甘える、という事

「あー、そうだ。美紀子みきこさんの事だけどな」


 朝の通学路。いつもの様に絃羽いとはの作った朝食を食べて、彼女を送り届けるべく、学校へと向かっていた。

 潮風に乗って羽ばたく二羽の海鳥がご機嫌に空中を散歩する。


 ──あれは前に見た二羽だろうか?


 そんなどうでもいい事を考えながら、堤防の上をバランスを取りながら歩く絃羽を見て話し掛けた。


「え、美紀子さん? 美紀子さんがどうしたの?」

「もっと甘えていいと思うぞ」

「えっ……」


 でも、と言いたげなのでそれを手で制して続けた。


「あの人はお前の母親になろうと思って、お前を引き取ろうと決心したんだ。それなのにさ、ずっと遠慮してちゃ……あの人が可哀想だろ」


 絃羽は黙ったまま堤防の階段から道路まで降りてきて、俺の横に並んだ。


武史たけしとか帆夏ほのかに気を遣ってるのかもしれないけどさ。でも、昨日も言っただろ? 素直になれって。今のお前に必要なのはそれだってさ」

「そう、だけど……いいのかな」

「何が?」

「私、昨日から我儘ばっかり言ってる気がする」


 そんな事ないよ、と彼女の頭を撫でてやった。


「お前の言う我儘は、我儘のうちに入らないんだよ」

「そうかな」

「ああ」

「うん……それなら、ちょっとだけ頑張ってみる」


 俺の方を見上げて、絃羽は微笑んで見せた。

 その笑顔を見て、安心する。これまでのように申し訳なさそうに顔色を伺うように笑っているのではなくて、自分の意思で自然と笑っていたのだ。少しずつ少しずつ、絃羽も前向きになろうとしていた。

 もし、俺との関係が支えになっていて、それで少しでも自信を持てるようになっていたのなら、それはとても嬉しい。


「じゃあ、早速ちょっと相談があるんだけど」

「俺に? どうした?」


 絃羽は少しだけ迷ってから、言葉を発した。


「あの……私、今日は夕飯も作ろうかなって思うんだけど、どうかな? 美紀子さんのお手伝いしたいし……いいと思う?」


 驚きの提案が出た。

 彼女はこれまで夕飯作りは帆夏や他の人もいるから、と譲る様にして部屋に閉じ籠っていた。そんな彼女が、今日は夕飯も作りたいのだと言う。

 これが彼女なりの『ちょっとだけ頑張ってみる』なのだろうか。甘えているとは少し違うとは思うのだが、まずは第一歩。とても良い傾向だと思えた。


「きっと、美紀子さんも喜ぶと思うよ」


 帆夏も昨日の今日で俺とも顔を合わせ難いだろうから家には来ないだろう。ここ最近も帆夏は来ていなかったので、必然的に美紀子さんが昼も夜も作る事になっている。絃羽が手伝ってくれたら彼女も助かるだろうし、何より嬉しいのではないかと思うのだ。


 ──絃羽も変わろうとしてるんだな。


 彼女も昨日、自分の選択を正解にしたいと言っていた。彼女にとって、今の状況が桐谷家に引き取られた事への正解だとは思っていないのだろう。

 彼女が変わり始めた事を、嬉しく思うのだった。

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