◆第一条 姉の裁きは、日本国憲法及び法律にのみ拘束される
物語は、世界を変える裁判の、三日前から始まる──
「ツカ姉の法廷は……」
小さく呟く、高校二年生の俺──佐藤アクト(十六歳)は、東京都千代田区霞ヶ関にある、東京地方裁判所、五階の廊下を歩いていた。というのも、
『今日もお姉ちゃんの傍聴にきて~ で一緒にごはんいこ(>_<) お酒飲みたい気分~』
──というメッセージが、裁判官の義理の姉からきていたのだ
お堅い職業のイメージを吹き飛ばすような、くだけて甘ったるい言葉遣い。
ブラコンの姉は、
以前、本人が『裁判官はオンオフが大事。オフでとことん緩めないとバランスとれなくて死んじゃう』と言っていたので、必要なことらしい。
メッセージの末尾には、『4時 505号法廷』と書いてあった。
俺の都合はというと、学校が夏休みに入った頃で、ヒマはある。
一日中、ゲームばかりしていた実家から、
今までに何度も傍聴したことがあるけど、姉の裁判は刺激が強くて、興味深い。姉の仕事は尊敬しているし、その後の外食も楽しみという気持ちだ。
周囲には、同じく裁判の傍聴にきたらしき学生が多い。
俺はなんとなく高校の制服を着て来た。とくに目立っていないと思う。
(ここだな)
メッセージに書かれた法廷の前には、開廷表が貼ってあり、
『16:00 弁論 婚姻不履行損害賠償請求事件 裁判官 我妻ツカサ』
姉の名前を見つけた。姓が違うのは、再婚した互いの親の仕事の都合らしい。
(まだ、四時前だけど、点いてる)
開廷中のランプが光っている。
木製の扉の、のぞき窓から中を見てみると──
「……!」「……!」
──いた。
ありきたりな法廷の、裁判官席には姉がおり。
けばけばしい服を着た派手な三十代の女性と、言い争っている。
定刻の前に開始しているのは、すでに裁判に必要な当事者がそろったからだろう。
扉を開けて中に入ってみると、傍聴席はほぼ満席だった。
傍聴マニアらしき人たちの合間、なんとか空いた席に座る。
「裁判長ぉ! 聴いて! あたし死にたい思いなんですぅ! ブロックされて──」
キリキリとしたヒステリックな声が響いている。
叫ぶようにまくし立てるのは、傍聴席から見て左側、原告席の派手な女性だ。
右側の被告席は無人で、被告本人も、代理人弁護士も来ていない。
「もうじゅうううぶん聴きましたよ! 恋活アプリでの出会いからじっくりとね!」
法壇から、うんざりしたように言うのが、裁判官我妻ツカサだ。
すらりとした170センチの身長に、羽織っているのは、裁判官の黒いローブ。
身体つきは二十八歳の肉感的な身体をしていて、隠しきれない大きな釣り鐘型のお胸が、組まれた腕の上でプリンと前に突き出ている。
小さく上品な頭部は、さらさらロングの黒髪に。
知的な熱さを帯びた赤茶の瞳は、長い睫毛に彩られ。
きっと、黙って佇んでいれば、美術絵画の女神みたいにも見えただろう。
しかし今は眼下の原告に厳しい表情で応じている。
「あと、単独なので裁判長ではありません」
裁判は、一人だけの裁判官でする場合と、三人等の場合がある。
今回は姉だけなので、長とは言わないのだ。
「じゃあ裁判官っ! 彼をここに喚んでください!」
「前回もお話したとおり、本件に被告本人の尋問は不要。もう呼び出しは行わない」
「あたしはぁぁぁ! 彼に会いたいって! こんなに言っていますぅ!」
「言やぁ会えるってんならもう会えてるんでは!? 被告があなたに会いたくないから書面だけで不出頭なんでは!? 原告は叫ばず落ち着きご理解されたぁぁぁい!」
応酬する、姉の口が悪くなっていく。
女神といっても、これでは返り血大好き戦女神だ。
(姉ちゃんも叫んでるじゃん……)
