いまではその頃の知識がなんら役に立たない中小企業で働く会社員でしかないけれど、当時のあたしは弁護士の青写真も描けるくらいには優秀な、それなりに名の知れた大学の法学部に通う女子大生だった。


 才色兼備、として周囲から羨望や嫉妬の目を向けられ、当時は多少そのことを鼻に掛けているような人間だった。周囲を見下して、どこか高嶺の花を気取り、それを自覚していながら、何が悪いの、と開き直っていたあの頃の自分ほどひた隠しにしたい黒歴史はない。井の中の蛙、という言葉があるけれど、こういう状態の時、上には上がそこら中にいるのに、その上には、まったく気付かなくなる。


 ひどい勘違いした過去のあたし自身こそ、人生で一番嫌いな人間だった。


 彼と出会ったのは、そんな時期だ。もし彼と出会えたことで良かった点を無理にでも探すならば、目立つことへの恐怖で、過去の自分の嫌な感じを自覚できたことだろう。


 彼は、学校の中にいてもその景色の一部と化してしまうような地味な青年で、井坂くん、という名前だった。


 どうしても、と頼まれて気乗りはしなかったけれど参加した合コンで、同じくあまり楽しんでいるように見えない姿で居酒屋のテーブルの端に座っていたのが井坂くんで、明らかに数合わせと分かる雰囲気を隠そうともせずその場にいた彼に話し掛けたきっかけまでは覚えていないけれど、酒に酔った勢いと当時の傲慢さが合わさって、いっちょこいつで楽しんでやるか、なんて気持ちになったのかもしれない。いまとなっては当時の感情なんてほとんど覚えていないけれど、あの頃のあたしはそのくらいのことを平気でやりかねない人間だった。


「合コンなんて来るの、初めてだから……」


 あたしに話し掛けられると、ぎこちなく笑みを浮かべたその表情が、馴れ馴れしく近付いてくる他の男よりも好感が持てて、それに趣味がゲームとスポーツ観戦ということで、偶然趣味が同じだったこともあり、彼との会話は純粋に楽しかった。


 結局その合コンの間はほとんど井坂くんとばかりしゃべって、他の男性陣は明らかに不愉快そうだったけれど、逆に意気投合している私たちの姿を見て喜んだのはあたし以外の女性たちで、きっとライバルが減ると思ったのだろう、囃し立てられたあたしたちは会の途中で抜けるようにふたりで一緒に帰ることになってしまった。


 自宅のマンションまで送ってもらう帰り道で、あたしは彼と連絡先を交換して、定期的に会うようになったのだけれど、あたしにとって彼はあくまでもちょっと気の合う友達で、それ以上でも以下でもなかった。


「付き合って欲しい」


「何、勘違いしてるの? あたし、付き合ってるひといるから」


 彼にそう言われた時、断ることへのためらいはなかった。当時、あたしは誰とも付き合ってはなかったので、この断りの文句には嘘が混じっているのだけれど、この言い方をすれば彼も粘りづらくなるだろう、と思ったのだ。申し訳ないな、という気持ちはあった。でも、できる限り冷たい口調を心掛けた。


 とはいえ、いままで彼氏の存在をにおわせたことなんて一度もなかったので、すぐには納得してくれないだろう、と不安もあったのだけれど、


「うん。分かった。ごめん、変なこと言って」


 と意外にも簡単に納得されて、拍子抜けしてしまった。友達関係を続ける中で、彼はちょっと執着心が強そうだ、と感じている部分もあったので、その態度にすごくほっとしたのを覚えている。


 でも、悪夢のはじまりは、そこからだった。


「友達関係は続けていけないかな……」


 翌日の夜だった。急に連絡もなく彼が訪ねてきて、インターフォン越しに、そう言ったのだ。きのうの物分かりの良い態度もあって、不用心にも玄関の戸を開けてしまったあたしは彼の瞳の奥に宿った狂気をかいま見てしまい、部屋には絶対に上げてはいけない、と本能的に悟った。


「無理だよ。そんなの」


 部屋の前で彼と向かい合いながら、何かあった時は隣人に聞こえるくらいの大声を出そうと思っていたが、さすがにそんな事態になることはなく、彼は、


「そう。そうだよね。ごめん」


 と、また素直に引き下がる。だけど今度はひとつも安心できず、言葉とは裏腹に引き下がる気の一切感じられない歪んだ表情がただただ怖かった。


 それ以降、あたしは彼から無言電話や明らかな尾行という嫌がらせを日常的に受けるようになった。それをすることで彼に何の得があるのだろうか、と考えたところで、きっとあたしに理解できるようなものではないはずだ。ストーカーとはそういうものだ、と割り切って対応したほうが精神的にずっと楽で、警察に行くことをほのめかすと、いったん彼はあたしに近付くのをやめたのだけれど、それも一時だけのことで、また彼はあたしの目の前に現れ、前よりも行為はひどくなる。あたしの心はおかしくなりそうだった。夜中に何度もインターフォンを押されて、確認しようとすると、その姿が消えている、というのを繰り返される、なんていう嫌がらせもあった。


 ぴんぽーん……、ぴんぽーん……!


 もともと好きではなかったインターフォンの音が吐き気を催すほど嫌いになったのは、間違いなくこの出来事がきっかけで、最近はだいぶ落ち着いてきたけれど、いまだに唐突な音に対する精神的な負荷は他のひとに比べてかなり大きい。


 警察には頼りたくなかった。


 この時期のあたしは決して品行方正な生活をしていたとは言えなかったし、それにあたしの知り合いで同じような被害に遭っていた子が、警察に相談したら説教されるだけでまともに相手をしてもらえなかった、と怒っていた記憶があって警察への不信感もあった。悩んだ末に、あたしは知り合いの男性にお願いして、かなり強めに直接注意してもらったのだけれど……、


 またそれも、収まったのはすこしの間だけだった。


 あれは先生のカウンセリングの後だったはずだ。


 あの日が訪れて、あたしは――。

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