勝利の女神②
紺色のジャージを着てスタートラインに立った璃子は、緊張に表情を強張らせていた。いつもは半分下ろしている黒髪は、今日はポニーテールに結われている。
位置について、の声とともに、ぎこちなくスタートの構えを取った。
「せーの、璃子ちゃん、がんばってー!」
クラスメイトの一団が、璃子に向かって声援を送る。
女子ならまだしも、男子まで「璃子ちゃん」呼ばわりしているのが気に食わない。いったい誰の許可を取って名前で呼んでるんですかねえ。
おれは張り合うように、誰よりも大きな声で「璃子がんばれー!」と叫んだ。
「おいおい。浅倉、ガッチガチになってるやん」
「浅倉さん、めっちゃ鈍臭いからな……」
マルと翼が、璃子を見ながらハラハラしたような声を出した。おれもちょっと胃が痛い。璃子の運動音痴は筋金入りである。別にビリでもいいから、コケてケガとかしてくれるなよ、と心の中で祈ってしまう。
ピストルの音が鳴ると同時に、璃子はびくりと肩を揺らした。周りから一拍以上遅れて、はっとしたように走り出す。わかってはいたが、めちゃめちゃ足が遅い。隣でマルが溜息をつく。
「ハルト。おまえの彼女、右手と右足同時に出てるけど大丈夫?」
「そういうところがかわいいんやろ、璃子は!」
思わずムキになって言い返してしまった。たとえ五十メートルを走るのに十二秒近くかかろうとも、浅倉璃子はおれにとって世界で一番かわいい彼女である。
ようやく借り物のお題が書かれた紙を拾い上げた璃子は、慌てた様子で四つ折りになった紙を開く。そこに書かれているであろう文字をじっと見つめて、しばし考え込んでいる様子だった。
「お題、何やったんやろ」
「あ、動いた」
璃子は一目散に、二年一組の方へと走って行った。ウサギのようにその場でぴょんぴょんと飛び跳ねながら、声を張り上げる。ポニーテールが頭の後ろで揺れた。
「しょ、翔ちゃん! 翔ちゃん!」
……翔ちゃん?
璃子が呼びつけたのは、彼女の幼馴染であり、おれの友人でもある翔真だった。翔真は面倒臭そうに、ノロノロと璃子の元へとやってくる。二人で何事かを話した後で、璃子は翔真の手をぎゅっと掴んだ。
その瞬間、おれは心臓が握り潰されたような気持ちになった。二人は手を繋いだまま、ゴールに向かって駆け出す。
「ちょっと見て! 羽柴先輩が知らん女子と走ってんねんけど! めっちゃショック!」
「えー、そういうの断りそうやのに! もしかして彼女やったりして」
「にしては、あんまりイケてなくない?」
近くにいた一年の女子が好き勝手に噂をしているのが耳に飛び込んできて、怒鳴りつけたくなるのを必死で堪えた。
――璃子は翔真じゃなくておれの彼女だし、おまえらの何倍もかわいい。
行き場のない苛立ちを閉じ込めるように、ぐっと拳を握りしめる。
璃子の足の遅さに痺れを切らしたのか、翔真が璃子の手を引いて走り出した。引っ張られている璃子の足がもつれそうになっている。手を繋いで走っている二人を見ていたくなくて、おれは思わず目を逸らした。
「……ハルト。これ、借り物競走な? 別に浅倉さん、好きで羽柴と手ー繋いでるんとちゃうから」
みるみるうちにテンションの下がったおれに気付いたのか、翼が窘めるように言ってきた。おれは唇を尖らせながら「……わかってる」と答える。
翔真のおかげもあってか、璃子はどうやら三位でゴールしたらしい。璃子は翔真と一言二言会話をした後、小走りにこちらに戻ってくる。おれと目が合うと、嬉しそうに表情を緩ませた。おれも無理やり笑顔を捻り出す。
「……おつかれ、璃子」
小動物のような丸い瞳は、私のことも褒めて、と言いたげに輝いていたけれど、おれは褒めてあげることができない。代わりに、ぽんぽんと璃子の頭を優しく叩いた。
「おれちょっと、飲みもん買ってくる」
そのまま、振り向かずにその場から立ち去った。くだらないことでみみっちい嫉妬をしている姿を、璃子には見られたくない。
購買の近くにある自動販売機のそばまで来たところで、財布を持って来るのを忘れたことに気がついた。はーっと深い溜息をついて、その場にしゃがみ込む。
璃子と翔真のあいだに一切恋愛感情がないことを、おれは重々理解している。これまでいろんなすれ違いはあったけれど、今なら璃子が好きなのはおれだけだと自信を持って言える。
それでも二人のあいだには、幼馴染特有の気安さがある。これまで一緒に育ってきた、過去の積み重ねも。あの女嫌いで有名な翔真を借り物競走に引っ張り出してくる女子なんて、璃子かマネージャーくらいのものだろう。
翔真は璃子の彼氏にはなれないけれど、おれは逆立ちしたって璃子の幼馴染にはなれないのだ。……たぶん翔真は、「そんなん羨ましがるようなことじゃない」と迷惑そうに言うだろうが。
