第22話

 奈美子。一哉はこの風俗嬢の名前が忘れられなかった。

 その具体的な理由は自分でも分からない。だが沙也加、沙希と今まで付き合って来た二人と比べ初めて自分の方から好きになったような気もする。一哉はまた新たなる恋物語を演じる事になるのであろうか。心境の変化があった事だけは自明の事実であった。


 暑かった夏も終わり、秋、冬と季節を巡る旅に一哉の演技力も増して行く。今や劇団のホープとも称賛されるようになった一哉は舞台で主役を張る事も屡々あった。

 劇団に入って僅か1年の新入りが異例の早さで主役を張る事は珍しい。その事は本人は言うに及ばず母も弟も喜んでくれる。しかし脇役を演じたかった一哉には何か蟠りが残る。そんな一哉の様子を見ていた座長はこう言う。

「お前、最近何か晴れない顔してるな、何かあったのか?」

「いや、実は座長、自分には脇役が似合っていると思うんです」

 それを訊いた座長は少し笑みを泛べた後、真剣な面持ちになり話続ける。

「お前、なに贅沢言ってんだよ、いいか、主役なんて誰でも張れるもんじゃない、したくても出来ない奴は5万といるんだ、それにそれを決めるのはあくまでも他人でありお客様なんだよ、自分で自分の貫目なんて推し量る事は出来ないんだよ」

「・・・・・・」

 一哉には返す言葉が無かった。確かに座長の言う事には一理ある。このまま主役を張って頑張っていたらその内テレビや映画にも出られる可能性もあるかもしれない。でも俺はそんな華やかな人生は望んでいない。だがこのまま何時までも葛藤し続けていたら芝居にも影響が出るであろう。そう思った一哉は久しぶりに沙希に会う決心をした。


 霜が降り始めた師走、街路を歩く人々はジャンパーやコート、厚手のブーツに毛糸の帽子などを被りその身を固めている。一哉は秋は好きだったが冬は嫌いであった。その理由は至って単純で何も寒いのが嫌な訳でもなく、衣服を着こむ事自体が嫌いだったのだ。冬の服装は一哉にとっては重装備とも言えるほど鬱陶しく感じられる。それはとりもなおさず着ている服が皺だらけになってしまうのだ。神経質な一哉にとってはこの当たり前の事が実に目障りであった。

 身体の寒さよりも心が寒くなっていた。沙希はどうだろう、多忙にかまけて1年近くも会ってない沙希の心ももはや冷え切っているのではないか? マメに連絡を入れなかった一哉は今更ながら悔恨の念に駆られるのであった。

 何時もの公園で会った二人は何時ものように一哉の家に行く。その姿は傍から見れば恋人同士に見えるであろう。しかしこの時の二人はあまり言葉も交わさないまま歩くだけだった。


 家に入った二人はすぐさま一哉の部屋に入る。換気の為窓を開けっぱなしにしていたその部屋は実に寒い。窓から入って来る冬の冷たい風は今から始まる二人に何を告げるのであろう。一哉はふとそんな思いに駆られ、自分の部屋であるにも関わらず緊張した面持ちで腰を下ろした。その瞬間、沙希は口を開く。

