球技大会
体育館の床に跳ねたボールを、璃子がおっかなびっくりキャッチする。そのまま両手を額の上に持って行き、ぎこちなくシュートフォームに入る。ゴール後ろのボードにぶつかったボールは、リングにぶつかってそのまま床に落ちた。おれはボールを拾うと、ドリブルをしながら元の位置に戻る。
「惜しい! 狙いは今の感じでいいから!」
おれが声をかけると、璃子はこくりと頷いた。唇を引き結んだ表情は真剣そのものだ。球技大会はもう明日に迫っているのだから、当然といえば当然だろう。
ゴール下でワンバウンドパスを受けて、そのままシュート。おれはこの二週間、璃子にその一連の動作だけを辛抱強く教え込んでいる。運動音痴の彼女の特訓に付き合うのは、かなり骨が折れた。最初はパスさえ受けられなかった彼女だが、最近はようやくそれらしくなってきた。辛抱強いのはおれだけではないのだ。
「えいっ」
……と思ったら、今度はリングにかすりもしなかった。ボールを拾いに行ったおれの顔を、璃子は申し訳なさそうに窺っている。おれよりも二十センチほど背の低い璃子にとっては、「あんなに高いところにあるゴールにボール入れるなんて絶対無理」らしい。……いや、これは夢の中の彼女のセリフだったか。
おれは昼休みは現実の璃子と特訓をしているが、夜になると夢の中の璃子と作戦会議をしている。現実の璃子は知る由もないだろうが、夢の中の璃子の発言は結構参考になるのだ。現実の璃子は口数が少ないので、夢の中でああでもないこうでもないと話し合いができるのはありがたい。まあ、夢なんだが。
ガンと音を立ててリングがボールを弾いたそのとき、予鈴が鳴った。璃子は慌てたように「もう一回! もう一回だけ!」と指を一本立てた。結局彼女は今日まで、一度もシュートを決められていない。
「じゃあ、ラストな」
おれはゴール下に立つ彼女に向かってワンバウンドパスをした。彼女が放ったシュートは、ボードにぶつかり、ぐるりとリングを一周してから、嘲笑うかのように地に落ちた。ダン、という非情な音が体育館に響いて、璃子ががっくりと肩を落とす。
「ごめん……せっかく教えてくれたのに」
ジャージの膝のあたりを強く握りしめた璃子が、俯いたまま言った。こういうとき、何て声をかけてやるのが正解なんだろうか。さんざん考えた挙句、おれの口からは「大丈夫。明日頑張ろ」という薄っぺらな励まししか出てこなかった。
試合終了の笛を聞きながら、おれは体操服の袖で額の汗を拭った。まだ六月の頭だというのに気温は三十度を超す夏日で、ギラギラと容赦のない日差しが砂埃の舞うグラウンドに降り注いでいる。
「あーくそ、負けたー!」
「二組、サッカー部四人もおるもん。勝てるわけないって」
「でも最後惜しかったな、めっちゃくやしー」
うちの高校の球技大会はトーナメント方式である。勝ち残れば午後も試合があるが、負けてしまえば暇である。おれのチームは二回戦で惜しくも破れてしまった。我がクラスにサッカー部がいないわりには善戦した方ではないだろうか。
「あ、メシ食ったら女子のバスケ見に行こうや。橋本さんらのチーム、勝ち残ってるみたいやで」
翼が言ったので、おれはすかさず「うん」と頷いた。橋本は女バスのエースだし、運動神経の良い榎本も同じチームにいるらしいので、勝ち残っていること自体は驚きではない。璃子はちゃんと動けているのだろうか、と心配になる。
昼食を食べに教室に戻る道すがら、体育館のそばで橋本の姿を見つけた。周りに女子の姿はなく、冷水機で水を飲んでいる。おれは少し躊躇ったが、翼に「先行っといて」と声をかけてから、橋本に駆け寄った。
「橋本」
冷水機から口を離した橋本が顔を上げる。首から下げたタオルで口元を拭い、「なに?」と怪訝そうな表情を浮かべた。同じバスケ部ではあるものの男バスと女バスは交流が薄く、橋本とはあまり会話をしたことがない。それでも、女子の中では話しかけやすい部類ではある。
「えーと。なんか、試合勝ってるみたいやん」
「ああ、うん。なんとか。香苗とかがめっちゃ頑張ってくれてる」
