名前で呼んで

 硬いボールが跳ねる音が体育館から響いている。薄く開いた扉から、私はいつものようにこっそりと顔を出した。二面あるコートの手前側に、黒いTシャツを着た高梨くんの姿を見つける。速攻の練習をしているらしく、汗だくになりながらコートを走り回っていた。うちの高校のバスケ部はものすごく強いわけではないけれど、毎日朝練をやっている。きっと、顧問の先生が熱心なのだろう。みんな早起きするのは大変だろうけど、そのぶん私は朝からバスケをする高梨くんが見れるので幸せだ。

 初めて夢に高梨くんが出てきた日から、私は毎晩同じ夢を見るようになった。場所は毎回同じで、白い壁に囲まれたベッドしかない部屋だ。通常の夢よりもやたらと思考がクリアで、目が覚めた後も夢の内容をはっきりと覚えている。その夢の中では匂いも温度も、痛みでさえも明確に感じられる。まるで本当に、彼に抱きしめられているような気持ちになるのだ。

 最初こそ高梨くんが隣にいることにびっくりしていたけれど、最近はずいぶん慣れたもので、寝る前に「今日は高梨くんと何を喋ろうかな」なんてことを考えてしまう。我ながらちょっとやばいと思うけど、夢の中で高梨くんと話をすることはとても楽しい。

 あの不思議な夢の中で、私たちはいろんな話をした。私は高梨くんのことを結構調べていたつもりだったけれど、夢の中の高梨くんは私の知らない情報をたくさん教えてくれた。趣味はバスケとゲーム。好きな食べ物は餃子とラーメン、嫌いな食べ物はしいたけとトマト。お父さんは東京で単身赴任をしていて、今はお母さんと弟くんと三人で住んでいる。弟くんはふたつ年下の中学三年生で、なぜか自分よりモテるのがムカつく、と拗ねていた。もっとも、私の夢の中で聞いた話だから、これらの情報の信憑性は怪しいところだ。

 現実の高梨くんとは、なんとか頑張って挨拶だけはできるようになった。お昼休みに一度、近くの席の陽奈ちゃんや坂口くんたちも交えてウノをしたけれど、人数が多かったこともあり、高梨くんと直接言葉を交わすことはできなかった。せっかくチャンスやったのに! と香苗にまた叱られてしまった。

 レイアップシュートを決めた高梨くんが、くしゃっと顔を崩して笑う。それを見た瞬間、私の心臓はどきりと跳ねた。私は彼の笑顔が好きだ。あの笑顔が、夢の中では私だけに向けられている。


「あれ、璃子?」


 突然背後から声をかけられて、私はその場から飛び上がりそうになった。おそるおそる振り返ると、私の幼馴染である羽柴翔真はしばしょうま――通称翔ちゃんがそこに立っていた。眉を寄せて、怪訝そうな表情で私を見つめている。

 翔ちゃんは私と同じマンションに住んでいて、保育園の頃からの腐れ縁だ。「翔ちゃん」「璃子」と呼び合ってはいるものの、別にそれほど仲が良いわけではない。なんとなく子どもの頃からの呼び方を変えるタイミングがないまま、ここまで成長してしまっただけだ。それでも顔を合わせれば世間話くらいはするし、私にとっては普通に会話できる数少ない男の子だ。


「何してんの? こんなとこで」

「あっ、いや、その……」

「男バスの奴に用事? 誰か呼んでこよか」

「だ、大丈夫! しょ、翔ちゃんこそ、こんな時間にどうしたん? 朝練は?」


 翔ちゃんも高梨くんと同じバスケ部だけど、今は制服を着ている。翔ちゃんはやや気まずそうに「寝坊した」と答えた。


「今出てったら先輩にシバかれるかな……」


 そう言って翔ちゃんは、扉の隙間から体育館をこわごわ覗き見る。高梨くんもそうだけど、なんだか男バスの子たちはやけに先輩を恐れているみたいだ。私は運動部に所属したことがないので、体育会系の上下関係にはとんと疎い。私が所属している茶道部は先輩後輩の仲が良く、いつも和気藹々としているからよくわからない。