今は心の中でツッコミしつつ、やれ、今日も荒れてるなと思う。
「じゃあ、来ないなら、お金の請求は認められますよねっ!?」
……民事裁判は、刑事裁判とは違って、事件の中身を法廷で朗読したりしない。
だから、傍聴しても、なにを争っているのかはわかりにくい。
それでも、原告が、男に対して、無理筋な請求をふっかけている雰囲気がしていた。
「被告は、そもそもあなたと婚姻してないと答弁書に書いている」
「でも、彼のために、200万円かかったって証拠は出しましたよねっ!?」
ツバを飛ばすように話す、この事件を訴えた、女性……。
傍聴席からよくよく見てみれば、派手な化粧の若作りが目立つ。作り物めいた張りを持った胸を、はだけるような衣服で誇示するように見せている。
(あれは……嘘くさいな)
と感じつつ見ていると。
法壇の上、姉と、眼が合った。
「……200万円かかった、証拠は、確かに見ました。が!」
それは一瞬のことで、裁判官はすぐさま原告に視線を戻して、続ける。
「病院名を隠そうが、これが整形手術代であるのは、明らか!」
(なるほど、やはり作り物か)
『彼のために200万円かかった』とは曖昧な言い方だけれど、もはや嘘だ。暴力を受けての治療費とか、一緒に決めた結婚披露宴のキャンセル費用とかなら、損害賠償請求できることもあるかもしれない。が、
「自分の美容整形代を、昔の男に払わせる法なんぞ、ありはしなぁいっ!」
──ズバッと、斬るような、宣言。
傍聴席の男たちが、姉と嘘つき女を交互に見ては、頷いている。
「でかくて、若いあんたに、あたしのなにがわかるぅっ!?」
200万円かけた派手な女性は、ヒートアップして、止まらない。
「偉そうに、見下しやがって! 裁判なんてクソ、税金のムダでしか、」
──プツン。姉の血管がキレる音が聞こえた。
「文句があんなら──」
裁判官は、立ち上がる。何ものにも染まらないという黒いローブがはだけて、包まれた上半身があらわになる、握った右手拳を、頭上高く掲げ──
「控訴すればよろしいッ!」
ハンマーのように法壇に打ち下ろした。
轟音が響き、巨乳がぶるんと揺れる。
「ヒッ──」
原告の女性は縮み上がった。
傍聴人たちも圧倒される──真空のような、一瞬の静寂。
「弁論終結。判決の言い渡しは夏季休廷明けの……来月の同じ日、午後一時十五分。判決正本は送るので来る必要はありません。書記官」
法壇の下で、気まずそうに縮んでいた裁判所の書記官が、手元のパソコンでスケジュールを確認し、メモをとるような動きの後、短く「はい」と答えた。
この雰囲気、判決なんて見なくてもわかる。請求は全額棄却になるだろう。
裁判官我妻ツカサは立ち姿のまま、傍聴席を
(相変わらず……破天荒で……)
格好いいな、と感じる。
法廷に取り残された原告は、
「ひ、ひいぃぃぃん、ひいぃぃぃん」
とブサイクに泣いた後、
「あいつの好みに合わせておっぱいおっきくしたのに! ちくしょーッ!」
とわめきながら、法廷を出て行った。
◆
「ふあぁぁぁぁぁお
午後五時過ぎ、虎ノ門の安い居酒屋にて。
法服を脱ぎ普段着になった姉が、ビールを豪快に飲み干して言った。
「お姉ちゃん、お仕事終わったあとのお
顔がだらしなく緩み、言葉が幼稚になる。
これが
「でもでもぉ、お仕事終わりに付き合ってくれるあっくんがだぁぁぁいしゅき! てことはいま、ふたちゅのしゅきが重なって、さいこーって気分なのれ、ご褒美にいっぱいちゅっちゅしたげるんー、あっく、んー」
「ツカ姉、口の周りビールの泡だらけ。はい、紙ナプキン」
「ありがと! ふきふき……って、んもう、いつも避けてさ~。お仕置きにお部屋のお掃除しちゃおっかなー、えっちぃ本ぜーんぶ見っけて
