誓いと償い

 その日の夜、絃羽は昨夜と同じように俺の部屋に来た。

 唇に想いを乗せて重ね合わせ、一つになると、これ以上ない幸福に包まれる。この幸せなひと時の為に生きていたのではないか、とさえ思ってしまう程、彼女との時間は特別だった。

 今、絃羽は俺の肩に頭を乗せて、幸せそうに目を瞑っている。きっと彼女も俺と同じ気持ちなのだろう。

 彼女の肌の感触が恋しくて、愛しくて、強く抱き寄せてしまう。それに応えるように、絃羽は俺の体に自らの体を絡みつかせてきた。一つになりたいのに、これ以上一つになる事ができない──そんな切なさを残しつつも、互いの体温が伝わってくるのが嬉しかった。


「なあ、絃羽。お前の補習っていつまでだっけ」


 そろそろ八月も終盤に差し掛かる。その補習も、いつまでも続くものではない。


「んっと……明日で終わりかな」


 絃羽の答えに、「そっか」と返す。

 補習が終わり、そして、もう〝旅立ちの岬〟から飛び込む不安もない絃羽。俺の付き人の──ここに来てからの唯一の──役目が、もう終わろうとしている。


「どうして?」

「いや……」


 絃羽が不思議そうにこちらを見上げるが、俺は天井に視線を向けたままだった。


「絃羽はさ、高校卒業したらどうしたい?」

「えっ……ううん、どうだろう。わかんない」

「まあ、それもそうか。まだ一年だもんな」


 高校一年の夏休みで、しかも自分の居場所すら確立できていなかったのだから、そこまで考えているわけがない。それに、そこまで先を考えているなら、どこかに飛んでいきたいと言って海に飛び込む真似もしないだろう。


「この家出て進学、とかは?」

「それはない、かな……今はこのお家から、出たくない。美紀子さんが今日、ここは私の家でもあるって言ってくれたから。それが嬉しくて」

「そっか」


 俺の予想通りだった。きっと美紀子さんに甘えられるようになれば、彼女はここから出たいとは思わなくなる。

 それなら──俺のすべき事は、もう一つだけだ。


「俺さ……お前の補習が終われば、一回東京に戻ろうと思っててさ」

「えっ……⁉ どうして⁉ 私、何か悠真さんの気に障る事でも──」

「待て待て待て。一回って言っただろ」


 絃羽が起き上がって泣きそうな顔をするので、慌てて彼女を抱き締めてやる。納得できないからか、彼女の体は強張っていた。


「お前とさ、ずっと一緒にいるには……今の俺じゃ、役不足なんだよ」

「そんな……私、悠真さんに何の不満もないよ?」

「そうじゃなくて……お前の事、ずっと支えようと思うと、今の俺じゃダメなんだ。この夏、何で俺がここに来たかは昨日話しただろ?」


 絃羽は納得いかなそうに頷いてくれた。

 そう……俺は、何も持たず、そして自分の行く先を決める事もできず、ふらふらした状態でここに来た。武史の言う通り、半分プー太郎みたいな存在だ。


「俺もさ……ここで暮らしたいんだ。絃羽と、美紀子さんと一緒に」

「あっ……」


 そこまで言うと、絃羽が小さく声を漏らして、強張らせた体から力を抜いてくれた。

 俺はここ最近考えていた事を絃羽に話した。

 大学を卒業後は、絃羽がいる町で、絃羽と共にこれからの四季を過ごしたい。それは、この五年間彼女に寂しい想いをさせてしまった事への償いでもある。もうこれからは寂しい想いをさせない。その為に、ずっと傍にいたい。

 でも、今の俺には何もない。稼ぐ力も、技術も、知恵もない。今の俺がここに来ても、美紀子さんの居候になるだけなのである。今みたいに何もしないで飯を食って、自分の足で立てるようになった絃羽を眺めている事しかできない。

 確かに最初は絃羽と一緒に居れるだけで幸せだろう。でも、きっとそんな自分がいつか嫌になる。そんな自分が嫌になってこの場所に逃げてきたのだから、またどこかに逃げたくなってしまうのも何となくわかってしまうのだ。このままでは、絃羽を守るどころか、縛り付けてしまう存在になりかねない。それは嫌だった。

 絃羽の彼氏として、胸を張れる男になりたい。そして、そんな風に誇れる自分でいたい。そうなる為には、今のままでは絶対にダメだ。


「この夏、この場所に来て、お前と再会して、お前と付き合う事になって……その全てを〝正解〟にする為には、今のままじゃダメなんだ」

「悠真さん……」


 絃羽は俺の話を全て聞き終えると、俺の名を呼んで、首根っこに腕を巻き付けてきた。


「ごめん……私、全然悠真さんの事、わかってなかった。そんなに考えてくれてたのに、自分が寂しいって事しか考えてなくて。やっぱり私、まだまだ全然子供だね……」

「ごめんな。ちょっとの間、また寂しい想いさせるけど……来年の春には、ここで暮らせるようになってるからさ。それまで、我慢してくれるか?」

「うん……今までずっとあてもないのに待ってられたから、それくらい平気」


 少しだけ皮肉を言ってから、彼女は俺に口付けてきた。切なげに泣きそうな顔をして、何度も口付けてくる。でも、そのうち我慢できなくなって、結局泣いてしまった。

 これまでと違って電話やムービー通話もできるよ、正月には会いに来るよと言っても頷くだけで、ずっとすすり泣いていた。

 浅葱色の瞳から零れる涙を指で拭ってから、今度は俺の方から口付ける。そして、何度も何度も気持ちを重ねた。

 互いに離れてもずっと記憶していられる様に、寂しくなった時は温かみを思い出せるように、何度も何度も互いの心と魂を体に刻み込んだ。それは、必ず帰ってくるという誓いと、また寂しい想いをさせてしまう事への償い。

 その誓いと償いが、全ての選択を〝正解〟に変えてくれると信じて、俺達はただ想いを重ね合わせた。

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