「……浅倉、ちゃんと動けてる?」
おれの問いに、橋本は口元をやや歪に吊り上げた。肩を竦めて「もうちょっと頑張ってほしいな」と答えた彼女の目は笑っておらず、なるほど塚原さんの言う通りちょっと怖い。璃子が萎縮してしまうのも無理はないと思う。おれも少々ビビってしまいそうになったが、意を決して切り出した。
「……あの、浅倉なんやけど、ゴール下でパス受けてシュートするくらいやったらできると思う」
「え?」
「できたら、ワンバウンドでパス出してやって」
おれが言うと、橋本は気の強そうな切れ長の目をぱちぱちと瞬かせた。
「彼氏なん?」
「は?」
「高梨、璃子ちゃんと付き合うてんの?」
おれは泡を食った。「違う!」と大きな声を出すと、橋本は「いやいや、そんな必死に否定せんでも」と笑う。夢の中で璃子の彼氏ヅラをしているぶん、その勘違いは余計に気まずい。
「おれ、浅倉にちょっとだけバスケ教えてやってたから。あの、拓海とかに頼まれて。せやから、まあ多少足引っ張らん程度にはなったんちゃうかなって」
「わかったわかった。ワンバウンドパスな」
おれの言い訳を軽くあしらうと、橋本はポニーテールを揺らして踵を返した。こちらに向かって手を振っている女子グループの元へ軽やかに走っていく。
ガラにもないことをしてしまったおれは、はーっと深い息をついた。女子と一対一で話すのはやっぱり緊張する。そういえば、昼休みに璃子と特訓したときはそうでもなかったな、と思い出す。毎晩のように夢の中で会話しているからかもしれない。
昼食を終えた後、おれは男子数人と連れ立って体育館に移動した。どこから見ようかと悩んでいると、よく見知った顔が得点板の横にぼんやり突っ立っているのが見えたので、おれは声をかける。
「おっすー、翔真」
同じバスケ部の友人である羽柴翔真だ。翔真はおれに気付くと「よ」と短く答えた。ちょっと驚くほどのイケメンではあるのだが、幅の広い二重瞼のせいかいつも眠たげに見える。実際、「バスケをしている時間以外はずっと寝ていたい」と言って憚らない省エネ男なのだが。
「なにしてんの?」
「暇やったら得点係しろって、
高田というのは男バスの顧問である体育教師だ。部活に熱心な良い先生ではあるのだが、部員にちょこちょこと雑用を押しつけるきらいがある。仕方ないのでおれも手伝ってやることにしよう。別に、特等席から女子の試合を観戦したい、などという下心がある訳ではない。
ピーッと鋭い笛の音が鳴り響き、審判の「始めまーす」の声とともに、選手たちがコートの真ん中に整列する。オレンジ色のビブスを着た璃子は、小さな身体をますます小さく丸めて立っていた。ゲーム開始のジャンプボールは、背の高いバレー部の榎本が飛ぶようだ。榎本が触れたボールは、橋本の元へと渡る。
「あれ、ハルトのクラスちゃう?」
翔真に訊かれて、おれはボールの行方を目で追いながら「うん」と答える。橋本からのパスを受けた榎本がシュートを決めたので、おれは得点板をめくって二点追加した。
試合はなかなかの接戦で、後半に差し掛かっても大きく点差は開かない。璃子はゴール下でオロオロしているだけだ。もうちょっと積極的に動けよ、と自分の試合よりもハラハラしてしまう。まるで我が子を見守る親のような心境だ。
璃子はおれの指示通り、ディフェンスにはほぼ参加せずボールと一定の距離を取っていた。ボールのあるところに集まるのは初心者の悪い癖だ。揉み合いになって零れたボールを拾った璃子が、まるで爆弾でも受け取ったかのように橋本にパスを出す。この試合で璃子がボールを触ったのは、これが初めてである。
試合終了まで三十秒を切った。相手チームのシュートが入って、翔真が得点板をめくる。ここへきて逆転を許してしまった。エンドラインからボールを受け取った橋本は、センターラインのあたりまでボールを運ぶ。
そのとき、ここまでまったく活躍できていなかった璃子が動いた。いつもおれのパスを受けていたゴール下へと走っていく。よし、いい位置取りだ!
