第23話 熊と猿と虎と

 木々を揺らして迫る音にもう時間がないことを察する。ネルの戦闘能力は頼りになるけれども、複数の魔物と対峙するにはぼくの存在が足手まといになる。彼女の性格とぼくへの崇拝を考えると自分の身を犠牲にしてでも守ろうとする。

 その結果なんて火を見るより明らかだ。


「ネル、どこか隠れながら戦える場所を見付けるんだ」

「わかった」


 猿への対策を見付ける前に、もっと大きな問題があることを思い出す。少し離れた木々の隙間から、こちらを探す大岩熊ロックベアの姿がチラリと見えた。

 予想していたより、ずっと大きい。集落を襲った人喰い鬼オークと同じく“変異型ミューテイト”なのかもしれない。ダンジョン最深部のさらに底。“原生魔素マナ”が濃いとしたらあり得ない話ではない。


「あれが、この森のヌシ」


 どう見ても体高二メートル弱六フート半はある。体長は二・七メートル九フートを超え、体重は五百キロ半ミリエ近いだろう。

 人間が……いや亜人であっても、単身で立ち向かうなど狂気の沙汰だ。


「アイク、こっち!」


 ネルが森の奥を指して移動を開始する。森林軍猿レギオンエイプと思われる大型の魔物が迫ってくる方向でもあるのだが、どのみち離れたところで徒歩で逃げ切れる速度ではない。隠れられるかどうかが生還するための最優先事項だ。

 梢の先が大きく揺れて、跳躍する茶色い影がいくつか飛び去る。ぼくの目には手腕の異常に長い獣人のように見えた。猿という印象はない。王国で見る猿は人間の赤ん坊くらいの大きさで人懐っこい獣だから比較の対象にもならないが。

 気休め程度の備えとして、クロスボウに毒を仕込んだやじりを装填する。あんな化け物が射程内に入ってきたとして、射られる矢などせいぜい一発だけ。外せば終わり。当たっても毒の効果が現れるより前に食い付かれるのがオチだろう。


「そこ、岩の間に入れる」


 ネルの指す方を見ると、大岩熊と同じような大きさの岩が折り重なっている場所があった。森のなかになぜこんなものが、とは思ったが疑問よりまず生き延びるのが先だ。

 ネルが周囲を警戒しながら、ぼくを先にして岩の隙間に押し込む。自分が外に残ったのはぼくを守るためもあるけれども、こちらが完全に隠れてしまえば魔物が崖を登攀中のカイエンさんに向かうからだろう。


「オオオオオオオオオオォ……ッ!」


 ネルの雄叫びが森に響く。虎獣人の咆哮だけあって威嚇の力はかなりのものだ。ビリビリと空気が震え、鳥や虫や魔物の喧騒がピタリと止まって静まり返る。


「……お願い、一回だけ」


 ネルがぼくに背を向けたまま、懇願するように囁く。


「あいつと、打ち合いたい」


 木陰から、大岩熊が姿を表す。野生の勘でネルの実力を読み取ったか、弱い獲物を追いかける強者の余裕など、そこにはない。森で生きる獣や魔獣の階層では頂点に君臨するはずのロックベアが、全身の毛を逆立て目を血走らせて臨戦態勢にある。

 それでも、ネルは引かない。ぼくを逃がすための自己犠牲だとしたら何があっても止めるつもりだったけど。


「信じて、アイク。わたしは、負けない。怪我したり、しない。深追いも、しない。だから」

「……ネル」

「だから、お願い。証明させて、、力を」


 ぼくの、か。自分の力じゃなく。

 不思議なことに、その言葉がすんなりと胸に届く。ネルは“みまもり”の力を実感しているんだろう。ただでさえ強靭で強力な虎獣人の力が“増強ブースト”によって底上げされ引き上げられているのだ。


