嫉妬と暴走
「そーいやハルト、席替えしてから授業中全然寝んくなったよな」
母の作った弁当を机の上に広げていると、ふと拓海が言った。おれは箸を取り出しながら「ああ、そうかも」と答える。弁当箱の蓋を開けると、ゆうべの残りのトンカツが入っていた。これでもかというほどトンカツを敷き詰め、隙間にブロッコリーとミニトマトを詰め込んだ、ダイナミックな弁当である。
昼休みは大抵、仲の良い男子数人で集まって昼飯を食うことが多い。少し前までは璃子の特訓に付き合っていたのだが、球技大会が終わってからはほぼ教室にいる。購買でパンを買ってきた翼が、璃子の席に腰を下ろした。席の主である璃子は、榎本の前の席に移動して弁当を食べているようだった。
「まじか。前までしょっちゅう寝てて怒られてたやんけ」
「そーいや最近夜中にログインしてへんし、早寝してるんちゃう?」
言われてみれば、今までは最低でも五回はアラームを鳴らさないと起きられなかったのだが、最近はかなり寝起きも良くなった。彼女の夢を見るようになってからだ。
あんなにクリアな夢を見ているにも関わらず、頭の方はしっかりと熟睡できているらしい。それに夜中にスマホゲームに興じることなく、さっさと眠りについている。
……理由はひとつ、少しでも早く夢の中で璃子に会いたいからである。
「あー……せやな」
なんて、そんな理由をとても口にできるはずもない。クラスメイトの女の子を夢の中に引っ張り出して夜な夜なイチャイチャしているなんてことがバレたら、一発で変態認定されてしまう。クラス中から総スカンだ。
おれは窓の外を見るふりをして、窓際にいる璃子に視線をやった。榎本と何を話しているのだろうか、楽しげに肩を揺らして笑っている。おとなしそうに見える璃子は、意外とよく笑うしよく喋るのだ。あと華奢に見えるけれど、腰回りは結構ふにゃふにゃしていて柔らかい。……いや、これはおれの妄想だった。
夢の中で抱きしめていた身体の感触を思い出して、おれは溜息をつく。璃子ときたらどこに触れても柔らかくて、いい匂いがして、とんでもなくかわいい声で鳴く。おれの腕の中でびくびくと身体を震わせている彼女を見ると、最後までしたい、という欲がふつふつと湧いてきてしまう。するならさっさとしてしまえばいいものを、夢の中で欲求不満を募らせているなんておかしな話だ。
とはいえ、やっぱり彼女をただの性欲の捌け口にはしたくない。あまりにもリアルな夢の中では、璃子は間違いなくおれの恋人なのだ。無理強いをして悲しませたくないし、辛い思いをさせるのも嫌だ。おれは初めてだから、きっと上手くできないだろう。もうちょっと時間をかけて、璃子が本当にしたいと思ってくれてから――なんてことを夢の中の彼女に対して考えている時点で、相当やばい。
おれは残していたミニトマトを口の中に放り込むと、ほとんど噛まずにごくりと飲み込んだ。おれはミニトマトがあまり好きではないが、母さんは「弁当箱のスペースを埋めるのに楽だから」という理由でしょっちゅう弁当に入れてくる。
「ハルトー」
ミニトマトをお茶で流し込んでいると、廊下側の窓が開いた。ひょっこりと顔を出しておれの名前を呼んだのは、翔真だった。相変わらずボーッとした覇気のない表情で、ひらひら手を振っている。
「あーっ、羽柴くんやあ。やっほー」
近くで女子たちと弁当を食べていた塚原さんが、翔真に向かって手を振った。相変わらずモテる男である。
しかし翔真はほぼ無反応で、「誰?」と言いたげな表情を浮かべている。こんな美人に対しても顔色ひとつ変えない。本物の硬派というのはこういう奴のことを言うのだ。おれは所詮紛い物である。
「翔真、どしたん? 何か用?」
おれが尋ねると、翔真は「おまえに用事ちゃうねんけど」と前置きしてから言った。
「璃子おる?」
「…………璃子?」
「あー、浅倉璃子」
わざわざフルネームで言い直さなくても、うちのクラスに璃子は一人しかいない。おれはなんとなくモヤモヤしたものを抱えながらも「おるけど」と答えた。
「呼んでくれへん?」