 やたらと整った翔ちゃんの横顔を見ながら、そういえばうちのクラスの女の子たちが翔ちゃんのこと噂してたな、と思い出す。背が高くてかっこよくてバスケも上手い翔ちゃんは、女の子からものすごくモテている。羽柴くんと幼馴染だなんて羨ましい、と言われることもしばしばだ。私は高梨くんの方がうんとかっこいいと思うのだけれど、どうやらその感覚は一般的ではないらしい。当の翔ちゃんは誰かと付き合うつもりはないらしく、どんなに可愛い子から告白されても全部断っているという話だ。「今は部活が忙しい」とは本人の弁である。


「ラスト五本! ちゃんと決めてやー!」


 体育館の中から高梨くんの声が聞こえて、私は再び扉の隙間に顔をくっつける。こんなに広いコートを延々と走り続けるのは、かなりしんどそうだ。穴の開くほどじーっと見つめていると、隣の翔ちゃんがぽつりと言った。


「そんなに好きなん?」

「え!?」

「バスケ」


 一瞬ギクリとしたけれど、翔ちゃんはかなり鈍くてちょっと天然だ。私の視線の先になど、まったく気付いていないらしい。私はこくこくと頷くと、「そ、そやねん! 面白いやんな、バスケ!」と答えた。

 きっかけは不純ではあったけれど、バスケを見るのが好き、ということ自体は嘘ではない。高梨くんを好きになってからバスケのルールも覚えたし、NBAやBリーグの試合もチェックするようになった。バスケ漫画もいろいろ読んでハマってしまった。あまり好きではなかったスポーツ観戦にも興味が湧いてきて、今は高校野球やワールドカップバレーも楽しんでいる。誰かを好きになるということは、自分の世界が広がるということなのだ。


「そうなんや。璃子がバスケ好きなんて知らんかったな」

「そんなことより翔ちゃん、そろそろ諦めて行ってきたら?」


 おそらく先輩に怒られるのが怖くて、こうしてだらだらと会話を引き伸ばしているのだろう。私の言葉に、翔ちゃんが小さく肩を竦めた。


「結局言い訳考えつかんかったわ」

「そんなら、寝坊したって正直に言うしかないね」

「しゃあないな。じゃあ行ってくるわ」

「うん、ばいばい」


 肩を落として体育館に入る翔ちゃんを見送ったところで、私はそろそろ教室に向かうことにする。本当はもう少しだけ高梨くんを見ていたかったのだけれど、幼馴染が叱られるところはあまり見たくない。それに、長居をして覗き見がバレてしまうのもまずい。私は誰にも見つからないよう、気配を消して足早にその場から立ち去った。




 その夜、私はいつものように、高梨くんと並んでベッドに腰を下ろしていた。私はチェックのパジャマ姿で、彼は半袖Tシャツの下にスウェットを履いている。どうやらこの夢では、寝るときの格好がそのまま反映されるらしいことに最近気がついた。高梨くんの前でかわいい格好をしたい気持ちはあるけれど、寝る前にオシャレをするわけにもいかないのが辛いところだ。

 私は高梨くんの肩にこてんともたれかかると、ぎゅっと腕を組んでみた。がっしりとした腕が私の胸のあたりにぶつかる。最初はぎこちなかったスキンシップにも次第に慣れてきて、毎晩のようにこうしていちゃいちゃしている。高梨くんが私の両肩をぐいと掴んだので、ちゅーしてくれるのかな、と思っていると、そのまま身体を引き剥がされた。