「今どき、本じゃないんじゃない? てか、勝手に部屋に入るのやめてね」
「うふふ、ゆうべは添い寝してあげてたの、気ぢゅかなかった?」
「えっ」
「──なーんて、冗談よ。どう、夏休み……宿題とか進んでる?」
デレデレの表情から、瞬間的に、保護者を装う顔つきに変わる。
これも含めて、
人から見たらヘンな間柄に見えてしまうかもしれない。
俺は三歳の時、父の再婚相手の連れ子だった姉と出会った。十二歳離れた義理の姉は、当時十五歳。俺のことがたいそう可愛かったらしく、それからずっとあっくんと呼んでかまってくる。俺が十六歳になり、姉が二十八歳になった今でも、変わらずブラコンだ。俺たちの親は結婚十二周年を機に世界一周ハネムーンに出ており、もう一年ほど
やましいところはないです。義理とはいえ身内だし。ええ。
「詰まってたら、お姉ちゃんが教えてあげよっか!」
優しげな、赤茶色の瞳でのぞき込んでくる。法廷とはまったく違うふにゃけた表情だ。姉は、
「詰まるわけない。宿題なんて、ゲームしながら解いてた」
「さすが! あっくんはお姉ちゃんと違って、同時にいろんなことできてすごいよね。視野が広くて、見る眼もあって、大事なところによく気づく。なんでもできるよね」
「なんでも、そこそこできるだけだよ」
姉はやたら褒めてくれるけれど、自分では広く浅い器用貧乏なだけ──
(一つのことを極めた、ツカ姉みたいな人の方がすごいよ)
と思っている。口に出すと調子に乗ってウザったいから言わないけれど。
「ヘンな生き物がヘンな魔法使うゲーム、好きだよねぇ。ごきゅごきゅ……」
「ヘンじゃねえよ。異世界ファンタジーだよ。ごくごく……」
俺はノンアルコールの、ホッピーを飲みながら応じる。
「よくわかんないわ。ま、がんばって! あっくんはお姉ちゃんより賢いから!」
「国内トップの法学部出て、司法試験トップのツカ姉がそれ言っていいの」
「いいの! 本当のこと! あっくんが法廷にいるとうまく裁けるし!」
「なにそれ、人をお守りみたいに」
そんな裁きサポートのフィールド効果、あるわけないだろ。
「ごきゅん! ぷはあぁぁぁもっと! お
姉は俺のツッコミを聴くこともなく、さらに酒を頼み、巨乳(F)のお胸を包むブラウスのボタンを外し、熱い吐息をついている。その姿にはきわどいものがあったようで、周囲の男性客たちの視線を集めている。
「ツカ姉、ちょっと声がでかい……裁判の関係者とかいるかもよ」
「さっき見渡した時には、PもBも、我が社もいなかったわ」
Pは検察官、Bは弁護士。
我が社、というのは裁判所のこと。
姉が飲み食いしながらよく使う、裁判関係者の隠語だ。
「サーチ済みか」
「でも、それっぽいのが入ってきたら教えてねっ。あ、ありがとうございますぅ~」
姉は店員からサワーを受け取り、言う。
「『裁判官は、ナメられたら死んだも同然』だからねっ」
──このフレーズは、裁判官になってからの姉の信条だ。
思い出す。さっき傍聴した裁判で、原告の女性が『若いあんたに、あたしのなにがわかる』とつっかかっていた。史上最年少で裁判官になった姉には、なにかと当たりが強く、よくナメられて苦労してきたようだ。うまく裁こうにも、侮られ、話を聴いてもらえなければ、難しくなってしまう。
「今日、とってもお酒飲みたい気分なのっ。ごっきゅごっきゅごっきゅ!」
それにしても、飲酒のペースが異常だ。
「何かあった?」心配になってきた。
「もう、ダメかもしれないの……クソ、人事め……」
ガンっ! とジョッキを置いて、忌々しそうに語り始める。
「お姉ちゃんを、法務省に出向させるんだって」
「……それって、」
身内に裁判官がいると、なんとなく裁判所関係のニュースを見るようになる。俺が知っている限りでは、司法である裁判所と、行政である法務省は別の組織だけど、優秀な裁判官は裁判所から法務省に行くことがあるらしい。