「わかった。君を信じる。ぼくは、


 猫手メイスを両手で胸元に搔き抱いて、振り向いたネルが笑う。ひどく幸せそうに。


「……うん。感じてる。ずっと」


 視線が外れたところで、大岩熊の緊張が臨界を超えた。矢のような突進が真っ直ぐにネルに向かってくる。

 ぼくは警告を発しなかった。気持ちは通じ合ってた。ネルは理解してる。手に取るように把握してる。位置も、速度も、行動も、その結果も。

 何もかも知って、迷いなく踏み込む。重心を沈めて大きく足を開き、真正面から迎え撃つ。


「ガアアアアァッ!」


 ひゅん、と微かに風を切る音がして、巨大な壁にでもぶつかったかのような轟音が響く。

 大岩熊の突進は止まり、ひしゃげた頭がグリンと一回転して首がじれた。上下逆さまな頭で小首を傾げたような姿勢になった大岩熊は、打撃を喰らったことすら気付かないまま死んだ。

 前のめりにゆっくりと突っ伏すと、そのままピクリとも動かない。


「一撃って……すごいな、ネル」

「ありがと。あなたのおかげ」

「違うよ。いま褒めたのは君の見事な……凄まじいまでの技術だ」


 打撃部位ヘッドが熊の頭に衝突する直前、ネルは意図して速度と力を抜いた。振り抜いて弾き飛ばすのではなく、衝撃力を残らず体内に送り込むために。前に格闘術の達人が、話しているのを聞いたことがある。派手に音が鳴る打撃は平手打ちのようなもので、衝撃が表面にしか伝わってないのだとか。

 彼女の判断が正しかったかどうかは、凡人であるぼくにはわからない。振り抜いたところで即死なのは同じだったんじゃないかとも思う。なんにしろ、彼女はそれが必要だと判断したのだ。


「最後に、打撃を……なんていうか、“押し込んだ”よね?」

「うん。ちぎれた首から血を噴いて走ってきたら、嫌だし」


 なるほど。突進の延長線上にいるぼくが血を被るのを気遣ってくれたのか。そこまで余裕を持って仕留めたというのが信じ難い。相手は九フート超えのロックベアだ。剣聖と呼ばれる奴らだって、もう少し手こずるはずだけど。


「いまので猿が警戒しちゃった」

「だろうね」

「大きく背後に回り込もうとしてる」


 その間に崖を登るのは無理そう。だけど、カイエンさんは無事に崖の上まで登り切ったようだ。無事を知らせるために手を振ってきた彼に、ぼくらは問題ないから集落に戻っていてくれと身振りで伝える。


「アイク、移動しよう。あの猿なら、あたしたちと体格があんまり変わらない。この岩の隙間にも入ってこれる」

「わかった」


 ネルはなんでか、ひどく嬉しそうだ。そのくせ気を抜いた様子は一切ない。気負いなく力の抜けた背中からは、凄まじい気迫が感じられた。身体強化の魔力循環が触れられそうなほどに強く濃密な魔力となって体表に青白い光を放っている。戦闘状態の勇者だって、こんな“静かに圧縮された”魔力制御を見たことはなかった。


「ネル、森林軍猿レギオンエイプを一度に相手できるのは何体まで?」

「確実に倒すなら、三体。仕留めることを考えなければ、何体でも」


 う〜ん。そうなの? 信じてないわけじゃない。でも、あれ災害級の魔物だって聞いた気がするけどな。


「ありがとう、アイク」

「え?」


 何に対しての“ありがとう”なのかが、いまひとつよくわからず。ぼくは振り返ったアーシュネルの瞳を見つめる。


「あたし、幸せを感じてる。泣きそうなくらい、叫び出しそうなくらい、嬉しくてたまらない。どこにもないと諦めてた、それでも探さずにはいられなかった、失くしてた大事なものを、見付けた気がする」


 それがなんなのかは、自分でもよくわからないけど、とネルは小さく微笑む。それは力か、誇りか、仲間か、理想か。彼女は足元の石を拾って、感触を確かめるように何度かポンポンと放る。


「奴らが来るよ、ネル」

「うん。

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