第7話
それからというもの二人は全く会わない日々が続いていた。連絡もない。無理に会おうとしても会ってくれない、或いは会った所で何か悲しい事を言われる感じがしていたのだ。一哉はそんな憂さを晴らすべく水泳に打ち込む。その上達振りは素晴らしく2年生になった今ではレギュラーメンバーになり試合の成績も常に上位であった。そんな一哉は当然学校内でも英雄視されるようになる。みんなは一哉の事を大いに持て囃していた。
しかし神経質な一哉は両手を挙げて喜ぶ事も出来ず、何時ものように常に何かを心配している。その一つは沙也加の事で、もう一つはまだ2年生の自分が余り調子に乗っていたらバスケットボール部の時と同様先輩からどう思われているか分からない。今の所そういった怪しい影は何処にも感じられなかったが用心に越した事はない。一哉はこういう時こそ慎重に振る舞わなければならないと自分自身を律していた。
夏の猛暑の雲一つない晴天の中、相変わらず蝉の鳴き声は勇ましく聞こえ若い生徒には勇気を与えてくれる。だが一哉はこの地元の傾斜の凄い坂道を歩きながらふと蝉の鳴き声が鬱陶しくなる瞬間があった。中学校までの道のりのちょうど真ん中ぐらいに位置する小学校前にある公園で一休みしていた一哉は汗を拭いながら蝉が停まっているであろうプラタナスの樹を見上げる。新緑の花びらを咲かせるその樹を眺めていると目や心が癒やされるようにも思われるが蝉の声がそれを少し遮る。無性に悪戯心が働いた一哉はその樹を足で蹴ってまた見上げると上から蝉の小便をまともに顔に食らってしまった。一哉はバチが当たったと思いプラタナスの樹に謝って歩き始めた。若い盛りは何を考え何をするか分からないなと自分自身の事を省みていたのだった。
学校では授業を終え、何時ものように水泳の練習に精を出す。ここまでは良かったのだがその後一哉が心配していた事が現実のものに成ろうとは思ってもいなかった。
部室を後にした一哉の前にその影は立ちはだかった。見覚えのある顔だ、バスケ部時代の先輩達三人が目の前にいる。何の用があるんだ? 一哉は軽く一礼をして帰ろうとすると彼等はそれを引き留めガラの悪い口調でこう言うのだった。
「お前最近また調子乗ってんだってな」
「いや、別にそんな事ありませんけど?」
「心当たりあるだろコラ!」
「・・・」
「お前、先輩を差し置いて活躍し過ぎなんだよ、そんな事も分からねぇのかコラ?」
「自分はただ一生懸命頑張ってるだけですけど」
「それが生意気だって言ってんだよ!」
一哉はまた殴られたが今度は一切やり返さない。何故やり返さないのかは自分でも分からない。ただ自分は何も悪い事などしていないという矜持は保っていた。
無論一哉はその事を親にも先生にも同級生にも言わず自分の中だけに蔵っておいたのだが、その腫れ上がった顔を隠す事は出来ず結局は先生に見つかり事の詳細を訊かれる。それでも一哉は何も言わずにその場をやり過ごした。
家に帰った一哉は晩御飯を食べた後直ぐに部屋に入りキーホルダーを握りしめていた。
俺はこれさえあればいいんだ、こんな事誰に言った所で解決する筈もない。一哉はまだ早かったがそのまま眠りに就こうとしていた。しかしそんな時に限って沙也加から電話が掛かって来た。何故こんな時にと一哉は電話に出る事も憚られたが沙也加と話するのも久しぶりだったので躊躇いながらも電話に出る。どうしても会いたいという事であった。
二人は例の公園で待ち合わせをした。夏の夜風は実に涼しく辺りに響き渡る松虫の鳴き声は人の心を癒やす。一哉は昼間の蝉の煩い声とは真逆なこの雰囲気に行った事もない砂漠の風景を思い浮かべる。すると沙也加は何時ものように朗らかな顔つきで姿を現した。
「またえらくやられたもんね」
「あまり愕いかないんだな」
「英明君から訊いたのよ」
「そうだったのか、あのお喋りが」
「彼を責めないで」
「分かってるよ」
「で、どうするの?」
「どうって、何もしないよ」
「随分大人になったのね」
「そんなんでもないけどさ」
「でも心配はいらないわよ」
「え?」
「もう話は着いた筈だから」
「何かしたのか?」
「兄貴に頼んだのよ」
「余計な事するなよ」
「やっぱり喜んでくれないのね、一哉君らしくて安心したわ」
「揶揄ってんのかよ」
「そうじゃないわ、ただ嬉しいだけよ」
「・・・」
相変わらず含みを持たせた沙也加のこの言い方には改めて聡明さを感じるのだが沙也加のした事とはこうだったのである。
沙也加には3つ年上の兄貴がいたのだが風の噂で一哉がやられた事を知ると既に中学を卒業した2つ上の先輩に言い含めもう一つ年下、つまり一哉の一つ上の先輩達にヤキを入れたのだそうだ。当然その先輩達は逆らう事などなく上の者に従う事は言うまでもない。沙也加はこうして間接的に一哉を助けたのだった。
その事を知った一哉は複雑な心境にもなったが素直に沙也加に感謝した。そして明るい表情を浮かべると沙也加はやっとこさ落ち着いた一哉の顔に口づけをする。
「沙也加には大きな借りが出来たな」
「借りだなんて思わないで、ただ私がそうしたかっただけだから」
「ありがとう」
二人は改めて熱い口づけを交わしたがその後また沙也加が意味深な事を口にする。
「一哉君、私をしっかり太い縄で繋ぎ止めていないとダメだからね」
そう言った沙也加は何時ものように小走りで立ち去って行った。
足で踏まれたプラタナスの落ち葉は小刻みに分かれ夏の涼しい夜風に浚われ地面でヒラヒラと舞い踊る。
沙也加の最後の一言は何を意味するのか、神経質な一哉にさえ分からなかったが取り合えず自分が沙也加の事を想い続けていれば愛は叶うものだと確信していた。
一年生の頃に観た夢など取るに足りない、あんな夢が現実のものとなろう筈がない。
ただそう自分に言い聞かせながら家に帰った。
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