おれは少し躊躇いつつ、窓際に座っている璃子に向かって「浅倉ー」と呼びかけた。弾かれたようにこちらを向いた璃子に、「翔真が呼んでる」と言った。なんでおれが、こんなメッセンジャーのようなことをしなければならないのか。なんだかまだ、ミニトマトが喉に引っかかっているような気がする。
立ち上がった璃子は、小走りにこちらにやってきた。おれに向かって「ありがとう」と言ってから、廊下に出る。
おれが知る限り、翔真が女子をファーストネームで呼び捨てることはほとんどない。というよりは、マネージャー以外の女子と会話しているところも見たことがない。そんな翔真が、彼女のことを「璃子」と呼んだ。
「どうしたん、翔ちゃん」
廊下から璃子の声が聞こえてくる。翔ちゃん、というのは間違いなく翔真のことだろう。夢の中でおれのことを「ハルくん」と呼ぶのと同じように、彼女は「翔ちゃん」と口にした。胸の奥がざわざわと騒ぎ出す。
「これ、オカンが璃子に渡しといてって」
「おばちゃんが? あ、前に言うてたやつかな。ありがとう」
悪趣味だと思いつつも、ついつい聞き耳を立ててしまう。会話の内容を聞くに、どうやら家族ぐるみの付き合いをしているようだ。一体どういう関係なのだろうか。
「あの二人、幼馴染みなんやって」
脳内の疑問に答える声に、おれはギクリとした。見ると、いつのまにか塚原さんがおれのそばに立っていた。思いのほか近くに顔があって、無駄にソワソワしてしまう。至近距離の美女は心臓に悪い。なんかめちゃめちゃいい匂いするし。璃子のものとは種類の違う、バニラのような甘ったるい香りだ。
「そ、そうなんや」
動揺しつつも答えると、塚原さんは声をひそめて囁いてくる。
「翔真くんって、誰に告られても全部断ってるんやろ? それって、本命がおるんちゃうかなって」
「ど、どうなんやろ……あいつ、硬派やしな」
「幼馴染みにずっと片想いしてる、とかやったらめっちゃ株上がらへん?」
塚原さんはそう言ってうっとりとした表情を浮かべた。それはどうだろうか、とおれは首を捻る。
翔真はバスケ以外の事象にほぼ興味がなく、周囲が異性の話で盛り上がっていてもまったく話に入ってこない。恋愛とは対極のところにいる男なのである。そんな翔真が璃子に片想いをしているなんて、正直想像できない。
「それに璃子ちゃんやって、あんなにかっこいい幼馴染みがおったら、好きになっちゃうよなー」
……たしかに、それはあり得ないことではない。翔真はイケメンで背も高くてバスケも上手くて、おれと違って本物の硬派で、ものすごくモテている。こんな男がすぐそばに居たら、そりゃあ好きになってしまうだろう。
おれだって女だったら、たぶん翔真みたいな奴を好きになる。間違ってもおれのような目つきの悪いムッツリスケベは選ばない。
「もしかして、付き合ってんのかな? 今度璃子ちゃんに聞いてみよーっと」
塚原さんはそこで話を切り上げて、再び女子グループの輪に戻っていった。璃子と翔真の話も終わったらしく、璃子が教室に戻ってくる。盗み聞きをしていたのがバレないように、おれは平静を装ってスマホを弄っていた。
――もし、この二人が本当に付き合っているとしたら。翔真は、おれが夢の中でさえ見たことのない璃子の姿を、全部見ているのだろうか。未だおれが知らない身体の内側の温度も感触も、全部知っているのだろうか。
そんな想像をするなんて、翔真にも璃子にも失礼だ。わかってはいながらも、おれはどうしても考えずにはいられなかった。考えれば考えるほど気分が悪くなってきて、ついには友人たちに「ハルト、顔色悪ない?」と心配されてしまった。
今日ばかりは夢を見たくない気分だったのに。そんな気持ちなどお構いなしに、おれは白い部屋の中で目を開けた。はーっと深い溜息をついてから、ごろりと寝返りをうつ。
隣には、いつものように璃子がすやすやと寝息をたてている。そっと手を伸ばして、璃子の頬に触れた。すると、ゆっくりと目を開けた璃子が、おれを見て嬉しそうに破顔する。
「こんばんは、ハルくん」