「ツカ姉、出世コースじゃん。才能を評価されたんじゃないの」
元々、姉は高名な学者の血を引いているからか、座学が得意だ。誰よりも速く資料を読み、暗記し、理論的に説明できる。国の省庁とか向いてそうだな、と思って言った、が、
「出世とか、才能とか、どうでもいいのッ!」
喝破で飛んだツバの
「現場で、お裁きできなくされるの!」
俺はおしぼりで顔面を拭いながら、うんざりした気持ちで思い出す。
姉は、現場──実際に事件を裁くこと──に、なぜだか、異様な執着があるのだ。
「お姉ちゃん、あっくんに誓ったよね。『正しい裁判で、世界を良くする』って。あっくん、格好いいって言ってくれたよね」
「いつ」
「あっくんが三歳、お姉ちゃんが十五歳の時よ」
憶えてねぇよ……「そんな昔のこと、」と俺が言うのを遮るように、
「部長に言われたわ」と姉は怒りの形相になった。
部長とは、裁判官の上司のことだ。
「『我妻くんは、中高生ごときで固めた信念が正しいか、今一度問い直せ』って」
「けっこうな言われようだね」
「なら……十五歳に戻して、変えてみろっての……ひっく!」
「ツカ姉……飲み過ぎだよ」
もう話の脈絡がない。立派な酔っ払いだ。
それに……
(ツカ姉に合わせたけど、部長さんの言い分も、わかる)
姉は、普通の女の子としての人生を拒絶するかのように、勉強ばかりしてきた。
付き合った男性はもちろん、男(弟を除く)とお出かけたしたことすらゼロ。
弟として間近で見ていると、その極端な生き方は、周囲に軋轢を、自身に欠落を生じさせているようにも見えて、心配しているのだ。
「すみません、お会計お願いします」
通りがかりの店員に、俺はやや困った風の作り笑顔でお願いする。
支払いを済ませながら、テーブルの上を綺麗にする。
このように印象良くすれば、きっと、もうしばらくこの席に居座れるだろう。
(こういう、打算、立ち回り……フォローばかり得意になったな)
自嘲する。姉との時間で、俺はしょうもないスキルばかりを習得する。
空のジョッキを、脇に寄せようとする俺の手が、
「うぅぅぅん……十五に……戻りたい……」
寝言の主に、すがるように掴まれる。
「そんな魔法みたいな……あるわけないでしょ」
法を司る姉の、おかしな願いに苦笑する。
(それだけ、追い詰められているのかもな)
唇の中に入った髪の毛を、「お疲れ様」と、起こさないように、取り除く。
でも、もしも──と。
脳裏に、空想じみた考えがよぎる。
「別の、ファンタジー異世界が、あったらな」
と、呟いて、ため息をつく。
別世界に対する憧れは、ずっと自分の中にあった。
(魔法とかがある、楽しい世界に、行けたら……)
なんて、思い始めた、その時。
視界に、ピンクの魔法陣のようなものがよぎった。
居酒屋の壁が、目の前のテーブルが、にじみはじめ、二重に見える。
ゲームのしすぎで、眼が疲れたせいかもしれない。
目頭を揉んで、開けると、
──なにもかもが、ピンクだった。
「……なにこの、ブルーバックエラーの、ピンクバージョンみたいな──」
そこらじゅうがピンクに光り輝いている。特に、
「って、ツカ姉! うそっ!?」
巨乳を下敷きにした、うつぶせ状態の姉の身体が。
「光ってる! ツカ姉が、ピンクにっ──」
魔法少女の変身シーンみたいにまっピンクに発光していた。
「な、ん──」
なにもかもが、ピンクに染まる。
視界が、まっピンクになっていく。
誰かの声が聞こえた。
『世界を良くする、正しい裁きを──』
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