「いい顔つきになったじゃない、もうそこそこの役者になったんでしょうね~」

 その言い振りには嫌味とは言わないまでも何かそっけない情緒が感じられる。

「怒ってるのか?」

「別に」

「やっぱり怒ってるんだな、俺が悪かったよ、もっと早くに会うべきだった」

「・・・・・・」  

 言葉を失くした一哉はそっと沙希の髪に手を触れようとする。すると沙希はその手を掃って一哉の顔をまじまじと見つめる。一哉には戦慄が走った。

「あなた、女と寝たでしょ?」

「え? そんな事ないよ」

「いや、そうだわ」

「寝たといっても風俗の女だよ」

「女には違いないわ」

「すまない」

「寝ただけじゃなくて、あなたその子に恋までしてるでしょ!」

「そんな事ないって!」

「あなたの顔を見れば分かるわよ」

 一哉はそれ以上何も言い返せなかった。沙希は何も言わずに帰る。

 結局一哉は自分が悩んでいた事など一つも打ち明けられないまま沙希と別れたのだった。それは永遠の別れなのかまでは分からない。一哉はただ己の恥を晒しただけだった。

 いくら神経質であろうと女心だけは未だに分からず暗鬱とした思いだけが残る。繊細という性格も所詮は単なる自己満足に過ぎないのか? 人を思いやる真の優しさには遙かに及ばないのか? 悩む事が決して嫌いではなかった一哉もこの時だけは自分自身に嫌気が差していたのだった。


 年が明け 寒かった冬も終わりを告げる頃、一哉に大きなチャンスが到来した。

 一哉の活躍を聞きつけたプロデューサーからテレビドラマ出演のオファーが掛かったのだ。座長は大喜びしながらこの事を一哉に告げる。他の劇団員も一哉を羨む。こうなればやるしかない。もはや逡巡している場合ではない。そう思うと気も逸る。一哉は意気揚々とその撮影に乗り出したのだった。

 それは2時間ドラマの脇役だったのだが勿論一哉の出番は少ない。言うなればエキストラ以上、脇役未満みたいな感じだった。だがそれでも一向に構わない、ただ全力で演技をするだけだ。一哉は今までやって来た稽古の成果を十二分に発揮しようと躍起になっていた。

 撮影には名だたる俳優もいる。その容姿の美しさ、その表情の豊かさ、その貫禄の凄さ、オーラ、そして大勢のスタッフ、スポンサーに関係者。その全てが初めての経験であった一哉は気後れしていた。無理もない、これだけ神経質な男がこの状況で冷静でいられる筈はないのだ。だがこれは一哉にとっても正念場でこれからの俳優人生においても願っても無いチャンスでもあった。

 一哉は緊張しながらも主役以外との絡みを難なく熟した。休憩中一人の俳優が一哉に話しかける。

「君、初めてなんだって? その割には結構いい芝居してたな」

「有り難う御座います!」

 褒めてくれたその俳優もテレビで何度か見た事のある人で、こんな人と実際に話をした事自体に感動を覚えた一哉はつい嬉しくなり普段よりも大きな声で受け応えするのであった。

 ドラマのジャンルはミステリーもので一哉は事件に少しだけ関わりのある目撃者という役で主役の刑事から一度だけ尋問を受けるシーンがあった。

 台詞はたった一言

「はい、その通りです」

 これだけだった。

 一哉はこの一言を如何に巧く表現するかだけを考えていた。だがあまり力み過ぎてもおかしい。こんなシーンにみんなもそれほど関心はないだろう。そう思うと肩の力は抜け思い通りの演技が出来た。だがそこで監督が

「ちょっと待って!」

 と声を上げた。

「君ね~、いくらそれだけの演技とはいえもうちょっと巧く表現出来ないかな~」

 その言い方には一哉が臆するほどの恐さは無かったまでも、少し失望されたような感じにも見受けられる。一哉は次の演技に懸けた。    

 それは如何にも疑われているようなぎこちない演技だった。そして問題は表情だ。一哉は沙希の事を思い出し、今二人が置かれている状況をそのまま演技に出した。

 すると監督が

「はいカット!」

 と勇ましい声を上げる。その後休憩に戻った一哉にさっきの俳優がまた声を掛けてくれる。その人は拍手で迎えてくれた。

「良かったよ、流石だな」

「有り難う御座います」

 こうして一哉は初めてのテレビドラマの撮影に成功したのだった。


 家までの帰途、美しく咲き誇る夜桜は一哉とその嬉しさを共有するべく語り掛けて来る。この調子だ、いらぬ邪心など持つな、このまま突き進めばいいだけだと。

 そのある筈もない天の声を聴いた一哉の心は晴れ晴れとし充実感で一杯だった。今の一哉には何も怖いものなどない、ただ己の信ずる道を行けば良いだけだった。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る