そう言って身を寄せてきた彼女は、いつものように柔らかくて暖かかった。この笑顔も身体も全部、他の誰かのものなのかもしれない。おれは彼女の背中に腕を回して、きつく抱きしめた。
「……ハルくん、くるしい」
璃子がおれの腕の中で身動ぎをする。いつもはここで解放して、ふたりで起き上がるところだが、おれは彼女を離さなかった。寝転んだまま彼女の唇を塞いで、隙間から舌を捻じ込む。
「……んっ、ん」
これまで何度もキスをしてきたけれど、舌を入れるのは初めてだった。璃子は抵抗するようにおれの胸を軽く押してきたが、彼女の力ではびくともしない。
小さな口の中を蹂躙するように舌を動かして、引っ込んだままの彼女の舌を探り当てる。角度を変えながら必死で貪っていると、やがて璃子の舌がぎこちなく絡められた。健気でたどたどしいその動きに、ずくりと下半身が疼く。
「……っは、ぁ」
ようやく解放すると、唾液に濡れた彼女の唇はてらてらと光っていた。苦しげに息を吐きながら、「ハル、くん」とおれの名前を呼ぶ。
「……ど、どうしたん?」
そろそろ起きようよ、とでも言うように、璃子はおれの腕を掴む。しかしおれはそれを許さず、反対に璃子の手首を捉えて、彼女の身体の上にのしかかった。呆然とおれを見上げる黒い瞳に、身勝手な欲を剥き出しにした男の顔が映っている。璃子の表情が不安げに曇った。
「璃子」
「な、なに?」
「……おれのこと、好き?」
唐突なおれの問いに、璃子はやや戸惑った様子を見せた。しかしすぐに頰を染め、はにかみながら小さく頷く。
「……うん。大好き」
これはおれの夢なのだから、おれが望んだ答えが返ってくるに決まっているのだ。そうわかっていても、おれの胸は歪んだ満足感で満たされていく。
「じゃあ、してもいい?」
「な、何を?」
「セックス」
したことある? と耳元で囁く。ぎゅっと目を瞑った璃子は、蚊の鳴くような声で「ない」と答えた。夢だとわかっていても、経験がないと答えた彼女におれは安堵した。せめて夢の中の彼女の「はじめて」は、全部自分のものにしてやりたい。
おれに組み伏せられた璃子の表情は、戸惑いに揺れている。四方を壁に囲まれた、逃げ場もないこの不思議な部屋の中で、クラスメイトに押し倒されている。この夢を現実の璃子が知ったなら、一体どんな顔をするだろうか。もう二度と、おれに笑顔を向けてくれなくなるだろうか。
「……いい、よ」
「……え」
「夢やとしても、はじめては、ハルくんがいい……」
唇を震わせながら、璃子が答えた。こちらを見つめる瞳にはまだ不安の色が見えるけれど、璃子は両腕を伸ばして「ちゅーして」と強請ってくる。誘われるがままに唇を塞いだその瞬間、璃子の腕がおれの首に絡まった。
「ハル、くんも」
「……うん?」
「……わ、私のこと、好き?」
その瞬間、おれの背中にひやりと冷たい汗が流れた。
――おれは本当に璃子のことが好きで、彼女を抱こうとしているのか? 彼女のことが好きかどうかもわからないのに、このまま最後までしてしまっていいのか?
じっとこちらを見つめる黒い瞳には必死さが滲んでいて、なんだか自分の不誠実さを責められているような気がした。いつのまにか下半身が萎えて、みるみるうちに身体が冷えていく。おれは「ごめん」と言うと、璃子からベッドのふちに座った。
「……ごめん。わたし、変なこと言っちゃった?」
おれの異変に気付いたのか、璃子が慌てて起き上がる。ぎゅっと抱きつかれて、柔らかな身体を押しつけられたけれど、おれのものが復活する気配はなかった。
「……ほんまにごめんな。こんなことして、おれ最低や」
「なんで? 私、ハルくんとなら全然嫌とちゃうよ。ハルくんにしてほしい……」
おれに縋りつく璃子は、今にも泣き出しそうになっている。夢の中で彼女に都合の良いことばかり言わせている、そんな自分にうんざりする。おれはがっくりと項垂れたまま、小刻みに震える小さな身体を抱き返すことすらできなかった。
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