第3話
運動会も終わった10月下旬、秋の深まりも頂点を極めようとする頃、街路では風に吹かれた紅葉の花は地面に落ちた後も尚美しく旅情をそそる。一同は待ちに待った修学旅行へ向かう。
駅のホームでみんながざわつきながら汽車の到着を待つ間、一哉は一片の紅葉の花びらを手にとって眺めていた。黄色が混ざった赤色の紅葉は枝から離れてもその綺麗な色彩を失わず生き生きとして亦、哀愁に充ちている。一哉は秋という季節が一番好きであった。
みんなはやっと到着した汽車に大はしゃぎで乗り込んで行く。一哉は願っていた窓際の席に着く事が出来て一安心していた。
旅先は三重県でお伊勢さん巡りがメインであった。地元からは片道約2時間掛かる汽車の旅は小学生にはほとんど初めての経験で車内の光景も車窓から見える風景も全てが真新しく一時たりとも大人しくはしていない。そんな状況であっても一哉は一人静かに外の景色を眺めていた。
一哉の様子を訝った直ぐ隣に坐っていた同級生はトランプをして遊ぼうと言い出した。一哉は余り気が進まなかったが一応は子供らしく一緒に遊ぶ事にした。定番のババ抜きをしていたのだが一哉は意外と巧くて勝ち続ける。みんなは初めのうちに一気に数枚を取ってしまう一哉の勝負根性に臆してしたがそれはトランプが巧いのか下手なのかは分からない。子供心にも一つ言える事は一哉が強い、ただそれだけだった。
その後もポーカーや大富豪等をして遊んでいたがそろそろ飽きてきた一哉はトイレに行く。出発してから約1時間が経った頃には疲れて寝ている児童もちらほらいて、このちょっと静かになった光景を一哉は好んだ。
トイレを出た時、一人の女の子が前に立っていた。それは隣のクラスの沙也加であったのだが彼女は恰も一哉がトイレから出て来るのを知っていたかのような顔つきで全く愕く様子もない。一哉が
「おう、さやちゃん、いい天気で良かったね」
と声を掛ける。
「珍しいじゃない、一哉君もそんな挨拶が出来るのね、少し見直したわ」
「何だよ、揶揄ってんの?」
「そうじゃないわ、褒めてるだけよ、素直に喜んだら?」
「なるほどね」
今日初めて二人が交わした言葉はこれだけだった。
ようやく伊勢に着いた一行は初めて見る景色に感動していた。
そこでも勿論紅葉の花が色鮮やかに咲き乱れていたが地元で見るそれとは何か一味違うものがある。他の子供達はあまり気にしていなかったが一哉にはそれがはっきりと感じられる。だがそれが何かまでは分からない。ただ綺麗なだけなのか、周りの風景の影響があるだけなのか。でもその美しさは明らかに一哉の眠りかけていた心を弾ませた。
一行はそのまま夫婦岩で有名な二見興玉神社に行った。境内で参拝してから海へ出るとそこは都会の海とはまるで違う綺麗で大きな海原が実に勇ましく波打ち、その彼方には今にも夕陽が沈もうとする水平線がはっきりと見える。その光景に感動したみんなは子供ながらにも目を細めて黄昏れたいた。そこから暫く歩くと眼前には二つの岩が堂々としっかりと海面に腰を下ろしている。この見事な夫婦岩を始めて見た一哉はその眼にしっかりと岩の絵を焼き付けた。二つの大きな岩を繋ぐ太い綱には力強い男女の絆が垣間見え思春期の始まりともいえる小学6年生のみんなは男女の異性が織りなす神秘的な力や美しさを感じずにはいられなかった。
その後、宿に着いた一行は各々の部屋に入り荷物を下ろす。一哉は相変わらずの几帳面な性格で大きな鞄には自らが畳んで入れた衣服が蔵ってある。それを見た仲間達は一様に
「ほんとに一哉は綺麗好きなんだな~、それ自分でやったのか?」
などと言う。
それに対して一哉は何も言わずにさっさと身支度を済ませると独り横になった。
「おい一哉、まだ寝るのは早いぞ」
と言われた時、先生から声が掛かりみんなは食事処に促される。夕食には伊勢海老を始め牡蠣や帆立、わらびにゴボウ等山海の幸が色とりどりに並べられその美しさに児童は勿論、先生達までもが目を丸めながら食した。
実に美味しい食事を済ませた一行は部屋に戻り寛いでいた。取り合えず初日のスケジュールはこれで終わるのだが元気の良い子供達がこのまま大人しく眠りに就く訳もなく男子の部屋では修学旅行ではお決まりの枕投げをして遊んでいた。流石の一哉もこの状況では一人でいる事も出来ずに枕投げに付き合い誰彼構わずに枕を投げまくった。無論枕などはいくら顔に当たっても痛くも痒くもない、みんなは大いに楽しんでいた。
やがて祭りは終わり疲れ果てたみんなはやっとこさ床に就く。端の方が好きな一哉はやはり部屋でも一番端の窓側の位置に布団を敷き横になる。晩10時を過ぎた辺りで一哉はトイレ行ったのだが、そこでまた沙也加と会ったのである。
沙也加は汽車の時と同じように一哉が出て来るのを待っていたかのように冷静な顔つきで一哉にこう言った。
「夫婦岩綺麗だったね」
「ああ、めちゃくちゃ感動したよ」
「一哉君も感動する事はあるのね」
「当たり前だろ」
「じゃあ悲しむ事もある?」
「当然だよ」
「・・・」
「何かあったのか?」
「実は私、中学はみんなと同じ公立には行かずに私立に行くのよ」
「なんだって!」
「愕いてくれて嬉しいわ」
「何で今まで黙ってたんだよ?」
「親が決めた事なのよ、私はみんなと同じが良かったんだけど」
「じゃあそうすればいいだろ」
「それがそうも行かないのよ」
「何で?」
「親が言うには私達の校区は結構ガラが悪いからそんな地元の中学には行かせたくないと言うのよ」
「別にそんな大袈裟なもんでもないだろ」
「確かにね、でももう決めた事だからどうしようもないわ」
「・・・」
「一哉君、中学になっても私の事忘れないでね」
「当たり前だろ、何言ってんだよ」
「嬉しい」
沙也加は一哉の頬にそっと口づけをする。すると一哉は沙也加の唇に自分の唇を重ね合わした。沙也加は一瞬愕いて目を開けたがその後直ぐ目を閉じ、二人は初めての経験を果たしたのだった。
その後二人は見つめ合ったまま握手をして別れる。
沙也加の後ろ姿を何時までも眺めていたが一度も振り返る事はなく、その静かな廊下には秋の深まる夜長の憂愁に充ち溢れた風情があった。
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