
「じゃあ言いたいこと言えたし、そろそろ帰ろっかなぁ」
結衣さんが立ち上がりながら言った。
「もう来週が最後ですか、早いですね」
三月の頭、もうテストも受験もないというのに、結衣さんは私の親になにかと理由をつけて勉強を教えに、いや、世間話をしにわざわざ来てくれていた。退屈な日常を忘れられる時間、週に二日だけでも、それを作ってくれただけで感謝してもしきれない。
「ほんとだねぇ、もう四月からは社会人と大学生かぁ。なんか楽しみだね!」
「ですね、岡山帰ってきたら連絡しますね」
もう卒業式を終えたら上京してこの退屈な街とおさらばする予定だった。
「ちゃんと帰ってきてよ?あ、私も東京遊びに行くからよろしくね」
「はい。でも工藤先生と来るなら邪魔なので会いませんけどね」
「え、いいじゃん別に!」
「いや、それはほんと遠慮します、お願いします」
丁寧に頭を下げながら言った。きっぱりと言っておかなければこの人は本当に彼氏と二人で訪ねてきそうな雰囲気があった。
「もう、面白そうだと思ってたのに。あ、そうだ、卒業前に変なこと工藤先生に言っちゃダメだからね」
「もともと工藤先生とは喋らないから大丈夫ですって」
「なんかそれはもう少し仲良くなってほしいんだけどなぁ」
結衣さんが彼氏と私に仲良くなってほしい理由がよく分からなかったが、恋愛中の人からしてみたら総じてそういうものなんだろう。自分でおもちゃを掴んだり、立ち上がったりする度に誰かに見てもらいたいと願う赤ん坊のようだ、と思った。
「じゃ、また来週ね」
玄関先でドアが閉じて見えなくなるまで、結衣さんは笑顔だった。
そんなにも外側に笑顔を振りまいて、内側は一体どんな構造をしているのだろう、もしかすると承認欲求で溢れかえったジャングルか、あるいはピーマンのようなすっからかんか。いや、もしくは...。
『他の誰かに なんてなれやしないよ そんなのわかってるんだ』
電話が鳴った。
あぁ、他人の内側なんて詮索するもんじゃないな、と思った。
さて、日常に戻るか。
「はいもしもし。あ、カマキリか。もう夜になったけど、どうするか決まった?」
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