第29話
奈美子の言った事に少しは動じた一哉ではあったが、取り合えず薬は辞めてくれたので、後はそれからの話と割り切り仕事に精を出す事が出来た。
月日の経つのは早いもので、この前始まったばかりと思っていたドラマ撮影ももはや終盤になり、クランクアップを迎える。その出来栄えは自他共に認めるような自信作でみんなは大喜びで打ち上げに興じる。その席で一哉は何時も以上に酒を飲み大いにはしゃぐのであった。
だがその姿は決して有頂天になっているからではなく、寧ろ先々の不安を取り除きたいといった気持ちから来るものであった。
また一哉が好きな秋になる。人々はここぞと言わんばかりにスポーツや旅行、読書やそれぞれの趣味に打ち興じる。この秋という季節には何をやっても様になる、人を自由闊達に動かせる力があった。
そこそこ稼ぎも良くなって来た一哉は前回の撮影でその優雅さに魅了されていた念願の船を購入した。如何にも衝動的な買い物であった。しかし金額的には大した事もないボートであったので母も反対まではしなかった。一哉は早速船舶の免許を取得する。このボートを操縦するのに必要な小型船舶の免許などは誰でも取れる資格であった。
それからの一哉は毎週のようにボートに乗り沖へ出る。そして魚釣りをするもよし、ただボケーっと黄昏れているもよしと、海はその勇ましさ、雄大さ、寛大さを教えてくれるのであった。
この事は神経質な一哉にとっては大正解だったのかもしれない。それからの一哉は己が気質に翻弄されるまでもなく正に自由闊達に生活する事が出来たのだ。そう思うとこの前奈美子に言われた事などは取るに足りない杞憂でしかない。一哉は友人や家族を誘い海へ出る事が多くなっていた。
その後もとんとん拍子で仕事は忙しくなり一哉が張る主演ドラマは既に3本目になっていた。勿論そこでも思うような演技が出来、視聴率もそこそこで一哉は名実ともに売れっ子俳優に成長していたのだった。
そんな或る日、母が苦言を呈する。
「一哉、いらぬお世話かもしれないけど、油断は禁物よ」
と。今更言うまでもないであろうこんな事を敢えて母から訊かされた一哉は少し考えた。
「それは分かってる、でも今のところ差し当たって不安もないし、当分は大丈夫だろ」
と母と自分自身に言い聞かせるように言葉を掛けた。
部屋に戻った一哉は奈美子に電話をし、会いに行く。車を走らせる道中、一哉が感じたものはこの秋の長雨だった。この雨は何時になれば止むのだろう、まるで梅雨みたいだ。そう思った一哉は少しスピードを上げて走る。車は雨を斬るようにして奈美子の元へ向かう。車を降りた一哉は何時もの倍以上走っていたような錯覚がしていた。
奈美子はドアを開けて待っていてくれた。部屋の中は相変わらずの殺風景であったが、それが好きだったのは一哉とて同じ事で全く苦にもならない。だがその中にただ一つ変わったものが見受けられる。それは奈美子が余り読まないであろう一冊の小説であったのだった。
一哉はまず奈美子の頬に軽く口づけし、その小説を手に取り徐に読み出した。すると奈美子はいきなりラストを教えてくるのであった。
「おいおい、まだ読み出したばかりなのにそれはないよ~」
「だいたい分かるでしょ、バッドエンドな事ぐらい」
「そんな事読んでみなきゃ分かんねーよ、俺は予言者じゃないんだから」
「そうかしら、私の診る所貴方には予言者のような聡明さを感じるわ」
「そんな訳ないだろ」
「でも少なくとも私よりは賢いわ」
そう言っている奈美子の表情は決して明るくはなかった。それを訝った一哉はストレートに訊く。
「まだ俺の将来を心配してくれてるのか? それは俺だって考えてるから安心しなよ」
「その事はもういいの」
「じゃあ何だよ?」
「何かしらね~、何か理屈抜きに嫌な予感がするのよね~」
