嘘の国
蜂鳥りり
序章:aria
蜜蜂の証明
−−今しかない。
少女は、母親の目を盗んで食料品売り場を駆け抜けた。
大きなエントランスホールを突っ切ると、エスカレーターを転びそうになりながらも小さな足でしっかりと体を支え、駆け上がった。
息を切らしながら三階まで駆け登ると、そのまま記憶を頼りに右に曲がる。
そして全力でまた走る。
突き当たりにゲームセンターが見えてきた。
走りながら左手をポケットに入れ、一枚のメダルが確かにあることを確認する。
と、ちょうどその時、横から現れた男に声をかけられた。
「ちょっとお嬢ちゃん、止まりな」
少女は自分に向けられた声だと気づき、走るのを止めて面倒くさそうに振り向いた。
「なに?」
目の前まで近づいてきた男は少しばかり慌てている様子だった。
「ゲームセンターに行くのかい?」
「そうだけど」
「行かない方がいい」
「なんで?」
男は少し戸惑ったように答えた。
「ゲームセンターに怖い虫が出たみたいだ。一度ママかパパのところに戻りな」
「虫、怖くないよ」
「蜂もいるぞ?」
「怖くないって」
「嘘だろう」
「嘘じゃない」
そう答えて少女は再びゲームセンターに向かおうとした。
「待て待て」
男は今度こそ本当に困り果てたのか、少女の腕をがっしりと掴んだ。
「おじさん、なんなの?通報するよ?」
「これをあげるから、ママのところへ帰るんだ」
そう言うと男は自分の首の後ろに手を回し、身につけていたネックレスを外して少女の手に握らせた。
「なにこれ?」
「世界に一つしかないネックレスだ」
少女は渡されたものを不思議そうにまじまじと観察している。
「ウソ」
「ほんとさ」
「なんで止めるの?」
「それは、大人の事情だな」
少女は男を怪しみながらも、その言葉を聞いて諦めた。
「あのさ、おじさんさ、これから悪いことするでしょ」
「お嬢ちゃんにはしない」
男が言うと、少女は眉を細めた。
「大人の事情って言葉ね、コソコソする時のママがよく使う」
それを聞くと男は笑って答えた。
「なるほど。お嬢ちゃん、面白いな」
「面白くない。これ返す、いらない」
少女がネックレスを男に渡そうと右腕を伸ばすと、その腕をぐっと掴まれた。
「お嬢ちゃん、今から言うことをよく覚えとけ」
「イヤだ、離して。ほんとに通報するよ?」
「よく聞け、これも大人の事情だ」
男はそう言って少女の目線に合わせて腰を下ろし、小さな右肩にポンと手を置いて顔を近づけた。
「やめて!」
「いいか、これはすごく大事な話だ」
男は少女と目を合わせ、落ち着いて話す。
「大人は嘘つきなんだ。お嬢ちゃんの親も学校の先生も、みんな子供に嘘をついている」
青年は真剣な顔つきで言った。
「......どういう意味?」
少女は不審な顔で尋ねる。
「確かめる方法は簡単だ。三つ質問すれば分かる」
「......?」
「まずこう聞くんだ。『今、幸せ?』」
男は不敵に笑いながら続けた。
「そして次にこう聞くんだ。『小さい頃の夢は?』ってな」
「三つ目は?」
「最後は、『本当に幸せ?』」
「......それだけ?」
「これだけさ。いろんなヤツに聞いてみるといい、面白いぞ」
そう言って男は立ち上がった。
「よくわかんないけど、嘘つきかどうかは、どう見分けるの?」
「それはやってみたらすぐ分かる」
「教えてよ。気になるじゃん」
少女の予想外の食いつきぶりを見て男は笑った。
「そうか気になるか」
「うん」
「嘘つきは、よく喋るんだ」
「ベラベラと?」
「そうだ、ベラベラ聞いてもないことをよく喋る」
そう言って男は少女に微笑んだ。
「ふーん、今度聞いてみるね」
「ああ。それともう一つ、『今度とお化けは二度と出ない』」
少女は呆気に取られる。
「なにそれ」
「やるならすぐやれ、ってことさ」
男がそう言うと、少女は微笑みながら聞いた。
「じゃあ、おじさんは今幸せ?」
「ああ」
「小さい頃の夢は?」
「警察官」
「本当に幸せ?」
「幸せだよ」
「え、全然喋らないじゃん」
「嘘つきじゃないからな」
「そうなの?ベラベラ喋るから嘘つきだと思ってたけど」
「嘘が苦手なんだよ、俺は」
男のその言葉に、少女はまた微笑んだ。
「でもこのネックレス、世界に一つしかないっていうの、嘘だよね」
少女は笑顔で言うと、ネックレスを握ったままの手をポケットにしまった。
「そういう嘘は、得意なんだ。勘弁してくれ」
男も笑って答えた。
「まぁいいや。なんか面白そうだからママにも聞いてくる。ゲームセンターはまた今度......、いや、また、いつかにする。じゃあね、おじさん」
そう言って少女は男に背を向けて歩いていった。
「助かるよ。じゃあな。エスカレーターは走るなよ」
少女は振り返らないまま手を振って答えた。
「......おい、いるんだろ」
男は少女の背中を見つめながら問う。
「そりゃいますよ。面白い話してましたね、ミツバチさん」
男よりは少し若そうな、黒い伸ばした前髪に目を覆われた青年が後ろから現れた。
「その呼び方は好きじゃない」
「知ってて言ってます。でも、なんで助けたんですか?」
「なんとなくだ」
「それも『生きた証』ですか」
「よく喋るな、コオロギ。緊張してんのか?」
「コオロギですからね」
青年はそう答えると、ゲームセンターの方向に目を向けた。
「さてと、そろそろ、時間ですね」
「コオロギ、心残りはないか?」
「そうですねぇ、こんな休日の真昼間ってのが少し気にくわないですね。コオロギは夜行性ですし」
「そういうのは俺じゃなくてバッタに言っておけよ」
「ですよね、心残りはそれくらいです」
青年の言葉を聞いて、男は大きく深呼吸した。
「じゃ、行くか」
「まったく、待ちくたびれましたよ」
青年はそう言って胸元のネックレスを握りしめた。
男はそれを見て、偶然出会ってネックレスを渡した少女はこの後、親とどんな会話をするのだろうか、と、ふと思った。
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