「ま、茉莉花ちゃん!」
精一杯の璃子の声が、体育館に響く。それに気付いた橋本が、絶妙なワンバウンドパスを出した。隣で翔真が「ナイスパス」と呟くのが聞こえた。
胸の前に飛んできたパスをキャッチした璃子は、両手でボールを額の上に持ち上げる。しつこい指導の甲斐もあり、シュートフォームだけはそれなりに様になっていた。放たれたシュートは、ふわり、と弧を描く。ボールががつんとボードにぶつかり、ネットを通ってコートに落下した。
「よっ……しゃー!!」
思わずおれは大声で叫び、その場でガッツポーズをしていた。コートの中にいる璃子は、「やったー!」と嬉しそうに飛び跳ねて、橋本とハイタッチをしている。そのとき、試合終了のブザーが鳴り響いた。奇跡的な逆転勝利である。
「あれ! あのシュート、おれが教えてん!」
おれは興奮のあまり、隣にいる翔真の背中をバシバシと叩いた。翔真はおれのテンションにやや気圧されながら、「ああ、そう……」と答える。心底どうでもよさそうだったが、おれはそんなことを気にしている場合ではなかった。
「やったやーん、璃子!」
「ナイスシュート!」
逆転劇の立役者となった璃子は、チームメイトにもみくちゃにされている。勢いよく榎本に抱きつかれて、その場にひっくり返りそうになっていた。
ふと、こちらを向いた璃子と視線がかち合う。璃子は恥ずかしそうに微笑むと、控えめにピースサインを向けてきた。不意打ちの笑顔に心臓がどきりと跳ねる。おれは必死でポーカーフェイスを装いながら、ピースサインを返す。目が合っていたのは一瞬のことで、璃子はすぐ女子たちの輪に戻ってしまった。先ほど見たばかりの笑顔を反芻しながら、やっぱり璃子は笑った方がかわいいな、とおれは思う。
「ハルト、なにニヤニヤしてんの?」
……どうやらかなり表情が緩んでしまっていたらしい。隣の翔真に突っ込まれて、おれは慌ててピースサインを引っ込める。軽く咳払いをして表情を引き締めると、「なんもない」と誤魔化した。
「ハルくん!」
その夜、夢の中の璃子は目を開けておれの顔を見るなり、嬉しそうに抱きついてきた。突然飛び込んできた柔らかな感触に動揺しながらも、おれは彼女の背中を撫でる。
「今日、よかったやん」
結局あれから璃子のチームは準決勝で敗れてしまったが、充分健闘したと言えるだろう。試合が終わった後、おれはどうにかして璃子に声をかけられないかとタイミングを窺っていたが、二人きりになるチャンスも勇気もなかった。
「うん! ハルくんのおかげ」
璃子がニコニコとこちらを見上げる。昼間見たかわいい笑顔が、今はおれの目の前にある。そのことがなんだか無性に嬉しくて、おれは璃子を抱く腕にぎゅっと力を込めた。
「……ハルくん」
璃子はおれの胸を軽く押して、腕の中から逃れると、ベッドの上に正座して居住まいを正した。告白されたときもそうだったが、夢の中の璃子は改まった話をするときに正座する癖でもあるのだろうか。そういえば、現実の彼女は茶道部に入っていると言っていた。
「あの、特訓付き合ってくれてほんまにありがとう。私、球技大会楽しいって今日初めて思った」
「え? ああ、全然いいよ。大したことしてへんし」
おれの言葉に、璃子はぶんぶんと首を横に振って続ける。
「私、今まで球技大会とかめっちゃ嫌いで、いっつも目立たへんように隅っこの方でじーっとしててん。みんな私ができひんの知ってるから、邪魔だけはせんといてな、とか言われて。でも、ハルくんは最後まで諦めんと教えてくれたから。ありがとう……って、ほんまは今日直接言いたかったんやけど」
そう言って璃子がはにかむ。おれだって、彼女に直接言いたかったことがあるのだ。おれは璃子の目をじっと見ながら、がしがしと頭を撫でてやった。
「……おつかれ、璃子。がんばったな」
「……うん」
璃子が嬉しそうに頰を緩めた。その表情がかわいくて、おれはわざと乱暴に黒髪を掻き回す。「もう、ぐちゃぐちゃになる」と身を捩った彼女の腰を抱き寄せて、再び腕の中に閉じ込めた。強請るように目を閉じた彼女に吸い寄せられるように、唇を重ねる。
「……なんか、久しぶりやね」
短いキスの後で、璃子が照れ臭そうに言った。思えばここ最近は、夢の中でも球技大会の話ばかりしていたので、抱き合うのもキスをするのも随分と久しぶりだ。忘れかけていた欲がむくむくと湧き上がってくるのを感じて、おれは必死でそれをやり過ごす。
「ずっとちゅーしてほしかったから、嬉しいな……」
そう言って華奢な腕を首に回してくる璃子からは甘い香りが漂ってきて、なんだか頭がくらくらしてくる。現実の璃子も同じ香りがするのだろうか。これは夢だ、と自分に言い聞かせないとどうにかなってしまいそうだ。啄むような短いキスを繰り返しながら、おれの我慢ももう長くは持たないのではないか、と予感していた。
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