「ごめん浅倉。ちょっと離れて」

「……なんで?」


 悲しくなった私は、しゅんとして尋ねる。高梨くんは言いにくそうに口ごもった。


「いや、いろいろ我慢できんくなるというか……」

「我慢?」

「あーもう、気にせんでいいから。それにしてもこの部屋、ほんまになんもないんやな。ゲームでもあればいいのに」


 話題を逸らした高梨くんが、ぐるりと部屋を見回す。あるものと言えば巨大なベッドのみで娯楽の類は一切ないし、寝る前に枕元で充電していたはずのスマホもない。暇を潰すにはちょっと不向きな空間だ。とはいえ私にしてみれば、高梨くんとお喋りしているだけで充分楽しいのだけれど。私は高梨くんの顔を覗き込むと、にんまり笑って言った。


「じゃあもっと恋人っぽいことせーへん?」

「え!? そ、それってどういう……」


 動揺したように高梨くんの視線が泳ぐ。私は小首を傾げて続けた。


「ほら、彼氏おる子が男子のネクタイつけたりしてるやん? ああいうのちょっと憧れる」


 せっかく夢の中では恋人同士なのだから、私ももうちょっとこの状況を満喫してみたい。高梨くんは「ああ、そういう系……」と呟くと、やや残念そうな表情を浮かべて頭を掻いた。

 もし高梨くんと付き合えたなら、と夢想したことは何度もある。高梨くんの部活が終わるのを待って、一緒に帰ったり。バスケの試合に応援に行ったり。休みの日には二人で四条で買い物をしたり、京都水族館でデートしたり。夏になったら祇園祭にも行きたい。しかし、どれもこれもこの夢の中では叶えられそうにないことばかりだ。私はしばらく考えた後、おずおずと提案した。


「……その。名前で呼ぶ、っていうのは?」


 私のことをファーストネームで呼ぶ同世代の男の子は、今のところ翔ちゃんただ一人だけだ。できれば高梨くんにも下の名前で呼んでほしいし、私も呼んでみたい。高梨くんは「わかった」と言ったきり言葉を発することなく、唇だけをぱくぱくさせている。


「……高梨くん。私の名前知ってる?」


 軽く睨みつけてみると、高梨くんは慌てふためいた。


「そ、そんくらい知ってるに決まってるやろ! そっちこそ、おれの下の名前知ってんの」

「当たり前やろ! は、遥人くん、やろ」


 そう口に出しながら、現実の私ならこんなにあっさりと彼の名前を呼べなかっただろうな、と思った。夢の中の私は、普段よりもちょっとだけ大胆になれるらしい。


「呼び捨てでええよ」


 彼はそう言ったけれど、呼び捨てはちょっとハードルが高い。私は思案の末「……ハルくん、っていうのは?」と提案した。彼は細いつり目をぱちぱちと瞬かせる。


「誰もそんな呼び方せーへんけど」

「その方が特別感があっていいかなって」

「ふーん。そんなら、まあええか」


 私はハルくんのTシャツの裾を握りしめると、「私のことも」と強請ってみる。彼はしばし躊躇っていたけれど、やがてくるりとこちらを向いて、意を決したように口を開いた。


「……璃子」


 璃子。噛み締めるように繰り返した声が、私の耳に届く。その瞬間、ぶわっと顔面に血液が集中した。


「ぎゃー!」


 恥ずかしさのあまり、私は枕に突っ伏する。うわあ、翔ちゃんに呼ばれるのとは全然違う! 好きな人に呼ばれる自分の名前が、こんなにも甘く響くなんて今まで知らなかった。じたばたと悶えていると、私の耳に顔を寄せたハルくんがそっと囁いてくる。


「璃子」

「ちょ、ちょっと待って……あかん、キャパ超える」

「たかが名前でそんな……」


 ハルくんは呆れたような声を出したけれど、私は顔を上げることができない。きっと今、すごくだらしない顔してる。


「璃子、こっち向いて」


 そう言って私の肩を揺するハルくんの声には、ちょっと面白がるような響きが含まれていた。私がゆっくりと枕から顔を上げると、にやにや笑いを浮かべた彼の顔が間近にある。愛おしそうに頰を撫でられて、そのまま唇を塞がれる。軽く重なった唇が離れた刹那、私は「幸せすぎて死んじゃう」と呟いた。

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