……おれ、かっこわる。
現実の璃子と両想いになれさえすれば、不安なんてきれいさっぱり消えてなくなるんじゃないかと思っていた。全然、そんなことなかった。おれはいつでも、誰かに璃子を横から掻っ攫われるんじゃないかと、気が気ではないのだ。現実は、ぬるま湯のように心地良い、二人きりの夢の中とは違う。
「……ハルくんっ」
かわいい声で名前を呼ばれて、おれは反射的に振り向いた。璃子が全力疾走の後のように息を切らしながら立っている。
「……うう……ダッシュ二連続は……きつい」
ぜーはーと苦しそうにしているので、おれは慌てて背中をさすってやった。
「璃子、大丈夫?」
そう言って顔を覗き込むと、突然璃子がぎゅっと抱きついてきた。柔らかな感触が腹の上あたりにぶつかって、思わず「うお」と声が漏れる。一応周りに人がいないのを確認してから、小さな身体をそっと抱きしめ返した。
「……ハルくん、ごめん」
ようやく息を整えたらしい璃子が、くぐもった声で言う。おれはぶんぶんと首を横に振った。
「いや、璃子はなんも悪くないし……その、おれが心狭いだけで……」
「私やって、ハルくんが他の女の子と手繋いでたら嫌やもん」
「そっか……」
こうして璃子を抱きしめていると、さっきまでの不安が嘘のように霧散していくのがわかった。璃子にはきっと、おれの沈んだ気持ちを向上させる成分が含まれているんだと思う。
抱き合っていたのは一分にも満たないくらいの時間で、おれたちはそそくさと離れた。名残惜しかったが、あんまり学校でベタベタしているわけにもいかない。
「……ハルくん。元気になった?」
「なった。めちゃめちゃなった」
ついでに、余計なところまでちょっとだけ元気になってしまった。璃子の身体が柔らかくて、いい匂いがするのが悪い。あの夢を見なくなってからというもの、おれは日々欲求不満を募らせているのだから。
「ほんなら、リレー一位獲れそう?」
璃子は小さく首を傾げた。おれが「うん」と頷くと、安心したように息をつく。
「よかったー。なんか、ハルくんアンカーやし、陽奈ちゃんから『クラスの命運が私の応援にかかってる!』みたいなプレッシャーかけられちゃって」
おれは苦笑した。塚原さんも、言いたい放題言ってくれる。とはいえあながち間違ってはいないので、特に反論はない。
「あ、別にハルくんのこと信じてへんわけじゃないんやけど! 私のせいで全力出し切れへんかったら申し訳ないなって……」
「まーたしかに。おれが一位獲れるはどうかは、璃子の態度次第やなー」
おれの言葉に、璃子が慌てたように「ええ!?」と声をあげた。ポニーテールを掴んで、にやりと笑ってみせる。
「おれにやる気出してほしいやろ? 一位獲れたら、ごほうびちょうだい」
「ご、ごほうび……? 一体何を献上すればいいんでしょうか、お代官様」
「苦しゅうない、近う寄れ」
大袈裟な仕草で手招きをすると、璃子がすすっと身体を寄せてくる。耳元に唇を寄せてボソボソと囁くと、目の前にある璃子の耳が真っ赤に染まった。
「はーい、それじゃあ二年四組の優勝を祝してー! かんぱーい!」
乾杯の音頭と共に、みんなは各々ソフトドリンクの入ったグラスを持ち上げてぶつけ合った。
カラオケ店のパーティールームには、所狭しとクラスメイトがひしめき合っている。優勝の余韻に浸っているのか、どいつもこいつも酒でも飲んでるんじゃないかってほどテンションが高い。もちろん、全員アルコールは一滴も摂取していない。
あのあと、おれたち二年四組は見事クラス対抗リレーで一位になり、その甲斐あってか全学年の総合優勝を勝ち獲った。せっかくだからクラスみんなで打ち上げをしようということになり、こうしてカラオケ店へとやってきたのだ。
ここぞとばかりに璃子の隣を陣取ろうと思ったのだが、部屋に入るなり「ハルトおまえ、めちゃめちゃ本気出しやがってー!」と男どもにもみくちゃにされてしまった。
璃子は隅っこの方で、ニコニコとオレンジジュースを飲んでいる。両手でグラスを持っているところがかわいい。
「はーい、じゃあここで今日のMVP発表しまーす!」
マイクを持った塚原さんが、ステージの上ではしゃいだ声をあげる。こうして見ると、まるで本物のアイドルのようだ。ピーピーという口笛が響く。
おれはちょっと背筋を伸ばして、咳払いをした。塚原さんは「本日のヒーローはあ……」とたっぷり溜めてから、高らかに宣言をする。
「浅倉璃子ちゃんでーす!」
「ええ!?」
おれは思わず声をあげて、その場に立ち上がった。突然名指しされた璃子は、きょとんと目を丸くしている。
「ちょ、ちょっと待って塚原さん。おれは?」
