第10話
4月下旬、葉桜となって少し緑色を帯びたその花びらは風に揺らめきながら地面に舞い降りる。その一片が頬に触れた時、一哉はこう思うのであった。
何時か沙也加と公園で話をしていた時も桜の花びらが沙也加の頭に落ち、それを美しく思っていた事をつい最近の出来事のように感じる。もう沙也加の事は忘れた筈だったが未だにそんな事を懐かしむ一哉の精神は相変わらず繊細過ぎて、自分の身に起きた事象を流すような器用な技術は持ち合わせていなかったのである。
しかしこのまま思い悩んでいても仕方がない。取り合えず学校に行き勉学に勤しみ部活動に精を出す。そしてアルバイトも頑張ると。ただそれだけをしていたら良いだけなのだ。深く考えた所で良い結果が出る訳でもない。そう思った一哉は案ずるより産むが易し、水泳部のマネージャーの女の子と仲良くなる事を優先的に考えるように自分自身に言い聞かせる。そしてこれは沙也加との闘いでもあるような気さえしていたのだった。
その日の昼休み廊下を歩いていたら早速マネージャーの女の子と擦れ違う、一哉は今はまだ会いたくなかったんだと思い何も言わずにいたが一応目だけは合わせてその場を立ち去る。だが1学年だけで10クラスもあるこの学校で何故いきなりあの子と擦れ違ったのか少し不思議な感じもしていた。すると一緒に歩いていた同級生がこう言う。
「あの子お前の方見てたぞ、気でもあるんじゃないのか?」
「まさか、気のせいだよ」
何も気にせずそのまま歩いて図書室へ向かう。部屋のドアを開け本棚へ近づき読む本を探しているとまたその子が現れた。
「今日も良い天気だね」
何も話す事がなかった一哉にはこんな事しか言えなかった。
「そうね、今日もいい練習が出来そうね」
相変わらず根明なこの子は軽く笑みを泛べながらそう言ってくれる。一哉も取り合えずは安心し机に坐り本を読み出した。何も考えずに手に取ったその本の内容は恋愛物語で、実に晴れやかな男女の恋路が描かれている。何故こんな本を選んでしまったのか、それは本人にも分からない。だが恋がしたいと思っていた一哉には少なくとも教科書的なものであり、この本は完読する気になっていたのだった。
放課後水泳部の練習に入る。この時期はまだ水温が低く屋外のプールで泳ぐ事は難しい。みんなは筋力トレーニングやストレッチ、走り込み等をして汗をかく。そして高校生ともなればもはや中学の時のような先輩からの陰湿な虐めもない。その姿は傍から見ても青春真っ盛りで、一哉は意気揚々と練習に打ち込んでいた。
一通りの練習メニューを終えた後マネージャーの女の子がこう言った。
「一哉君、運動神経いいのね、羨ましいわ」
「何で俺の名前知ってるの?」
「私はマネージャーなんだから知ってるの当たり前じゃん」
「そうか・・・」
確かに名前は知っていても不思議ではないが何故下の名前まで知っているのか、そして何故その名前で呼んでくれたのか、一哉は嬉しい反面何か腑に落ちないものもある。
「何で下の名前まで知ってたの?」
「何? 嫌なの?」
「そんなに怒る事ないじゃん、ただちょっと不思議な感じがしただけだよ」
「私は格式ばった事が嫌いで仲良くなりたかっただけよ」
「なるほどね」
そう言って軽く笑うとその子も笑顔になって
「私、沙希、宜しくね」
と今更ながら自己紹介をして来たのだった。
しかしその名を訊いた一哉はふと愕く事があった。沙希、それは沙也加と同じ『さ』で始まる名前で同じ字でもある。これは神の悪戯か運命の皮肉か、神経質な一哉はこんな事ぐらいで一々葛藤していたのだが沙希の朗らかな表情はその陰鬱な思いをも明るくさせてくれる。改めて一哉は沙希の事が好きになったのだった。
その日家に帰った一哉は晩御飯の時に母にこう言われる。
「一哉、あなた今日はいい顔してるわね、学校で何かあったの?」
「別に、ただ頑張ってるだけさ」
「ふ~ん」
その母の表情には息子の事は何もかも見透かしたような魔法のような力を感じる。これは母だからこそ分かる事なのか。早くに父と死別した一哉には男親の考え方は分からない。だが少なくともこの母の鋭い洞察力には抗う術もない。食べ終わった一哉は恥ずかしくなり急いで部屋に戻る。そしてまたキーホルダーを手にするのであった。
夏になり天を仰ぐ向日葵の花が人々の心を勇み立たせる頃、水泳部の活動も活発化し始めみんなは真剣に練習に打ち込む。この日5kmも泳ぎ切った一哉は疲れ果てプールサイドで腰を下ろしていた。すると誰かの指先が一哉の背中に触れるのを感じる。振り向くとそれは沙希であった。
「綺麗に日焼けしてるわね、お見事よ」
「中学生時代からの日焼けがまだ残っていたんだな」
「そうなの」
と言って沙希はみんなの目も気にする事なく話し続ける。
「今日は一緒に帰らない?」
「え?」
「ちょっと遊びたい気持ちなの、付き合ってくれない?」
「あ、いいよ」
部活動を終えた二人は一緒に帰り出したのだが何処に行けば良いのかさっぱり分からない一哉は
「何処行く?」
と訊くと
「何処でもいいのよ」
と何時になく淋し気な表情を泛べながら答える沙希。
あてもなくただ歩いていたら遠くに神社が見えて来る。取り合えずその神社に腰を下ろし休憩する。夏の強い西日は二人の顔を赤く照らし、まだ高校生である二人を少し大人びた哀愁のある雰囲気へと導く。
「今日も良い天気だったわね」
「そうだね」
「本当なら私も一緒に練習したかったんだけど」
「したらいいじゃん」
「それが出来ないのよ」
「別にマネージャーだからってそこまで気遣う事もないだろ」
「そうじゃないの」
「え?」
「私、小学生の頃に交通事故で足を怪我したの」
「そうだったのか、悪い事を訊いてしまったな」
「別にいいの、医者の先生は頑張ったら水泳でも何でも出来るって言ってくれてる、でも怖いのよ」
「・・・」
「無理して嫌な思いをするよりも、このままマネージャーという立場でみんなの力になれたらそれでいいのよ」
暫く考えていた一哉は神妙な面持ちでこう言った。
「でも本当はみんなと一緒に泳ぎたいんだろ? 走りたいんだろ?」
「・・・」
「だったら頑張れよ、勿論俺も力になるよ」
「ありがとう」
沙希の少し潤んだ目元を見た一哉はその滴り落ちる一滴の涙を優しく指先で拭いその顎に手を触れる。すると沙希は目を瞑り二人は口づけを交わす。
顔を離した沙希は軽く笑っていたがその笑顔は何時も観ていた快活な笑顔ではなく、少し憂いのある色っぽく妖艶なその顔つきで、一哉はそんな沙希に沙也加には余り感なかった優しさと色気を感じる。その後二人は
「じゃあまた明日ね」
という言葉だけを交わし別れるのであった。
天を仰ぐ向日葵の堂々とした出で立ちは夕暮れ時になった今でもその姿勢を崩す事はなく、一哉を一層勇気だたせるのであった。
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