こんな暗い事ばかり訊くのは耐えがたい、そう思った一哉は帰ろうとした。
「ちょっと待ってよ!」
「もうそんな話は訊きたくないって」
「今日は抱いて行かないの?」
「ああ」
奈美子は追いかけもしない。一哉も振りむかない。せっかく雨の中急いで来た一哉は自分の行動を後悔しながら帰途に着く。だがどうしても分からないのは奈美子といい母といい、同じよいに自分の将来を気遣い過ぎす点であった。その気遣いには一哉の繊細さを上回るものを感じる。となればそれは正に未来を予言するものであるのか? 自分に先見の明が無いだけなのか? 刻々と過ぎる時間の中でも未だに雨は止まず、この答の出ぬ問いに翻弄され続ける一哉であった。
翌日オフだった一哉は弟の昌哉を誘い朝からボートを出し魚釣りに出掛けた。晴天の秋の空には雲一つなく、鴎が優雅に飛び回る姿は今から釣りをしようとする二人の気持ちを躍らせる。
或る程度沖に進んだ所で碇を下ろし釣りをし始める。鯵や鯖などの青物と言われる魚は次々に竿に掛かるが、そんな小さな魚には目もくれず針を外して海へ還す。だがその後もこれといった大物は釣れずに二人は大した釣果もないまま夕暮れ時の海面を見つめながら黄昏れていた。
昌哉は兄に対し気を好遣うあまり言葉を発しない。そこで一哉はこんな事を言い出した。
「おい昌哉、お前以前言ってた彼女とはその後どうなんだ?」
「ああ、あの子とはとっくに別れたよ」
「早いな」
「気が合わなかったんだよ」
「それだけか?」
「それだけだよ」
その物言いは如何にも昌哉らしかった。そこで一哉は言葉を続ける。
「で、これからそうすんだよ?」
「分かんないな」
「お前が羨ましいよ」
「じゃあ俺みたいになったらいいんだよ」
「そう簡単に行くかよ」
「兄貴、また何か悩んでるんだな」
「ああ、実はこれからの事なんだけどな」
「これだけ売れて来たのにまだ不満なのかよ?」
「いや、そうじゃない」
「なるほどね、兄貴らしいよ」
二人共多くは語らなかったが、一哉は昌哉のこの楽観的な様子にまた救われたような気がした。結局は成るようにしか成らない。確かにこういう考え方にも一理はある。だが人間とはそんな器用な生き物でもなく、一哉は一応は弟の意見も参考にしつつも、あくまでも自らの人生を歩む覚悟をしていたのだった。
眠りの浅い一哉はこの晩またしても夢を観る。
その内容は実に冷酷で、まるで現実の厳しさを教えるかのような惨憺たるものであった。売れっ子俳優であった一哉は突如干され仕事は激減し、食って行く事すら困難な状況に陥る。今の一哉にとってこれほどの悪夢があろうか? 今までの事は全て幻影だったのか? 現実と夢とが相反しているではないか?
汗をかきながら起きた一哉は時計を見て驚愕する。まだ明け方だったのだ。これは正夢になってしまうのか? いや、そんな筈はない。居てもたってもいられない一哉はオフであったのも関わらず車を飛ばして事務所に赴く。
まだ早い時刻には誰もいない。一哉は一人ロビーの椅子に腰かけ誰かが来るのを待っていた。だが一向に誰も来ないその様子を感じた一哉はソファーで二度寝する事にした。
うとうとしていると誰かが階段を上って来る音が聞こえる。その音は何か早く慌てているような漂いで、一哉は思わず耳を塞いだ。
入って来たのは自身のマネージャーでもある事務員であった。彼は一哉の顔を見るなり愕いた様子を隠せない
「あ、来ていらしたのですか!?」
と声を上げる。
挨拶を済ませた一哉が徐に訊いた事は当然彼が愕いている理由であった。
彼は社長が来るまでは何も言えないと頑なに口を噤んでいた。
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