四位でバトンを受け取ったおれは、そこから三人ごぼう抜きしてゴールしたのだ。騎馬戦でもそこそこ活躍したと自負しているし、MVPと言って差し支えないんじゃないかと思う。
当の璃子はと言えば、玉入れでも玉をひとつもカゴに入れられなかった(そういうところもかわいい)。どれだけ彼氏の贔屓目を持ってしても、活躍したとは言えないだろう。
「いや、ちょっと待って……陽奈ちゃん。私、今日何もしてへん」
璃子もそれは自覚しているらしく、申し訳なさそうに身を縮こませている。塚原さんはにんまり笑って、璃子の肩を抱き寄せた。
「今日の高梨くんの活躍、璃子ちゃんのおかげやろ?」
「え」
「ハルトおまえ、直前までめっちゃへこんでたくせに、浅倉さんと一緒にニッコニコで戻ってくるし」
「そこからめちゃめちゃ張り切ってるし。まさか、あんなにごぼう抜きしてくれるとは思わんかったわー」
「いやー浅倉さんありがとう! オレたちの勝利の女神!」
パチパチという拍手に包まれて、璃子はやや居心地悪そうに、真っ赤になって俯く。ステージの中央に引っ張り出された璃子は、あっというまにクラスメイトに囲まれてしまった。
「璃子ちゃんやるなあ。どんな魔法使ったん?」
「いやいやハルト単純やから、ちょっと煽てたらすぐにやる気出すって」
「おまえらいい加減にせーよ! 言いたい放題言いやがって!」
「はい、じゃあMVPの璃子ちゃんから一言!」
「え? ええと……もったいない栄誉を……あ、ありがとうございます……」
異様な光景だ。断言できるが、運動音痴である璃子が体育祭のMVPになることなんて、この先もう二度とないだろう。挙動不審に深々と頭を下げる璃子を見て、おれは我慢できずに声をたてて笑ってしまった。
「……あーもうあいつら、ほんま覚えとけよ」
打ち上げを終えてカラオケ店を出た後、おれと璃子は自転車を押して並んで歩いていた。ほとんど歌っていないのに、大声を出しすぎて喉が痛い。
空には大きな満月が浮かんでいて、璃子の横顔を街灯が青白く照らしている。璃子はふふっと肩を揺らして笑った。
「……楽しかった。私、体育祭楽しいと思ったの初めて」
「それ、球技大会のときにも言うてなかった?」
「うん。全部、ハルくんのおかげ。ハルくんが居るなら、たぶんマラソン大会も楽しいと思う」
ありがとう、と璃子は微笑んだ。
抱きしめたいと思ったけれど、自転車が邪魔だ。璃子のマンションの近くにある公園まで来たところで、おれは自転車を停める。
「おれ、一位獲ったんやけど」
「う、うん」
「約束、覚えてる?」
おれが訊くと、璃子を頬を染めてこくりと頷いた。
――もし一位獲れたら、璃子の方からキスして。
夢の中では唇が腫れるほどに繰り返してきたものだが、現実の璃子とキスをしたのは、保健室で告白をしたあの日だけだ。二度目のキスは、せっかくだから璃子からして欲しかった。
おれたちはどちらからともなく手を繋いで、公園の中へと入っていく。幸いにも、イチャイチャしているカップルはおれたち以外にはいなかった。
小さなジャングルジムのそばで、おれは足を止める。正面から向かい合った璃子は、おれのジャージの裾をぎゅっと握りしめた。「恥ずかしいから、目閉じてて」という言葉に従い、おれはゆっくり瞼を下ろす。十一月の冷たい風がひやりと頬を撫でた。
「……あの、ハルくん。届かへん」
璃子の声に、おれは目を閉じたまま少し腰を屈める。ほどなくして唇に柔らかなものがぶつかって、ほんの一瞬で離れた。
「……お、おしまい」
目を開けると、真っ赤になった璃子の顔が目の前にあった。
気持ち良かったし幸せだが、どうにも物足りない気がする。おれは璃子の腰を抱き寄せて固定すると、互いの息遣いが聞こえるくらいの距離で囁く。
「もっかい」
「も、恥ずかしい……」
璃子がそう言って、ぎゅっと目を閉じた。
夢の中ではもっともっと大胆で恥ずかしいことをしていたくせに、いまさら何を恥じらうことがあるのか。現実の璃子は少しだけ積極性が足りないようだ。
強請るように「璃子」と名前を呼ぶと、もう一度だけ唇を重ねてくれた。
「……あー。明日からまた部活がんばれる……」
「……こんなんで?」
璃子は不思議そうに瞬きをした。
好きな女の子からのキスひとつで、思春期の男がどれだけがんばれるかということを、璃子は全然わかっていない。おれをここまで奮い立たせることができるのは、この世界で浅倉璃子ただ一人だけだ。
「今度は、公式戦のときにしてもらおかな」
おれがぽつりと呟くと、璃子は小さな声で「……ちゅーだけでいいの?」と囁いてきた。我慢できずに、今度はこっちから唇を塞いでやる。やっぱり、おれの勝利の女神は最強だ。
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